特異事件捜査室?
「初めまして」
にこり。テーブルに置かれたお茶を勧める、柔らかな物腰で私に微笑む男性は『すみれぎ』と名乗った。名刺もくれた。菫連木さん。
サラサラの茶髪は生来の髪色か。若く見える(なんなら私と同じくらいに見えなくもない)が、與捜査官の上司であるらしい。
車内やら公園やらで通話越しに聞いた声の相手だった。とりわけ目立つ容姿でもなく、優しげで平凡な印象。当然だが人攫いマフィアのボスではない。
洗練されたオフィスの一室、中央から入り口寄りに位置する楕円の大きなテーブル。着席した私と向かい合う菫連木さんは、私が名刺を見つめているあいだに、壁沿いの給湯スペースらしき方を振り返った。
「お前さんねぇ、早々に朝美さんと合流してたなら、俺に報告してくれよ」
菫連木さんから貰った名刺の文字は漢字だらけで、目が滑っていく。役職の『特異事件捜査室長』から、與捜査官が口にしていた『トクイジケンソウサシツ』が文字として頭に入った。特異事件捜査室?
特異事件とは。聞いたことがあるような無いような。
私がひとり首をひねっていると、給湯スペースでインスタント珈琲に湯をそそいでいた與捜査官が、湯気の立つマグカップを手に歩いてきた。
「会ったら報告しろ、なんて指示は受けてねぇよ」
彼は、菫連木さんの言葉に低く気怠げに返す。私の横までやって来ると、大きく音を立ててイスに腰を落とした。
私の隣に座ると思わなかったのもあって、どかっと着席する音に私の肩は小さく跳ねていた。
「こんなときだけ早いんだから……」
菫連木さんがぼやいたが、與捜査官はどこ吹く風で珈琲を口にしている。ため息を呑みこんだ菫連木さんは、私に目を合わせた。
「朝美 楪さん」
「はい」
「………………」
「………………」
視線を重ねて、にっこり。ようやく本題を切り出すのだと思われた菫連木さんの口は、微笑みの形で停止した。そのまま十秒。困惑の念を強める私を置いて、テーブルに謎めいた沈黙が降りる。
耐えられなくなったのは、私じゃなかった。
「冴が視てどうすんだよ。緋乃縁は?」
横から低い声が割りこんだ。呆れたようすの與捜査官のツッコミに、菫連木さんは吐息する。
「冴じゃなくて菫連木……これ何回やるんかね?」
自分の苗字を口にしてから、大げさに両肩を上げた。
「緋乃縁さん、まだ来てないんよ。昨日、真神君が想定外に月の影響を受けてな。その対応で疲れたから……と」
「はぁ~? そんなの言い訳だろ。無理やり連れてこいよ」
「さっき連絡したら、用意してるって言ってたよ。今に来るさ」
「年寄りは悠長なもんだなぁ~?」
悪態をつく與捜査官の横顔には、金の眼が見える。彼は私の右側に座っていた。
自然と目がいくため見つめていたところ、鋭い瞳が流れてきて視線がぶつかった。彼は煩わしそうに目を細めた。
静かに息を呑む私に、菫連木さんが声を掛ける。
「朝美さん」
「はい」
「……與さんの眼、見えてるんだよな?」
「眼? ……はい、見えてます」
「何色に見えてんだろ?」
「? ……金と黒? っぽく見えますよ?」
「そうだよな?」
「?」
なんだろう、この会話。全体的に疑問符が舞っている。
與捜査官と違って上質なスーツを身につけた菫連木さんは、苦笑ぎみに目をぐるりと回し、テーブルの上で両手を組んだ。
指を絡めた手を自身の方に引き寄せ、困ったように眉を下げる。
「ひょっとして朝美さん、霊感あるんかな?」
「はい?」
間髪をいれず返した私に、菫連木さんがたじろいだ。
「ん? 違うんかな? ……幽霊やお化け、信じてないか?」
「……信じてませんけど」
疑いの目を返す。と同時に、名刺の役職頭にあった『警察庁』という文字に疑念が湧いた。
