漆黒と緋の青年
変な事態に巻き込まれている。
部屋を出た私は広い廊下を逃走していた。
幽霊、怪異、お化け、妖怪。頭の中で彼らの会話を反芻してみるが、出揃ったワードはどれも不審だ。
——バケモノ殺し。
どう考えても危ない。あんな発言をするひとからは速やかに離れるべきだ。そもそも手錠をいきなり掛けてくる捜査官なんて真っ当じゃない。
建物から出るのを最優先で行動していた私は、ここまでの道のりを遡ろうとして……重大なことを思い出した。エレベータに入るとき、與捜査官は身分証をかざしていた。エレベータ内にはフロア案内も放送もなく、私はこのフロアが何階か分かっていない。窓の外を見るに高層階なので飛び降りる選択肢はない。百歩譲って階段か。
考えごとに気を取られ、スピードを少し落とした私は、そのまま用心もなくエレベータ前の曲がり角を折れてしまった。人の気配を察した瞬間、視界いっぱいにベージュの影が迫り——避ける間もなく衝突した。
「わっ!」
人にぶつかった。……人に、ぶつかった?
疑問が浮かんだのは、違和感があったからだ。出会い頭に思いきり当たって——しかし、相手の身体はびくともしなかったのだ。
屈強な男性かと思ったが、一瞬捉えた身体の線は細い。まるで石膏像に体当たりしたかのように、硬い胸板と当たった顔が、泣きそうなほど痛かった。
「すみません……」
私は手で鼻頭を押さえ、涙目で衝突の相手を見返した。背が高い。與捜査官よりも低いのか、それでも平均より高い顔を見上げる。
青白い肌に黒髪。ニュアンスパーマのような癖のあるミディアムヘアで、長い前髪に阻まれて目がよく見えないが、トレンチコートを着た骨格は明らかに男性だった。ただし筋肉質ということはない。ぶつかった感触とは打って変わって、外見は繊細な印象だった。
その青年は私を認知した途端、なぜか急に……操り糸が切れた人形のように、ふらりと床へ崩れ落ちた。見上げたはずの青白い顔が、下方へ。
「痛い……痛いのぅ……」
よぼよぼのおじいちゃんみたいな声が聞こえた。
いや、声は若い。下から聞こえた声は二十代相当の男性だが、口調と話すテンポが空々しい年寄り感。不審だ。
「……大丈夫ですか」
不自然なタイミングと優雅に倒れたせいで、疑いの目を向けてしまったが、ぶつかったのは私だ。駆けていた私に非がある。與捜査官たちのせいで疑心しかなかったため、人としての思いやりを捨てて逃走を優先するところだった。
声を掛けて屈み、青年の様子を見る。うつむく顔は前髪が掛かるのもあって表情が分からない。痛みが強いのか、青年は胸を手で押さえている。
と、そこまで観察していたが、私の意識は別のところに流れた。そばの床に、革のパスケースが。
(あれは……)
「——お嬢さんや、すまんが手を貸してくれんか? 私は身体が弱くての」
はたりと意識を戻した。青年が助けを求める手を上げていた。
「あ、はい」
立ち上がるのを手伝うべく手を取ったが、青年の身体は立つことなく。ぐっと力の掛かった掌は引かれて、私の身体も廊下に座りこんでいた。
小さな悲鳴がこぼれる。すっぽりと青年の腕に包まれ、その冷たさに身が震えた。
外でも歩いてきたのか。廊下の冷えた床と大差のない、死んだ身体のような冷たさに、皮膚が粟立った。
「おや? お嬢さんも身体が弱いかのぅ?」
クツクツと喉で笑う振動が、身体越しに伝わってくる。
立ち上がるための支えになるはずが、支えきれずに転倒した?
「すみません……」
私は戸惑いに眉を寄せながらも、青年から離れようとした。
だが、離れない。私の身を包む腕が、まだ絡みついたままだ。しかも、手も重なっている。
そろそろ不信感をあらわにしてもいいだろうか。叫ぶ用意もしたいが、ここで叫ぶと、駆けつけてくるのは例の不審捜査官たちではないか。
おじいちゃんぶる不審者と、どっちがマシか。悩む。
目前の薄く整った唇が、ふうわりと笑った。
「ほう、これはまた奇異なお嬢さんじゃのぅ?」
傾く顔に、長い前髪が流れる。濡羽色の艶やかな黒の奥から、赤が。
緋色の眼が、私を覗いた。
(カラコン……?)
赤い虹彩など見たことがない。與捜査官の金眼は薄い茶色と言えなくもないが、この青年の色彩は生まれつきのものに思えない。それほどに異彩を放っている。
隙間から見えた赤い眼に心を攫われていると、その眼は薄い月のように、微笑みでいっそう細まった。
「纏う死の影がベールのようじゃ……人身御供の花嫁か」
「えっ……と?」
「斯様な処女が鬼に喰われるとは、忍びないのぅ……。私が頂いてしまおうか?」
シルクを撫でるような心地の声が、鼓膜をやわらかく揺らした。
(なに言ってるんだ、このひと)
声の響きと、言葉の意味不明さの相乗で、混乱する。
青年は、私の頬に青白い掌を重ねようとした。
ぎょっとして身を引くと、背に回っていた青年の腕が消えたのもあって、私は廊下に尻餅をついていた。
く、く、く……と、井戸の底から響くような籠もった笑いが、喉の奥で鳴った。
「冗談じゃよ」
持ち上げられていた青年の手は、私を追うことなく、彼自身の垂れた前髪を耳に掛けた。青白い顔の全貌が晒される。
ぞっとするほど端麗な顔立ちだった。微笑の唇や目じりは美しくも妖しい色香を漂わせ、なめらかな肌は陶器を思わせる。
鮮やかな虹彩が闇夜で人を誘い込む花のようだ。青白い肌は不健康で、触れれば崩れそうな儚さだというのに、微笑む唇と緋色の眼が底知れない威力を放っている。
まるで——闇の魔物。
「……お嬢さんや」
そっと囁くような声が、硬直していた私の意識を醒ました。
青年は立ち上がる。しなやかな指をそろえて私の方へと差し出し、紳士的に微笑した。
「お手を」
「あ、いえっ……大丈夫です」
手を取らないのには理由があった。年寄りぶる青年が不審すぎるのも、もちろん理由のひとつだが、それよりも。
取り戻した意識のなか一番に、私は指先に触れる革の感触にハッとしていた。
後ろ手に回したそれを青年の目から隠し、愛想笑いを浮かべて横歩き。
「ぶつかってしまって、本当にすみません! いま急いでるので……!」
私は青年の横を抜け、自分の体で目隠しをしながら、エレベータの認証リーダーへと拾い物をかざした。開いたドアに身体を滑り込ませる。後ろは振り向かず早足で。呼び止められませんように。
「いずこへ逃げても同じじゃろうに……」
笑う青年の呟きは、聞こえなかった。




