30 決断を待つあいだに
ご訪問ありがとうございます。
守りたいものが増えるほど、決断は、遅く、重くなります。
それでも、選ばなければならない夜が、近づいています。
次回、いよいよ最終話です。
ここまでお付き合いくださった皆さま、本当にありがとうございます。
最後までお楽しみいただければ幸いです。
安東秀栄は、船の手配を快く引き受けてくれた。それは、忠衡の手紙の力でもなく、源義経の名の力でもなかった。
「この奥州の地を守り、また源義経という一人の名将の命を救うため、なにとぞお力をお貸し下さい」
そう言って頭を下げた忠信に、秀栄は言ったのだ。
「佐藤四郎忠信の名は、あなたが義経どのの郎等になる以前より、耳に入っていました。その忠信どのがそこまでおっしゃるのなら、まやかしであるはずもない。私にできることならば、どんなことでもお力になりましょう」
帰り道に言ったつぶやきを、忠信は聞き逃さなかった。
「最初から、忠信について来てもらえば、もっとずっと楽だったのに……」
「まったくだ。そうすれば、俺だって、平泉であんなにいらいらせずにすんだんだ」
「自業自得だと、思っているんだろう」
忠信は、にやっと笑った。
「これで、少しは俺のありがたみが分かっただろう」
素直にうなずいてみせる。
「すまなかったと思っている。これからも、よろしく頼む」
頭を下げると、忠信は驚いたような顔をした。
「何だ。気持ちが悪いな」
「気持ちが悪い?」
「ばかに素直じゃないか。皮肉のひとつも返ってくると思っていたのに……月子らしくもない」
「皮肉を言った方が、いいのか?」
笑いながら訊いてみる。
「そうは言ってない。そりゃあ、素直な方がいいに決まってるが……何か、魂胆があるんじゃないだろうな?」
「気づかれてしまったか」
そう言うと、忠信はあきれたように笑った。
「やっぱり、魂胆があったのか……」
「実は、もう一人会って欲しい人間がいるんだ」
「誰だ?」
「五日ほど前に通ったところに、板橋長治という人がいただろう?」
「ああ、忠衡どのの叔父に当たると言っていた」
「あの人に、館をひとつ建ててもらってくれ」
「おまえなぁ……」
忠信は立ち止まり、振り返った。
「ずいぶん、簡単に言うじゃないか。だいいち、館なんて建ててどうするんだ?」
「十三湊は、冬には船出ができない。危険すぎる。もし、冬にこの地に来たら、春まで待たなくてはならない。その間に住める場所が必要だ。長い間、人の家に世話になるわけにはいかない」
「それは分かるが、どうしてあの人なんだ?」
思い出し笑いが浮かぶ。
「あの人は、さかんにおまえのことを褒めてたじゃないか……剛勇の誉れ高い、佐藤四郎忠信どのにお会いできて光栄とかなんとか……おまえが頼めば、嫌とは言わない」
「……分かった。しかし、前の旅について来なくてよかったのかもしれぬ。こんなに人使いが荒いとは思わなかった」
「こんなのは序の口だ。もっともっと働いてもらわなくては」
そう言って、走り出した。
「月子!」
忠信は、怒った顔をして追いかけてくる。だが、月子は知っている。怒ったふりをしていても、忠信の目は笑っていることを。
『昔どおりの忠信だ』
走りながら、自分の心が幸せで満ちてくるのを感じていた。
平泉に戻ってきたときには、季節は冬を迎えていた。
高館で月子たちを迎えた義経は、淋しげな笑顔を見せて言った。
「おまえたちが発ってから、何度も思った。忠信を行かせたのは間違いだったかもしれないとな」
「え?」
不審げな顔をする忠信に、義経はからかうように言った。
「忠信にとってはその方がよかっただろうが、私の不安は深まった。このまま、二人で、手に手を取って駆け落ちでもされるのではないかと思ってな……」
「御大将!」
月子と忠信は、同時に叫んでいた。義経は、笑って言った。