與捜査官が警察の人間であると信じてついて来たが、ここはただのオフィスビルだ。警視庁でも警察庁でもない。菫連木の纏う高級スーツが急に胡散臭くなった。
まだ口のつけていない湯呑みから、私は黙って手を離す。
「……失礼ですが、私にどのようなご用件で? 事件の事情聴取ではないのでしょうか?」
「あぁ、そっちの件は無関係でな。朝美さんを呼んだのは……その、貴方に適性があるんじゃないんかな、とね……?」
「適性? なんのです?」
「う~ん」
菫連木さんの唇が結ばれる。思案する彼へ、私は続けざまに問いを投げた。
「ここは、なんですか? 捜査官さんたちは、どういったお仕事をされているんですか?」
観察の目で私を見ていた菫連木さんは、何かを読み取ったように決意を閃かせ、穏やかな目尻を強い意志でキリリと締めた。
「ここは、特異事件捜査室。特異な事件を捜査する——ってのが建前だが、実際は怪異による事件の対処をしてる。怪異ってのは、言い換えるなら……妖怪、幽霊?」
菫連木さんは與捜査官の方に視線を送った。
私が横を向くと、與捜査官は金の眼を一度閉じ、フッと鼻で笑った。
「バケモノ殺し——」
吐き出された言葉の、不穏な余韻に。
開かれた金の流し目が、私を挑発的に見据えた。
「それが、俺の仕事」
「………………」
心臓が高鳴る。灼かれるような焦心から言葉が詰まったが、細く息を吐き出して動揺を隠した。
何を言っているんだか。一笑に付すのも失礼なので、私は曖昧に笑ってみせた。
「大変そうなお仕事ですね?」
「あ。お前、信じてねぇな~?」
挑みかける瞳のまま、彼は口許だけ笑っている。危ないひとだ。うすうす察していたが、與捜査官はだいぶ危ないタイプの人間だ。
話す合間でテーブルに頬杖をついた與捜査官は、指先でマグカップの縁を軽く叩きながら、私を覗き込むように目線を寄越した。
「俺に重なって、お前も『赤い深淵』を見ただろ?」
赤い深淵。未知の言葉なのに、震える心が赤い闇の世界を連想した。
私の脳裏には、人形のような女性の微笑がありありと浮かぶ。赤い闇にさざめく声を思い出し、身震いした体を抱きしめるよう、私は腕を組んで押し黙った。
私に笑いかけていた金の眼は、瞳を小さく揺らした。
「まぁ、アレは残像だけどな~。俺は、ああいう化けもんを倒してんの。公共の安寧のために」
軽薄な響きで大義名分が付け足される。反応に困る私よりも、菫連木さんの「んん?」疑問の呟きが場を割っていた。
「どういうことだ? 『赤い深淵』って……裏側の話だよな? 怪異に遭遇したんかい?」
「例の現場で、こいつが勝手に俺と同調して見たんだよ」
「見たって……え? ちょいと待ってくれよ? お前さん、まさか朝美さんを連れて現場に入ったんか?」
「入ったけど?」
「入ったけどっ? は? どうしてそんな軽い感じで言えんだ?」
「……なんだよ? 何か不味いことあんの?」
驚愕に声を張りあげた菫連木さんの反応が珍しいのか、與捜査官はかすかに首を縮めて不釣り合いな戸惑いを見せた。
私を蚊帳の外にして、説教めいた会話が展開される。その隙に私は席を立った。目を向けた菫連木さんに、なるべく愛想のよい笑みを返す。
「すみません、話の途中で申し訳ないんですが、お化粧室をお借りしてもよろしいですか?」
「あぁ、どうぞ。担当の者が来るまで時間もあるから……場所は、」
「分かります。さっき見かけました」
「あ、そう?」
案内をやんわりと拒否して部屋を後にする。私の背後で、
「事件現場に部外者を入れたらあかんだろ」
「片付いてんのに? 車に残しといて逃げられたら面倒じゃん」
「車に残したところで逃げんでしょうよ……被疑者じゃあるまいし」
「車に手錠で繋いどくのも、外聞が悪ぃだろ」
「手錠?」
小言が続いていたが、廊下に出た私は一瞬息を吸い込むより早く、足を踏み出していた。
(逃げよう!)