なくしもの
與のそれは唐突だった。
「なぁ、あいつ遅くねぇ?」
ふいに思いついたような問いは、菫連木からの小言に辟易して閃いたものだった。珈琲を飲み干して空いた與の口が、自然と菫連木の気を逸らそうとしていた。
投げられた問いを受けて、菫連木が苦笑いする。
「緋乃縁さんが遅いのは、毎度さんだろ?」
「そっちじゃねぇって。俺が言ってんのは女のほう。朝美 楪。……あいつ、逃げたんじゃね~?」
「あのな、ただの市民が逃げるはずないだろう? 警察から逃げるのは、心にやましいことがある人間だけだ」
與の視線は、菫連木を越えてドアに向いている。探るような與の目に、菫連木は笑いながら湯呑みを手で包んだ。
「女性ってのは、化粧直しやらなんやら、時間が掛かるものなんさ」
「………………」
無言の與。菫連木が茶をすする。
「おっと? 今のはセクハラになるんかな……?」
菫連木の独り言を無視して、與は腰を上げていた。
ドアへと歩いていく與に、菫連木が多少の困惑を見せる。引き止めようとした菫連木は、磨りガラスのドアに映った人影に気づいた。
「あっ、ほらな? ちゃんと戻って……」
すらりとした長い人影。菫連木が引っ掛かりを覚えたときには、スライドドアが開いて向こうの正体が判明していた。
「出迎えとは仰々しいのぅ?」
時代がかった口調でうっすらと笑む。背の高い影は期待した彼女ではなく、黒髪の青年だった。
対面した與が小さく舌打ちして、その名を口にする。
「緋乃縁」
妖艶な笑みを見せる青年——緋乃縁 椿は、與の鋭い目を受けても鷹揚としていた。
「ほう、鬼まじりは何やら不機嫌じゃのぅ……寝不足かえ?」
「昨日の雑務を押し付けられて、寝る隙がなかったんだわ。うちの年寄りは役に立たねぇからな~?」
二人の間でパチリと弾ける火花が見えた。菫連木が席を立って間に入る。
「おはよう、緋乃縁さん。早速で悪いんだけど、例の気になる子を見てもらえますか。今に戻ってくるから……」
場を取り繕おうと明るく声を張る菫連木に、緋乃縁は目を移した。
「例の子?」
「電話で説明した子ですよ。適性があるならスカウトしたいと思ってまして、ここの捜査官に——」
菫連木の発言に反応したのは、與だった。
「はあっ? 捜査官?」
與の眉が上がる。菫連木はきょとりとした。
「なんで與さんが驚くんだ?」
「あの女、捜査官にするつもりで呼んだのか?」
「そりゃそうだろ? 他にどんな理由があるって言うんだい?」
「………………」
黙りこくった與に、菫連木が首をひねる。(何も考えずに彼女を連れてきたんだろうか。やはり睡眠が足りていないんだろうか)などと案じている。
與と菫連木の会話を興味なげに聞いていた緋乃縁が、「あぁ」思いついたように声をこぼした。
「その娘ならば、今しがた見かけたのぅ」
「ん? 緋乃縁さん、朝美さんと会ったんですか?」
「ひとつ括りにした、長い髪のお嬢さんじゃろう?」
「おぉ、そうそう、その子だ。與さんの眼にも気づいたんですよ。捜査官にどうだろ? 與さんのサポートに」
「なるほどのぅ……護りの影も居ることじゃ、適性はあるやも知れん」
「まもりのカゲ……ってのは?」
菫連木の復唱には応えず、緋乃縁は、ひやりと冷たい視線を與に流した。
「しかし、あの娘の帯同は、鬼まじりには苦行ではないかえ? 飢えれば喰らいたくなる——じゃろう?」
笑みはなかった。緋乃縁は能面のような顔で指摘しただけだった。
しかし、挑発と捉えた與の目は鋭く光った。
「あぁ?」
「ちょっ、與さん落ち着……」
焦った菫連木が與の肩を押さえようとした。その手を払い、與は浅く唇端を歪める。
「誰が誰を喰うって? ……あんたに言われたくねぇなあ? そのへんの女を見境なく食い散らかしてきた、あんたにだけは」
声には嘲りが滲んでいた。
緋乃縁は幼な子を見下ろすように、ゆうるりと笑い返した。
「屠った数で語るならば、おぬしには敵わんよ——」
與が怒り狂うことを、菫連木は予想して、二人のあいだに割り込んでいた。
ただ、その予想は大きく外れる。手を出すかと思えた與は動くことなく、怒りを抑え込むようすもなく——無の反応だった。静的な瞳はどこか虚で、伏せるように長く、一度だけ閉じられて開かれた。
神妙な沈黙が降りる。菫連木が何か言おうとしたが、緋乃縁が先に言葉を発した。会話の流れも空気も忘れたように、とぼけた声色で。
「はてさて、この鼎談に意味はあるのじゃろうか? くだんの娘は、エレベータに乗って逃げていったが?」
「……へ?」
抜けた声の菫連木とは違い、與の理解は早かった。(ほら見ろ、逃げた)訴えの声は出さなかったが、
「なんで外部のヤツがエレベータを使えんだ? カードキーもねぇだろ……」
話の途中で、與の推理力が流星のように冴え返る。推理力というよりは経験則か。
「緋乃縁、警察手帳は?」
「……はて、見当たらんのぅ?」
與が捜査室を飛び出したのと、菫連木がこめかみを押さえて唸ったのは、同時だった。
「緋乃縁さん……ストラップ、また千切ったの? 警察手帳はもう絶対に落とさないって、約束しましたよね?」
「ふむ。じゃからの、日頃から大切に内ポケットへと仕舞っておるよ」
「いやいや、ならどうして無いのよ」
「エレベータで使ったあと、仕舞う前にあの娘とぶつかって、転んでしまったからのぅ……」
「あなたが人とぶつかったくらいで転びますか」
菫連木は、気の遠くなるような思いで立っていた。
警察手帳の遺失はただでさえ大問題なのに……緋乃縁が手帳をなくすのは、これで二度目だった。