最終話 伝説は、ここから
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これは、終わりの物語ではなく、ひとりの英雄が、多くの人の心に生き始めるまでの話なのです。
あまりの唐突さに、言葉を失う。しかし、行信は返事を待っている。
「死ぬなどと……そんな……」
ようやく言うと、行信は真剣な表情のまま言った。
「お隠しにならないで下さい。月影どののしていることは、分かっております。御大将が北へ向われるのなら、影武者は必要でしょう。心構えをしなくてはなりません。いつ、どのようにして死ぬのが一番いいのか、教えていただきたいのです」
それに答えずに訊いた。
「北へ向かうことは、御大将がお話しになったのか?」
「いいえ」
行信は首を横に振った。
「それでは……」
「誰からも聞いておりません。ですが、様子で分かります」
「そうか」
行信は、返事を待っている。答えるしかない。
「御大将は、杉目を死なせるつもりはない。もちろん、私もだ」
「しかし、偽首は必要でしょう」
「どこかで死体を見つけてくる」
「それで、鎌倉の頼朝さまを納得させられますか?」
「館に火をつけて焼け首にすれば、大丈夫だろう。平泉から鎌倉まで運ぶ間には、ある程度腐敗もするだろうし……」
行信は、ふっと微笑んだ。驚くほど、澄んだ微笑みだった。
「月影どのとも思えない、ずいぶん杜撰な企てと思いますが……」
「だからといって、生きている人間を犠牲にはできない!」
思わず叫んでいた。行信は、微笑みを消さずに言った。
「私は、十九歳の時から十三年あまり、御大将の影武者として生きてきました。ここで死ななければ、杉目行信の生きている価値はなくなります」
「そんなことはない。杉目ほどの武士ならば、郎等の一人として充分に力を発揮できるはずだ。御大将の北への旅は、かなり苦しいものになる。今、郎等は二十人足らず。杉目に抜けられるのは、御大将にとっても痛手だ」
「理にかなわないことをおっしゃる」
行信は、穏やかに言った。
「北への旅が厳しいものになるのは、鎌倉の追手が来るからでしょう。確かに源義経は死んだと鎌倉が確信すれば、旅は楽になるはず。そのためには、この行信が死ぬのが一番だと思いますが」
「御大将が、お許しにならない。私が北へ向かう話をしたときも『杉目を死なせることはできない』とおっしゃっていた」
「御大将のお考えは、十九歳の時から知っております。影武者などいらぬと常々おっしゃっていましたから。私は、死ぬときにお許しをいただこうとは思っていません」
話をしていくうちに、なぜ美野が行信に惹かれたのか分かったような気がした。穏やかで静かな口調ながら、きっぱりとした意志を持つ。これほどまでに自制心の強い人間を見たことがない。
知れば知るほど、行信を死なせたくないと思う。だが、同じように、知れば知るほど、行信の意志を変えさせるのは至難の業だということも分かる。卑怯かもしれないと思いながら、最後の切り札を出した。
「杉目が死ねば、美野さまが悲しむ……」
終始穏やかに微笑んでいた行信の表情に、悲しみの色が見えた。その辛そうな表情に、美野の名を出したことを後悔した。
「お方さまは、心優しく、慈愛に満ちた、清らかなお方……。御大将の御正室にふさわしい……」
「そんなことを、美野さまが望んでいると思うのか? 美野さまは……」
そこまで言って、はっとした。
数日前に美野が言っていたことを思い出したのだ。
美野は言っていた。
「私にもしものことがあったら、雪野をお願い。あなたが雪野の母親代わりになって……」
美野は知っていたのだ。行信が、ここで影武者として死ぬつもりでいることを。そして、行信が死ねば美野も生きていくつもりはないのだろう。
「おまえが死ねば、美野さまも生きてはいない」
そう言うと、行信は大きく目を見開いた。その唇が細かく震える。しかし、行信はきっぱりと言った。
「そんなことは、させません」
そして、床に手を突いた。
「お願いがあります」
「私に?」
「はい。その時が近づいたら、私を美野さまに会わせて下さい。二人で話せる機会を作ってほしいのです。美野さまに生き延びてくれるよう、私からお願いをいたします」
月子が何を言っても、行信の決心を変えることはできないだろう。もし、変えることのできる人がいるとしたら、それは美野以外にはない。美野ならば、行信の考えを変えさせることができるかもしれない。
「分かった。その時が来たら、必ず機会を作る。ただし、忘れないでくれ。御大将も、私も、杉目が影武者として死ぬことを認めたわけではない」