「冗談だ。おまえたちに限って、そんなことをするはずがない。ただ……そうしてくれた方がよかったのかもしれない。こんな、先の見込みのない主に仕えるよりは、二人で幸せになってくれた方が……」
「御大将!」
忠信が怒った顔をして言った。
「お気弱なことを、おっしゃってはいけません。御大将がそんなご様子では、月影の春からの努力が無駄になってしまうではありませんか。この度、同道して、月影がどんなに苦労をして北への道を作ったか、俺にはよく分かりました。その月影の気持ちが、おわかりにはなりませんのか」
「忠信……」
袖を引いて、彼の言葉を止めようとした。忠信は今にも義経につかみかかりそうな勢いだったから。
「分かった。いや、悪かった、忠信……」
義経は静かに言って、頭を下げた。
その態度に月子はあわてたのだが、忠信はさらに強い調子で言った。
「謝るのなら、俺ではなく、月影に……」
「忠信!」
抗議の言葉を口にする前に、義経は口を開いた。
「すまなかった、月影。許してくれ」
そして、もう一度頭を下げた。
「御大将……」
気弱になるのも無理はないと思う。「義経追討」の院宣は、春のものよりさらに強い調子になって、この平泉に届いている。
月子がいろいろな行動をとれるのは、先の見通しがあるからだ。義経には、一寸先も見えない状態。時に気弱になったり、絶望的になったりしても、仕方のないことだろう。
「しかし、これで一安心だ。おまえたちの姿が見えないと、何かとても不安でな……」
そう言って義経は微笑んだが、それは頼りないくらい淋しげだった。
もっと気力を取り戻してもらわなくては、うまく行くものもだめになる。そして、月子は気づいていた。義経が気力を取り戻すには、「戦の天才」の心に火をつけるよりほかはないことを。
「泰衡さまたちの動きは、どうですか?」
そう尋ねてみる。
「はっきりしない。國衡どのは相変わらず好戦的で、平泉で旗揚げするのと同時に京でも反旗を翻せないかと言ってきた」
「挟み撃ち……ということですか?」
忠信が訊いた。
「そうだ。しかし、今の京に私の味方はいない。叡山の悪僧たちに連絡を取ってみたが……あまり期待は、できないだろう」
「また、そんなお気弱な……」
忠信が言うと、義経は笑った。
「大丈夫だ、忠信。名に恥じるようなことはしない。戦うべき時には、精一杯、戦う」
その笑顔は、ずいぶんと力強いものになっていたので、ひとまず安心をした。
文治五年が明けた。
義経にとって、事態は悪い方向にばかり進んでいた。
義経が連絡を取っていた叡山の悪僧が京で捕らえられ、挟み撃ちにしようという國衡の計画は泡と消えた。
しかし、これは、義経にとっては予測できたことのようだった。京での自分の立場を一番よく知っているのは、義経だったから。
義経に一番の打撃を与えたのは、藤原兄弟の四男・頼衡の死だった。
頼衡の死は、月子にとっても衝撃だった。彼が、泰衡の差し向けた刺客に殺されることは知っていた。しかし、それは二月十五日のはずだった。だから、その少し前に手を打とうと思っていた一月末に、ことは起きてしまった。
自分の記憶違いか、史実が間違っていたのか。それとも、歴史が変わり始めている証なのか……月子には判断がつかなかった。
どちらにしても自分のミスだ。月子は歯がみしたが、もう取り返しはつかない。
頼衡を自分の弟のように思っていた義経の悲しみは深く、このときばかりは、泰衡に詰め寄った。
「なぜ?」
と。
すると、泰衡はすげなく答えた。
「身内同士の私的な理由によるもの。他人の義経どのには、関係がない」
そして、その言葉は頼衡の死と同様の衝撃を、義経に与えた。
「他人の義経」
藤原の四兄弟を実の兄、弟のように思っていたのは、義経だけで、少なくとも泰衡にとっては「他人」だったのだと。
月子には理由が見えていた。
