29 それでも、その手をはなさない
人は、ときどき、正しさの顔をした諦めを選んでしまいます。
それが、誰かの幸せを願った結果であっても。
その夜から、いつもの隠れ家で忠信を待ったが、忠信は来なかった。
忠信は、昼間は高館に詰めている。だが、月子の部屋を訪れることはあれ以来一度もない。月子も、地図作りのために部屋にこもりきりだったので、偶然顔を合わせるということもなかった。
忠信は、意識して月子を避けているのかもしれない。それでも、毎晩隠れ家に行ってそこで眠った。忠信の館に行こうかと何度も思ったが、勇気がなかった。
五日目の夜のことだった。
忠衡の書状も義経からもらっていたし、明日には十三湊に発たなければならない。やはり忠信の館まで行こうかと思い悩んでいると、不意に戸が開いた。
そこに立っていたのは、忠信だった。
「ここにいたのか……」
忠信は言った。
「高館の部屋にいなかったから、まさかとは思ったが……」
「私に、用なのか?」
胸が高鳴るのを隠して言った。
「ああ」
忠信は月子の方を見ようともしなかった。戸惑いながら、言った。
「私もおまえの館に行こうかと思っていたんだ。行き違いにならなくてよかった」
「俺の館に?」
忠信は、この夜初めて月子の顔を見た。
「用があったのか?」
うなずくと、忠信が言った。
「何だ?」
「実は……」
言いかけて、ためらった。何となく言い出しにくい雰囲気があった。だから、わざと明るく言ってみる。
「おまえも用があったのだろう? 先に言ってくれ」
忠信は、また視線をはずした。
「明日、信夫の実家に行く」
忠信の実家は、平泉からは決して遠くない。もちろん、たびたび帰っていた。わざわざ、ことわって行くような場所ではないはずだった。
「なぜ? わざわざ……」
「縁談がある」
返す言葉は見つからなかった。全身が、細かく震え出す。今にも『いや!』と叫びだしそうになる。その感情をなんとか抑える。
「そう……か。どんな女性だ?」
「さあ。会ったこともないから……」
そのまま黙った。何か一言でも言えば、涙が出そうになる。泣けば、忠信は明日、信夫には帰らないだろう。
取りすがって『私以外の人を妻にしないで』と言えば、忠信は戻ってきてくれるかもしれない。
けれども、それはしたくない。自尊心からではない。月子の自尊心は相当頑固だが、今回ばかりは違う。忠信を愛しているからだ。
月子は、さんざん忠信を翻弄してきた。忠信がそんな関係に疲れ、やすらげる女性を求めたとしても責めることはできない。
大切なのは、忠信の幸せ。京での死も防げたし、おそらく、義経の北行もうまく行くだろう。あとは、忠信個人の幸せを願うだけ。そのために、自分が身を退くことになっても。
自己満足に過ぎないのかもしれない。だが、泣いてすがって疎ましく思われるよりも、きれいに身を退いて、忠信の中にいい思い出として残りたい……そこまで考えて、やはりやっかいな自尊心のせいかな……と自嘲する。
「……優しい……人だといいな」
つぶやきは自然に口に出た。できるなら、自分とは正反対の、おっとりとした心優しい女性がいい。それならば……許せるかもしれない。
忠信は顔を上げ、何かを言おうとした。しかし、そのまま口を閉じてしまった。
潮時と思い、立ち上がる。
「用件がそれだけなら、私は忙しいから……」
そう言うと、忠信が言った。
「おまえの方は? 何か俺に用だったんだろう?」
「ああ」
すばやく頭をめぐらせ、違う答えを用意する。
「明日から、また旅に出る。今度は、この前よりももっと長くなるから、心配するなと言うつもりだった」
「そうか」
忠信は戸口の所でふりかえった。
「危ないことはするなよ。気をつけて」
それだけ言うと、忠信は夜の闇の中に消えていった。
馬上から空を見上げた。
太陽が真上にきている。方角を確かめ、地図を調べる。おおむね正確のようだった。
平泉を発ってから、三日経っていた。この道は四度目になるので、ほとんど心配はない。要所の社寺も、世話になる予定の人間も変わりなかった。
馬の首筋を撫でる。乗っているのは、いつもの――佐藤継信の馬だ。
