88話 熱
半年後。
夏。
空気が重い。
蝉の声がうるさい。
だが。
対局室は静かだ。
水瀬遥。
三段。
盤の前に座っている。
対面は四段。
年上。
経験も上。
普通なら。
格上。
でも。
その空気はない。
初手。
パチ。
遥は迷わない。
中盤。
分岐。
増えた将棋。
選ばせる。
揺らす。
相手の指が止まる。
「……なんやこれ」
小さく漏れる。
遥は何も言わない。
終盤。
形勢は互角。
いや。
少しだけ遥が押している。
四段の男の呼吸が浅くなる。
「くそ……」
読みが合わない。
選択肢が多すぎる。
そして。
決め手。
パチ。
静かな一手。
逃げ道を消す。
数手後。
「……参りました」
遥は一礼する。
立ち上がる。
表情は変わらない。
でも。
少しだけ。
楽しそうだ。
廊下。
数人の棋士が小声で話している。
「また勝ったらしいで」
「四段相手に?」
「最近やばないか」
「三段やろ、あいつ」
ざわつき。
名前が出る。
水瀬遥。
もう。
“ただの三段”ではない。
別の場所。
相川恒一。
盤の前。
一人。
並べている。
遥の棋譜。
最新のもの。
パチ。
パチ。
手が止まる。
「……ここで、それか」
予想と違う。
いや。
予想を外してくる。
「……読ませて、外してる」
小さく呟く。
少し前までの遥ではない。
明らかに変わっている。
恒一はしばらく黙る。
そして。
ぽつり。
「……めんどくさいな」
だが。
その目は。
笑っている。
「ええやん」
駒を動かす。
パチ。
「やっと、遊べる」
夜。
外。
黒田律。
壁にもたれている。
煙草。
火をつける。
一口。
吐く。
煙が夜に溶ける。
誰かが話しかける。
「最近、若いの強いですね」
律は答えない。
もう一口。
そして。
ぽつり。
「……水瀬か」
名前を出す。
珍しい。
「三段で、あそこまでやるんか」
少し笑う。
「壊しに来てるな」
楽しそうだ。
完全に。
楽しんでいる。
「……ええやん」
煙を吐く。
「つまらん空気、変えてくれる」
その目は。
もう。
“外から見ている人間”の目ではない。
少しだけ。
中に戻っている。
別の日。
研究会。
若手と上位棋士が混ざる場。
遥の名前がまた出る。
「次、当たるかもしれん」
「嫌やな……」
笑いながらも。
本音。
「普通に負けるで、あれ」
冗談じゃない。
現実味がある。
その頃。
水瀬遥。
一人。
盤の前。
変わらない。
パチ。
パチ。
考える。
止まらない。
四段ではない。
でも。
届き始めている。
その背中は。
もう“追う側”ではない。
同じ空の下。
相川恒一。
黒田律。
それぞれが盤に向かう。
そして。
同じことを思う。
「……来てるな」
まだ交わらない。
でも。
確実に。
距離はゼロに近づいている。
物語は、
静かに、
熱を帯びていく。




