あくたの正義
「よくやった」
菫連木室長の第一声は、それだった。
対象の青年が祟られたのは、本人が語っていた『神の島で噂を試した』ではなく、島の端にあった小さな祠を破壊したことが要因だった。
動画はネットにアップロードする目的で撮影されたが、のちにやりすぎたと思い断念したらしい。菫連木室長に話を回した父親も、ここまでは知らないと思われる。
対象の青年から、妖狐退治の記憶は消去した。父親が頼んだ神職のお祓いによって解決したと、青年は勘違いしている。
恐怖の記憶を失い、安易な解決を得た青年は——おのれを省みることなく平常に戻った。
それを、菫連木室長は「よくやった」と言った。
「……まぁな、気持ちは分かるさ」
翌日の昼休憩の時分、捜査室のデスクで手作り弁当を食べていた私に、菫連木室長は声を掛けた。與と白月が昼食のため外出していて、捜査室は二人きりだった。
菫連木室長は食事をしていない。彼は私の起案した報告書を眺めていた。
唐突な声掛けに、私は食事の手を止めて菫連木室長へと目を送った。言わんとする話題は察した。朝から與は、あからさまに菫連木室長に対して不敬を働いている。白月も思うところがあるようすだった。本日の捜査室の空気はよくない。
「朝美さんも、納得いってないんだよな?」
「………………」
否定はできなかった。黙りこくった私の顔に、菫連木室長は苦笑した。
「襲ってきたのは、祠に祀られてた狐の怪異って仮定されてるな? この報告書の話は、朝美さんが調べてくれたのか」
「……はい」
「神様ってのは、厄介なもんだ。かつての信仰から力を得たものの、現代では蔑ろにされて歪んだもんが多くてな。参ってるよ」
「……怪異に関係なく、今回の件は礼拝所不敬罪に当たると思われます。動画を確認したのだから、逮捕しても——」
「必要ない」
菫連木室長は短く言い放った。語尾にはなんの揺らぎもない。反論を許さぬ声音に、空気がわずかに張り詰めた。
直後、彼は思い直したように微笑む。
「特異は、怪異から人々を護り、公共の秩序と安寧を維持するために在る。我々の正義のためにも、余計な不条理は呑み込んでくれんかな?」
声色はやわらかくなったが、私の心に届くものではなかった。
菫連木室長の語る正義は慰めにならず、今この場においては無価値だった。
「ところで、」
私の沈黙を破るかのように、菫連木室長は視線を逸らして口を開いた。
「今夜、空いてるかい?」
「今夜、ですか? なにかトラブルが……?」
「あぁいや、違う違う。今日は取り立てて何もないから、早めに切りあげて朝美さんの歓迎会でもどうかと思ってな」
「かんげいかい……」
話の流れが唐突すぎて、未知の言葉のように響いた。
菫連木室長は笑顔を浮かべる。
「緋乃縁さんも、朝美さんの歓迎会なら喜んで、と。……まぁ、言ってる俺は、会食があって参加できないんだけどな。代わりに俺の奢りだ。予算に制限はつけんから、好きな店を言ってごらん。どんな有名料亭でも取ってあげるよ」
ニコニコと返答を待つ菫連木室長に、私は難しい顔を返した。そんなことで、私もみんなも絆されやしない。訴えたい気持ちは胸に仕舞って、私は返答をずらした。
「パッとは思いつきません……」
「焦らんでも。帰るまでに言ってくれたらいいさ。明日は休みだ、ゆっくりできるとこがいいかもな……?」
特異事件捜査室に入って、初めての週末。警察官だから夜勤があるのかと思っていたが、勤務形態は週休二日の毎日勤務らしい。菫連木室長も、「特異はホワイトだ」と言っていた。
しかし、疑問が浮かぶ。
「あれ? 私と與くんが出会ったのは、日曜だった気がするのですが……あの日は與くん、お休みでした?」
「ん?」
首をかしげて尋ねた私に、菫連木室長はふんわりと笑った。
「あぁ。休みであってもどこにいても、気になる事件があったら呼び出すから。その日は前日に重要な事案があってな。それの関係で……」
「………………」
まったくもってホワイトではない。
思うだけで、口にはしなかった。
「まぁ、店については考えといてくれ」
席から立ち上がると、菫連木室長はコートを羽織った。外出を告げて出ていく颯爽とした背中を、私は微妙な表情で見送った。
止まっていた手を動かす。甘い卵焼きを口に含んで考える。行ってみたい店などない。白月にでも希望を訊いてみようか……。
「——せっかくじゃから、主君が破産するまで饗宴に耽るのもよいのぅ」
背後から、古めかしい響きの声が突如として響いた。
予期せぬ声に心臓が跳ねる。肩を上げて固まった私は、しばらく息を止めていたが……おもむろに緊張を解き、吐息を鳴らして振り返った。
「椿くん……」
「おはよう、お嬢さん」
咎める私の目に、背後に立っていた椿が悠然と微笑んで頭を下げてみせた。
艶やかな声は、新たな日の幕開けをしみじみと告げる響きだが——時計を見てほしい。今は昼だ。
「こんな時間に、『おはよう』じゃないですよ。……あれ? いつから居ました?」
目を丸くする私を見下ろして、椿はクツクツと喉を鳴らす。端整な顔が笑うさまは一見して美しいが、行動が突飛なため惚れぼれすることもできない。
「くだらぬ騒擾は片付いたかえ?」
緋色の瞳がゆるやかに細まり、愉悦にも哀れみにも見える色を帯びる。
笑う唇は、戯れに問うた。形のよいその唇に、私はしばし意識を奪われたが、
「……もしかして、椿くんは、分かってましたか?」
はたりと取り戻した意識で、椿を見上げる。赤い虹彩は光を纏い、私を試すように脅かしている。
「はて、なんの話じゃろう?」
私は言葉なく見つめた。
互いに無言で、何かを突きつけるように見つめ合ったが、その時間は椿の吐息が終わらせた。
「神に向けて正義を吠える、無知な狗は、なんとも滑稽じゃろう?」
それは肯定だった。婉曲的に認めた椿を見上げたまま、私は眉を寄せた。
「真実を知っていたとしても、見捨てられなかったと思います。白月くんは」
「ほう、そうかえ。それで満足せず、頭を悩ませるのじゃから……野暮な狼藉じゃと思うがのう?」
「………………」
人を——救った。
そこに間違いはない。きっと、あの行動に正義はあったのだろう。私たちの立場からすれば、あれで正しかった。
頭では分かる。分かるが……報われないこの気持ちは、どうしたらいいのか。
理不尽を受け入れようとするたび、胸の奥に沈めようとする感情が、静かに疼く。
私はただ無言のまま、心の奥底で渦巻く想いの行方を探していた。
赤い眼から視線を落とし、指先に力を込める。迷いながらも、ふと、心のどこかに一筋の光が射し込んだ。
報われない、受け入れられない——ならば、どうすべきか。
答えは、思いがけずあった。はじめからあったではないか。
私はゆっくりと目線を上げ、赤い眼を見据えた。
「……祟りましょうか。もういちど」
私のそれは、正義の警察官が言うセリフではなかった。
ただ、椿は興味深げに笑っていた。