不意に、前が曇って見えなくなった。涙が出てきたのだ。忠信のことを思い出すたびに泣いている。
こんな事ではいけない……とこの三日間、何度自分を叱りつけたか。しかし、想うのは忠信のことばかり。そして、もっと愛を大切にしなかった自分への責め言葉ばかりが、頭に浮かんだ。
このまま走っては危ない……落馬をしても助けてくれる忠信は、そばにいないのだ。
いったん馬から降りることにする。街道脇の木に馬をつなぐと、木陰に腰を下ろした。
涙が、あとからあとからあふれてくる。いつから自分は、こんなに泣き虫になったのだろう。二十一世紀の「喜多見月子」はこんなに泣き虫ではなかった。失恋しても多少つらい目にあっても、泣くことはめったになかった。
けれども……二十一世紀の自分より、今の……泣き虫の月子のほうが好きだ。悲しいときには泣き、うれしいときには笑う。
自分をそんな人間に変えてくれたのは、忠信だったのかもしれない。
義経の北行が成功したあとは、どうやって生きていったらいいのだろう……そんなことを考えている耳に、蹄の音が聞こえ始めた。しかも聞き慣れた音が……。
月子は顔を上げた。
街道の向こうから、土けむりをたてて栗毛の馬が走ってくる。
忠信だ。
思わず、道に走り出ていた。
忠信の姿は、徐々に大きくなってくる。
『まぼろしだ。あまりに思い詰めていたから、幻を見ているんだ』
ぼんやりとそんなことを考えながら、道の真ん中に立っていた。
馬は、ぴったりと月子の前に止まった。
「まったく、轢き殺されたいのか?」
その声は、間違いなく忠信のものだった。
「忠信……」
見上げると、忠信は優しく微笑みながら、馬から下りた。
「何だ? ひどい顔をしているな。美人がだいなしだ」
そう言いながら、忠信は同じ木に馬をつないだ。そして、さっきまで月子が座っていた木陰に腰を下ろした。
ぼんやりと見ていると、忠信は、
「何をしている。座れよ」
と言った。
「十三湊まで、行くんだろ」
「御大将に、聞いたのか?」
「ああ。俺と一緒に行くつもりだったと、御大将はおっしゃっていたが……」
忠信は、顔をのぞき込んでくる。
「あの夜、そう言うつもりだったんだろう? それを、俺が縁談の話なんかしたから……」
忠信の視線から、目をそらす。見つめられるだけで、身体が震えてくる。
「おまえの幸せの、邪魔をしてはいけないと思ったんだ」
「死ぬほど惚れてる女がいるのに、違う女を妻にしても幸せになれるはずがない」
「忠信……」
あごに手をかけられ、上を向かせられる。
「縁談は、断ってきた」
ふいっと手を離すと、忠信は立ち上がり街道と反対の方へ歩いていった。
「海が見えるぞ……月子、来てみろ」
忠信の隣に立つ。忠信は、海を見つめたまま言った。
「御大将に言われた。『星の数ほどある人の中で、ただ一人にめぐり会えることのできる者は、よほど運がいいのだ。もし、出逢うことができたなら、決してその手を離してはならない。離したら、自分のように後悔し続けなければならない』と」
「自分のように?」
「ああ」
「静御前のことか?」
忠信は、うっすらと目に涙を浮かべた。
「御大将は、静御前と吉野山で別れたことを、今でも悔やんでいらっしゃる。『神仏など、とうの昔に見放されていたのに……そんなものを恐れて、静の手を離してしまった。そのために、静は鎌倉でひどい仕打ちをうけなければならなかった』そうおっしゃっていた」
「静御前も、お気の毒だった」
静は、義経と別れてから、北条時政の手の者に捕らえられたと知らされた。そして、鎌倉に連行され、無理矢理、鶴ケ丘八幡宮で舞を舞わされたとも。
その後、義経の子を出産するが、男の子であったために子どもは殺されてしまったのだ。今、静の行方は杳として知れない。これは、月子の知っている史実通りだった。
「行くか」
忠信は振り切るように言い、馬のつないである木に向かった。
「忠信……」
忠信を追いかけながら言った。
「縁談のことだが……」
「もういいだろう、その話は。ちゃんと断ったんだ」
忠信は、馬の手綱を持った。
「何と言って断ったんだ。ご両親は、納得なさらなかっただろう?」