行信はそれには答えなかった。
「ありがとうございます」
と頭を下げると、彼は部屋を出て行った。
そして、その日が近づいたとき、月子は行信との約束を守った。
いつも、忠信と過ごしていた隠れ家に二人を案内した。行信と美野が二人だけの時間を過ごせるように。
その一夜――。
行信が美野に何を語ったのか。
美野が、行信に何を訴えたのか。
そして、二人がどのように最後の一夜を過ごしたのか。
月子は知らない。だが――。
月子は、衣川に浮かぶ船の中から、焼け落ちる高館を見つめていた。夜空を焦がす炎は赤々と燃え、星の光さえ消えるようだった。
義経は同じ船の中で、同じ炎を見つめている。
「本当にこれでよかったのだろうか?」
つぶやくように義経が言った。
雪野は、月子の腕の中にいる。しかし、行信と美野は船の中にはいなかった。二人は、あの炎の中にいるのだ。
隣に立っている忠信の嗚咽が聞こえる。忠信にとってもまた、杉目行信はかけがえのない仲間だったのかもしれない。
他の郎等たちも、一様に泣いていた。
「杉目と美野……二人の命を犠牲にして生きるほど、私の命に価値はあるのだろうか?」
その時、突然頭にひらめいた。二十一世紀に残る、あの数えきれないほどの義経伝説。
そのひらめきを、そのまま口にする。
「いいえ! 御大将は生き続けなければならないのです」
自分の声が、自分のものでないように、夜の闇に響くのを聞く。
「御大将は、もうただの一人の武将ではなくなっているのですから」
「一人の武将ではない?」
義経はきき返した。
「そうです」
心の中に湧く言葉を、そのまま口に出す。自分が話しているのではなく、何かが「月子」の身体を通して語っているような感覚。
「源九郎義経という存在は、もう御大将一人のものではありません。幼くして父を失いながらも、逆境をのりこえ力強く優しい若者として育った一人の武将。その武将は、天才的な戦略で父の仇を打ち破る。多くの民衆や公家の信頼を得ながら、兄の誤解から、流浪生活を強いられた悲劇の武将……源義経は生き続けなければならないのです。衣川などで、藤原泰衡ごときに倒されてはならない。生き続けて、この天下を生きるすべての民の心を支える英雄であり続けなければならないのです。これから先、何百年も、義経さまの名前は、生き続けるでしょう……佐藤三郎継信も、河越重頼、重房父子も、そして杉目小太郎行信も、源九郎義経の名が生きている限りは、決して死ぬことはないのです」
義経は、じっと月子を見ていた。泣いていた郎等たちも、いつのまにか泣きやんで、話を聞いている。
やがて義経は言った。
「……生き続けることが、私の使命か……」
「はい」
「もし、そうならば、月影が私のもとに来たのは、天の配剤だったのだろう」
義経はさっと顔を上げた。涙の跡は、もうなかった。澄んだ瞳を空へ向け、あのよく通る凛とした声で言った。
「杉目や美野の死を、無駄にしないためにも、我々は生き続けねばならない。我々は争いの多いこの国を離れ、蝦夷へ行く。そして、遥かな大陸を目指す。九郎義経の生きる地は、この狭い本朝ではなく、広々とした荒野の続く、大陸だ!」
「おう!」
誰が合図するでもなく、郎等たちは力強く声を合わせ答えていた。
昇り始めた朝日は、衣川の川面に映えて、きらきら輝いていた。
一行は準備していた経路をたどり、北上した。
忠信が忠衡の叔父である板橋長治に頼んで建てておいてもらった館に入ったのは、その年――文治五年――の秋の終わりだった。
冬に船出はできない。この館で春を待つことになった。
そんなある日、増尾十郎兼房が義経に願い事を申し出た。
「神社を建てて下さい。美野さまと、杉目のために……」
「それは、かまわないが……何故?」
義経は兼房の真意を図りかねて言った。
「残念ながら、私はもう老齢の身。これからさらに北への旅は、足手まといになるばかり」
「そんなことはない」
義経が言うと、忠信ら郎等も同調した。
「兼房どの。何をおっしゃる」
「まだまだ、達者ではないか」
兼房は、首を横に振った。
「老人や子どもは、この旅にはついていけますまい。私も……そして雪野さまも」
「私は、雪野のことを……」
義経は、声を荒げた。しかし、兼房は最後まで言わせなかった。
「存じております。御大将が、雪野さまのことを大切に思われていることは……。けれど、御大将とともに北に旅することが、はたして雪野さまの幸せでしょうか?」
義経は、何も言えなかった。
「男子であったなら、御大将とともに北へ……さらに大陸へ渡ったとしても、武将として生きる道もありましょう。けれども、雪野さまは女子。辛い旅をするよりは、ここにとどまり、やがてはよい夫に巡り逢い、穏やかに暮らせれば、その方が幸せなのではないでしょうか。美野さまも、きっとそれを望むはず……」
