神様の戯れ
島には夜の暗幕が降りている。
刻一刻と黒を増す海の上、牙のような月が光り、闇空に白く穴を開けていた。
橋を渡って足を踏み入れたのは、一人の青年だった。
「お祓いに、ここまでやる必要あるんすか」
青年は面倒な気持ちで尋ねていた。彼の前には、二人の人間が先んじて歩いていた。
一人は、女。長い黒髪を高くひとつに纏めている。街灯のない闇のなか、手にした提灯に照らされた顔で振り返った。
「すべてを祓うために必要なんですよ。非礼行為で纏わりついた亡者の影を、正しく回ることで還してゆきましょう」
女は、青年に薄く微笑む。先ほど顔を合わせたとき、青年は女に対し、どこかで見たことがあるような気がした。しかし、思い出せない。ただの思い違いか。
仄明かりに浮かぶ女の笑顔は、どこか気味が悪かった。祟りなど馬鹿げていると一笑してしまいたいが、仲間内で続いた大怪我を思うと、なおざりにできない。
青年は不満を唇で閉じこめ、もう一人を横目に見た。
女の横に立つ男は、背の高い赤髪。青年の父が手配した護衛だった。青年のためにいるはずだが、そのわりには青年を護る気配がない。青年からすれば、隣の女のほうを護る立ち位置にも見える。
提灯の火が、赤髪の男の片頬を濡らす。振り向きざまに鋭い瞳を青年へと寄越しただけで、口は開かなかった。
青年の足は、女に続き小径へと導かれる。前方から届く提灯の明かりに、石畳の隙間から落ちる影が、手招く指先のように揺れている。
一歩一歩進むごとに、青年の胸には、解消されたはずの不安がじわりじわりと滲んだ。
冷たい風が耳許で囁く。木々のざわめきが、隠した悪事をひそひそと唱えているようだ——いや、これはお祓いなのだ。除霊のための行為を恐れる必要はない。
青年は自身へと言い聞かせた。だが、届いてくる波の音が、獣の低い唸りのように響くせいか、鼓動は次第に速く激しくなっていく。
——そのときだった。
暗闇の森。鬱蒼と茂る木々の奥から、静寂を破るように獣の咆哮が轟いた。
跳び上がった青年は足を滑らせ、冷たく湿った石畳に尻餅をつく。そのままの体勢で、青年は森の奥へと目を遣った。
異様な光が揺らめいた。
木々が開け、月明かりに照らされた場所に、ひときわ白く輝く獣がいた。しなやかな毛並みは月光を受け、淡い光のベールを纏っていた。
獣と、目が合う。
青年が悲鳴をあげる前に、白い影が疾風のごとく動いていた。
動けない青年の前に、警棒を構えた赤髪の男が立ち塞がった。護衛として青年を護ろうとしたのだろう。
しかし、飛び掛かった獣の力は強く、警棒は弾かれる。勢い余った獣の牙が、赤髪の男の首へと、深々と食い込んだ。
「うわぁぁぁぁっ!」
悲鳴をあげたのは、青年だった。
赤髪の首筋から血しぶきが飛び、青年へと掛かった。赤髪の男は耐えきれぬように膝を折り、地面へと倒れ込む。
獣は鮮血に濡れた口を震わせ、荒い息を吐きながら青年を見据える。鋭利な灰色の眼が、月光を受けて光った。
「……あぁ、お祓い失敗ですね」
ふいに、場違いな声が通る。
笑い声のように軽い響きが、青年の耳に届いた。
尻をついたままの青年は、震える顔で提灯の明かりを探した。見上げた先には、女が笑っていた。
「……あなたが壊した祠には、白狐が祀られていたそうです」
冷たい笑みに口の端を歪め、女は青年を見下ろす。
「神様の遣いでしょうか。どうやら霊力が強すぎて、祓うには難しい」
闇にぼんやりと浮かぶ微笑は、目前で唸る獣を気にせず、静かに語った。
「——ですが、代わりの血を得たことで落ち着かれたようです。この者には悪いですが……あなたの非礼行為の代償に、供物として捧げましょう」
女の目線は、赤髪の男へと落ちる。
まだ息があるようで、伏した赤髪の体は、ぜいぜいと息を鳴らしていた。苦しげなその音に青年はぞっとしたが、女は笑みを崩さない。微笑みのままに、青年へと目を戻した。
「あなたは祟られています。これは強大すぎて、いかなる者にも祓えません。あなたは、生涯を通して気をつけなければならない」
女は、そっと足を折って屈んだ。青年の恐怖に揺れる瞳を覗き込んで、優しく囁く。
「神様は、一生あなたを見ていますよ。また同じように人の道を踏み外せば、この獣があなたを喰らいにゆくでしょう。くれぐれも——お気をつけて」
言葉が終わるや否や、獣が凄まじい雄叫びをあげた。
響き渡る吠え声に応えるよう、大地から無数の影が湧きあがった。周囲を覆い尽くすほどにさざめく、亡者の影が。
それらは忘れ去られた魂の怨念が凝縮したかのように、闇深い色をしていた。闇夜よりもなお暗く、はっきりとした形を持ちながら、凍てつくような冷気とともに青年を脅かした。