「正直に言った」
忠信は、馬に乗ってから言った。
「正直にって……」
月子も、馬に乗る。
「だから……俺が惚れてるのは、同じ郎等仲間の月影という者だから、この人を妻にすることはできないと言った」
「おまえ……」
忠信は笑った。
「母は泣いたし、父はあきれていた。『自分の息子が、叡山の僧と同じ趣味とは思わなかった』と言ってな」
「忠信!」
「行くぞ!」
忠信は笑いながら、馬を走らせた。
「忠信!」
名前を叫んで、その後を追った。
そうしていながら、月子は、自分の胸が今見た海のように青く澄んでいくのを感じていた。
* * *
「あらあら」
朋人はクスクスと笑った。
この時代、男色――衆道的関係は、禁忌でも異端でもなかったと聞いている。だから、隠す必要はなかったが、誇示するものでもなかったろう。
主従の間か、年長者と若者の組み合わせが多いらしい。だとすれば、忠信と月影の関係は、異例とも言えるのだろう。
しかも、兄を亡くした今、忠信には家督相続という責務がある。家督後継を危うくする衆道は、歓迎されないはずだ。
そんなことを百も承知で、「郎等仲間の月影に惚れている」と宣言した忠信の覚悟は、相当なものだったろう。
家督の面の問題なら「月影は実は女だ」と言ってしまえばすむものを、言わずにいる。それは、忠信が月子の「郎等としての仕事がしたい」という気持ちを尊重している証拠でもある。
「月子、あなた、相当忠信クンに愛されてるわよ」
やっぱり、ちょっとうらやましい……そう思いながら、朋人は画面を見つめていた。
* * *
その夜は、以前にも世話になったことのある家の離れに泊まらせてもらった。
「ずいぶん丁重な扱いを受けてるじゃないか。おまえ、何をしたんだ?」
火をおこしながら、忠信は言った。秋になっていたので、夜は冷える。それでも、きちんとした食事も出されたし、酒も手元にあったから、寒さは感じなかった。
「いずれ、さる貴いお方の力になってもらうかもしれないと言って、砂金とかまあ、そういった物を渡してある」
「それを全部一人でやっていたのか?」
「ああ」
杯を口にしながら炎を見つめた。
寒くはないはずなのに、無性に忠信の肌が恋しかった。しかし、忠信は向かい側に座っていて、近寄ろうともしない。
『一番欲しいのは、心だ』と忠信は言っていた。それは、月子も同じだ。だが、こんな風によそよそしくされると、たまらなく不安になってくる。
縁談を断って、ここまで追いかけてきてくれたのだから、それだけで充分なはずなのに……そう言い聞かせても、忠信を恋しく思う気持ちは、止めることができない。
立ち上がり、忠信の隣に座ってみる。誘っているようで恥ずかしいが、このままでいるのは我慢できそうもない。
だが、忠信はちらりと見て、杯に酒をついだだけだった。
「忠信……」
そっと忠信の腕に手をかけた。そして、おそるおそる忠信の顔色をうかがう。
「どうした?」
忠信に訊かれ、恥ずかしさをごまかすために笑ってみせる。
「この前、怒られたから。『さわるな』と」
忠信は、笑った。
「おまえは、いつも都合が悪くなると、そうやってごまかすからな」
「ごまかしてなどいない!」
言われた意味が分かったとたん、叫んでいた。つまり、都合が悪くなると、抱きしめてごまかす……と言いたいらしい。
すると、忠信は、大きな声で笑った。
「何がおかしい?」
怒った顔を見せると、忠信はさっと手を伸ばし、月子を抱きしめた。
「俺は、もうあきらめた。おまえに、一生ごまかされ続けることにする」
「忠信!」
忠信の腕のなかでもがく。
「私は、ごまかすためにおまえに抱かれたのではない! もういい! はなせ!」
だが、それ以上言えなくなった。忠信に唇をふさがれたから。
「月子……」
忠信は唇をはなして言った。
「分かっているよ」
その声音の優しさに安心して、忠信の胸に顔をうずめた。忠信の腕に抱きしめられ、月子はようやく、あたたかさを感じることができた。
最後までお読みいただきありがとうございました。
これは、選ばなかった恋が、ようやく選ばれた夜の話です。