兼房は、涙声になっていた。
「私は、美野さまの父上・河越太郎重頼さまより『美野を頼む』と申し遣っておりました。にもかかわらず、美野さまを守ることができなかった」
「それは、兼房の罪ではない。すべては、この私が……」
義経が言った。
「美野さまは、誰も恨んではいないでしょう。そういうお方です」
兼房は言った。
「美野さまがかなえられなかった夢を、せめて雪野さまにはかなえてほしいのです」
「それでは、兼房は……」
「ここにとどまり、美野さまと杉目の菩提を弔いながら雪野さまをお育てします。老体ではありますが、雪野さまが成人され、よい夫に巡り会うまでは、何があっても死にはいたしません。お許し願えますでしょうか?」
義経は、頭を下げて言った。
「よろしく頼む」
春になり、兼房は、館の近くに建てられた神社の宮司におさまった。そして、義経一行は、十三湊に旅立った。
義経一行は十二人になっていた。
源九郎義経
泉三郎(藤原)忠衡
佐藤四郎忠信
伊勢三郎能盛
片岡八郎弘経
亀井六郎重清
鈴木三郎重家
鷲尾三郎義久
常陸坊海尊
備前平四郎
熊野喜三太
月影(平月子)
安東秀栄は、約束どおり船を用意してくれていた。船は、十三湊よりさらに北の三厩に停泊しているという。
安東秀栄の館で準備を整え、一行はさらに北をめざした。
三厩まで着き、明日はいよいよ蝦夷へ渡るという日の夜のことだった。
忠信に呼び出され、海辺へ出た。月は空高く昇り、海にその影を映していた。
忠信は何も言わずに月子を抱き寄せた。そして、月子も素直に忠信の胸に身体をあずけた。
波の音を聞きながら、忠信がいつもと少し違うことに気づいた。今日の忠信はいつも以上に優しい。
まるで、こわれやすい宝物を扱うように触れていく。何か変だと感じながらも言い出せず、忠信の望むままに彼を受け入れた。
忠信の胸の中でまどろみかけたとき、彼は口を開いた。
「月子……」
言われてみて、はじめて気づいた。浜辺で抱きしめられたときから、忠信が無言だったことに。これが、今夜初めて忠信が口にした言葉だった。
次の言葉を待っていると、忠信は月子を見つめて言った。
「……俺は明日、御大将と一緒に船には乗らないつもりだ」
予想外の言葉に驚き、忠信の胸から身体を起こした。
「……冗談だろう?」
「いいや、本気だ」
「何故?」
忠信はそっと月子の身体をはなし、海に向かって立った。
「おまえだって気づいていたはずだ。もう、奥州から北の地では、源義経は生きているという噂が広まっている。鎌倉が、運ばれてきた首級に疑問を抱いているという情報もある」
「ああ」
それは確かなことだった。畠山重忠が、義経追討のために鎌倉を発ったという噂まである。
「杉目行信が、命までかけたのに……」
そう言うと、唇をかんだ。偽首だと疑われてしまったら、行信が死んだのが無意味になってくる。
「いいや」
忠信は振り返り言った。
「杉目は正しかったのだ。あれが御大将とは似ても似つかぬ首級だったら、鎌倉からの追手は今とは比べものにならないほど厳しくなっていただろう」
「確かに……」
「だが、鎌倉が、そう簡単にあきらめるとは思えない。追討使は、必ずやってくる。調べれば、御大将の足取りは簡単に分かってしまう。それでは、無事に大陸までたどり着けない……」
「……それで?」
「だから、俺が御大将の影武者になる。この辺りの者は御大将の顔を知らないのだから、杉目ほど似ていなくても大丈夫だろう」
「……まさか、死ぬ気では?」
声はふるえていた。忠信は大声で笑った。
「死んだら、役に立たない。月子ともあろうものが、まだ分からないのか。俺が御大将のふりをして、この辺りや、蝦夷の地のあちこちを歩き回れば、御大将の行方がごまかせる。その間に、御大将には無事に大陸に渡ってもらう」
「御大将には?」
「まだ話してない。明日、話す」
「お許しにはなるまい」
「お許しなど、あってもなくても、俺は思った通りにやる」
言い方はあっさりしていたが、てこでも動かないだろう忠信の固い決意を感じた。
だから、月子も決意した。
口元に浮かびそうになる微笑みを抑えて、忠信の顔を見上げる。
「ひとつ、問題がある」
「何だ?」
「いくらこの辺りの人間が知らないとは言え、忠信が御大将のふりをするには、容姿の点で問題がありすぎる」
「どうせ、俺は醜男だよ」
忠信は、海の方に向き直った。
「それでも何でも、やらなければならないだろう」