続けざまに獣が吠える。追い立てるかのような咆哮に、青年は反射的に身を起こし、足許のおぼつかぬまま転げるように逃げ出していた。
青年は決して振り返らなかった。
やみくもに橋を掛けていくその背中を、残された女は無言で見送っていたが……
ふと、笑った。薄笑いではなく、満足げに。
「與くん、見ました? ご子息のさっきの顔。完っ璧に怯えてましたねっ?」
状況にそぐわず、跳ねるような声で話す。
「狐じゃなくて狼ですが……うまくいきました。祠のことは、彼も話せないでしょうから。存在しない神様の祟りを恐れて、今後は多少なりともまともに生きていくでしょう!」
機嫌のよい女——楪は、転がる赤髪の状態を思い出してハッとした。
「あっ……と。與くん、大丈夫です?」
「いや、無理。俺死んだわ」
うつ伏せの体をごろりと回して、與が顔を見せた。空虚な目をしている。当然ながら與は、『完っ璧に怯えてた』という青年の顔は見ていない。獣に襲われて死にかけていたので。
「傷が深くて立てねぇんだけど」
「えっ……そんなにですか? たしかに血がどくどく出てますが……與くん、咬まれるくらい平気だって、言ったじゃないですか」
「こんなやられると思わねぇじゃん。俺じゃなきゃ即死だろ」
「……痛い、ですよね?」
なかなか塞がらない傷を案じた楪が、そろりと手を伸ばした。
「触んな、汚れる」
與は寝転んだまま腕を上げ、楪の手を払った。
だが、払われた楪の手はハンカチを取り出すと、躊躇なく首の傷へと触れていた。
「あ~あ、わざわざ注意してやったのに……」
「この血、ほんとにちゃんと止まります?」
「……数分したら止まるだろ。塞がってる感覚もあるし」
楪から注がれる、心配そうな眼差し。きまり悪そうに顔を背けた與は、ついで獣の方へと目を送った。
「白月も、気合い入れすぎ……」
軽い口調で文句を投げようとしたが、與は言葉を切った。
白い獣が、地面に強く爪を立てている。完全なる狼の姿をした白月の挙動に、與は深く眉を寄せた。
「おい、白月?」
與の呼び声に、ひくりと、獣の耳が動いた。
ようやく異変を察したのか、楪も顔を上げる。
月が照らす毛並みは逆立ち、白月の四肢は小刻みに震えていた。口からは荒い息が漏れ、獣臭の混じる夜気を震わせる。
足を折って屈んでいた楪の顔は、白月の目線の高さにあった。
——獲物の気配が、すぐそこにある。
甘く、生暖かい匂いが白月の鼻先をくすぐる。獣の本能が、白月の喉奥で唸りをあげる。
爪は土を抉り、牙は軋みながらも食いしばられる。瞳の奥には、ぎりぎりの理性が灯を揺らしていた。
襲えば終わる。喰らえば満たされる。白月は、せめぎ合う理性と欲望の狭間にいた。
しかし——。
「白月くん……?」
一瞬の隙だった。呼びかけた楪が白月へと身を寄せ、彼女の匂いが濃くなったその瞬間、白月の理性が弾け飛んだ。
與が反応したが、遅かった。
白月の体が跳ねる。風を裂き、牙が闇に銀の閃きを描く。
その鋭い切っ先が、今まさに楪の喉へと突き立てられようとしたとき——
亜麻色が舞った。
一刹那。白月の牙は虚空を咬み、楪の姿は闇に掻き消えた。
風に靡く髪。闇よりも深い漆黒に、赤い眼が妖しく光る。
少し離れた場所、月光を背に立つ男の腕のなかには、驚きに息を呑む楪の姿があった。
「お嬢さんは、ほんに用心が足りぬのぅ……。ここで白けた幕引きはいかんじゃろう?」
淡く微笑む男は、抱きかかえた楪をからかうように首をかしげた。
「椿くん……ちょっと遅いですよ。心臓に悪い」
「ほう。私に時間外労働を強いておきながら、開口一番に小言かえ?」
「椿くんは午前中に働いてないじゃないですか。これで帳尻が合うと思います」
「ふむ……」
楪の弁に反論をなくしたのか、椿は瞳を夜空へと向けた。
獲物を追った白月が二人へと跳び掛かったが、椿が突き出した肘によって止められる。白月は椿の身に着けたベージュのコートには牙を立てられたが、そこまでだった。椿の皮膚は鋼のように硬い音を鳴らしただけで、わずかな傷も付かなかった。
肘に咬みついた白月を見下ろす、紅玉のような眼が、戒めるように細められる。
「シロや、戯れもほどほどにのう?」
笑顔で発せられた冷たい圧に、キャインっと高い鳴き声をあげて白月が飛び退いた。
距離を確保してキャンキャンと騒ぐ白月の声に、いまだ地べたで寝そべる與が、細く息をつく。心臓が止まるかと思った。
(緋乃縁を待機させてたんなら、あらかじめ言っておけよ……)
報連相の足りない楪に、與は自分のことを棚上げして、胸中だけで文句をぶつけていた。