頼衡は親義経派で、院宣へはっきりとした返事をしない泰衡を、非難していた。泰衡は、それを疎ましく思っていたのだろう。そして、義経にもそれはわかったはずだ。
「私のせいだ」
高館に戻ってきた義経は、目を血走らせて言った。
「頼衡どのは、私に味方したために……」
月子にも、忠信にさえも、慰める言葉は見つからなかった。義経は言った。
「なぜだ? なぜ、兄が弟を殺す。母親が違うとはいえ、血を分けた兄弟だ。なぜ弟を、それほどまでに憎む」
それは、泰衡と頼衡のことを言っているのだが、月子には頼朝と義経の関係を言っているように聞こえた。
「教えてくれ、忠信。兄弟というものは、憎み合うのが普通なのか? おまえと継信のような兄弟は、稀だというのか?」
忠信は、答えられなかった。そして、救いを求めるように、月子を見た。月子は、仕方なく口を開いた。
「泰衡どのは、心をお決めになったのでしょう。院宣に従うと」
義経は、黙って次の言葉を待っている。
「奥州藤原氏が、鎌倉に反旗を翻すことは、もうないと存じます」
「私に、北へ逃げろと?」
「はい」
義経は、しばしの沈黙のあとに言った。
「すまない。月影にあれだけの苦労をかけながら……まだ決心がつかない」
「御大将……」
忠信が何か言いかけるのを制した。
「お気持ち、お察しいたします。どうぞ、心ゆくまでお考え下さい」
義経は、眉をひそめて言った。
「心ゆくまで……? 私に、そんな時間があるのか?」
黙ってうなずいてみせる。泰衡が高館を攻めるのは、閏四月三十日、三か月以上の時間がある。もっとも、その前に……と思い出し、義経に言った。
「忠衡どののお命が、危ないかもしれません」
「忠衡どのの?」
「はい。頼衡どのの二の舞になるかもしれません」
親義経派であった忠衡は、頼衡と同じように泰衡に殺される。ただ、その時期がはっきりしない。衣川合戦――つまり義経の死よりも前だったという説と、後だったという説がある。
これは、前だと思って用心しておいた方がいい。
「どうすればいい?」
義経は訊いてきた。
「御大将のお側に……高館に住んでもらわれるのが一番かと」
高館にいれば、泰衡軍に襲われても例の経路で北へ逃がすことができる。
「分かった」
そう言うと義経は立った。
「なるべく早く、結論を出す」
「大丈夫なのか?」
義経が出て行った後で、忠信は言った。
「時間があるとおまえは言ったが……頼衡どのも殺されたのだぞ。明日にも、泰衡軍が攻めてくるかもしれない」
「分かっている。もちろん、今すぐ北に向かった方がいい」
「ならば、なぜ、御大将にそう言わない?」
「あの方は、情を大切にする。世話になった人を、自分から裏切ることはしない。頼朝どのとのことを見ていれば分かるだろう? どんなに冷たくされても、頼朝どのの口から『勘当』の言葉が出るまでは、自分から進んで反旗を翻すことはなかった。今度も同じだ。泰衡どのとは、兄弟のようにして育ったのだろう? 泰衡どのが御大将に矢を放つまで、御大将が動くことは、ないと思う」
「そうだな……そんな方だからこそ、我々は御大将のそばを離れられないのだったな」
「待とう、忠信。御大将が決意される日まで」
桜が咲き始める頃、部屋を訪れる者があった。
「月影どの……」
声をかけたのは、杉目小太郎行信だった。
「お話があるのですが……」
これには驚いた。行信は、とにかく自分の存在を目立たないようにしていた。だから、他の郎等たちに話しかけることは、ほとんどなかった。
月子も、行信の声を聞くのさえ初めてのことだった。しかし、行信の表情は、真剣そのもの。
「どうぞ」
部屋の中に導くと、行信は前置きなしに切り出した。
「私は、いつ、どのようにして死ねばよいのか、お教え下さい」
お読みいただきありがとうございました。
次話、最終回。
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