手を自分の頭にやり、高く結い上げていた髪の元結をほどく。髪がはらりと肩に落ちる感触。
忠信が振り向いた。
「どうした?」
「髪を下ろせば、まだ女に見えるだろう?」
「当たり前だ……どうした、急に?」
忠信はふたたび、月子の横に座った。
「京の公家たちは、平時忠の娘は、源義経の妻になったと思っている」
「おまえが、そう言ったんじゃないか」
忠信は、不機嫌そうに言う。
「なんだ、そんな昔のことでまだ怒ってるのか?」
「怒ってなんかいない」
忠信の顔をのぞき込む。
「そうかな?」
忠信は、視線をはずして言った。
「それが、どうしたんだ?」
「平月子がそばにいれば、忠信の偽義経も、少しは本物らしくなる……と言っているのだ」
「ついて来る……と言うのか?」
「無理にとは言わない。おまえが、いいやっかい払いができると思っているなら、遠慮するが……」
笑って言ったが、忠信は笑わなかった。そして、足元の砂を見つめながら言った。
「俺についてきたりしたら、もう御大将の郎等として働けなくなる。それでもいいのか?」
「もう、私の役目は終わった。これ以上の未来は、私には見えない」
忠信は、驚いた顔をして振り返った。
「おまえ……月子は、やはり未来が見えていたのか?」
「衣川合戦あたりまでは……」
「この……うそつきが!」
忠信の声が、怒りを含んでいるのを感じて、すばやく立ち上がり、海に向かって走った。
忠信が追いかけてくるのが分かる。波打ち際に行く前に忠信に追いつかれ、後ろから抱き締められた。
「さあ、ちゃんと話せ。どうして未来が読めるのか……」
それに答えずに言う。
「約束の二年は過ぎている。私を妻にしてくれるのではなかったのか?」
忠信の腕がゆるんだ。
「月子……」
その隙に身体を回転させ、忠信の胸に顔をうずめた。
「それとも、もうその気はないか?」
「月子!」
忠信は強く抱きしめてくれた。それ以上の答えはいらない。忠信の胸の中でささやいた。
「長い旅になる……けれど、誰も邪魔するものはいない。ゆっくり話す、今までのことを……」
* * *
「え?」
朋人は、画面をじっと見つめた。
波打ち際で抱き合う二人の映像が、雑音とともに、途切れ途切れになっている。
「なんで?」
色々調節してみたが、いっこうに改善されない。
いわゆる「砂嵐」の画面が次第に多くなる。
「どういうことよ?」
画面に問いかけてみても、いつものような文字も現れない。
そして、ほどなく、画面は砂嵐しか映さなくなった。
はっとして、機械の隣に横たわる月子を見る。
「! 月子……」
……月子は――。
朋人は、ふっとため息をついた。
「まあ、いいか。月子は忠信クンと、幸せになったんだから」
* * *
翌朝、義経たちの乗った船が出ていくのを、忠信と二人、浜辺で見送った。
女姿に戻った月子を見つめる他の郎等の視線に、忠信はあからさまに嬉しそうな様子を見せる。
やめろと言おうかと思ったけれど、長い間の忠信の我慢を思って許すことにする。
本音を言えば、月子の方もまんざらではなかったから、わざと忠信に寄り添うような仕草を見せたりもした。
その仕草に忠信は満足して、そっと指を絡めてくる。そして、そのまま、船が見えなくなるまで浜辺に立っていた。やがて、忠信が言った。
「行こうか、月子」
「まず、どちらへ?」
くすくすと笑いながら答える。そんな場合ではないのに、まるで遠足に出かける子どものようにわくわくする気持ちを抑えることはできなかった。
「まずはこの辺りをひとめぐり、その後は蝦夷へ」
「はい。判官さま」
忠信と歩き始めながら、月子は思った。
『私たちの一歩が、源九郎義経という英雄の一歩になる。私たちもまた、義経伝説を作っている。私の歴史への挑戦の勝敗はまだ分からない。もし私が、はるか西の広大な草原の中にもう一度あの姿を見ることができたなら、きっとそれが私の勝利の時なのだ』
終
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
源九郎義経は、史実の中ではここで命を落とします。
けれど、本作では――「伝説として生き続ける道」を選びました。
もしこの物語が、あなたの中の義経像を、ほんの少しでも揺らしたなら、それ以上の喜びはありません。
引き続き、雪月花義経抄シリーズ第2作となる「桜恋抄ー影に生き、影に死すー」の連載を開始します。月子も少しですが、登場します。読んでいただけると幸いです。
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改めて、ここまでお読みくださりありがとうございました。




