白金の半獣
「お前は、対象の息子と居ろ。あいつで本命を釣り上げる」
與から私へと指示が飛ぶ。與の手に握られた金属の警棒が、薄闇を薙ぐように振るわれた。
空気が軋むような音と同時に——世界が崩れた。
隣室のベッドへと駆け寄った私の視界が、ぐにゃりと歪む。血を煮詰めたような鉄錆の臭気が鼻をつく。濃く立ち込める闇が、世界を覆い尽くした。
——赤い。
暗闇に滲み出すような、どこまでも深い赤。部屋を仕切っていた壁は消失し、地面も、天井も、遠くの景色さえも、血に染め上げられたかのように赤黒く変貌していく。
足元に目を落とせば、生温かい液体の膜が広がり、靴裏がぬるりと沈む感触。甘く腐った匂いが鼻腔を満たし、息を吸う喉の奥に粘り気を残した。
見慣れた現実が、一瞬で別の次元に引きずり込まれたかのようだった。
赤い闇の世界——與が『赤い深淵』と呼ぶ——ここは、現実から乖離している。
時間と空間から引き離された私の身体は、どこにいるのか。次元の裏側にいるのだろうか。
「なっ、なん……なんだっ?」
眠っていると思われた対象の青年は、布団を跳ねのけて驚愕に目をみはった。
「大丈夫。彼らが護ってくれますから、落ち着いて」
私の声が届いているのかどうか。青年の開かれた瞳孔は、愕然として世界を映していた。
ふいに、青年と同じくして、私はこめかみを押さえた。耳鳴りがする。低く、ねっとりとした、呻きにも似た音が周囲を満たしていく。どこか遠くで、何かの囁き声がした。
違う、これは囁きではない。鳴き声だ。
細く伸びる、遠吠えのような咆哮。
気づく。青年の背から染み出す赤い影が、ゆっくりと広がって、何かを呼ぶように無数の腕を伸ばし、手招きしている。
——あの程度の影響なんて、たかが知れてんだよ。
與はそう言ったが、溢れ出た影は、青年からしてみれば脅威だった。叫び声をあげて震える青年の体を護るように、私はその身を庇った。
そのときだった。
闇の奥から、ぬらりと何かが這い出した。
何か——目を凝らして、その正体を見極める。人ではない。人の原型を持たないそれは、獣の姿をしている。狼にも見えたが、それよりも細い。——狐だ。
それは、狐の姿をしていたものの成れの果てだった。白かった毛並みはまだらに抜け落ち、剝き出しの皮膚が湿った粘土のようにぶよぶよと波打つ。歩を進める筋肉の奥で、内部の何かがぬるりと蠢くのが分かる。長い尾は腐った縄のごとく垂れ、重く引きずっていた。
脂と腐汁の混ざったような悪臭が鼻に染みる。
足音はしない。代わりに、ぬちゅり、ぬちゅりと肉の擦れ合う音が闇に溶け、関節の抜ける音は、生魚の骨を折るときのような粘ついた響きを伴った。
不自然に傾いた妖狐の頭が、ゆっくりと持ち上がる。裂けすぎた口の端から、透明な粘液が糸を引き、喉の奥でぐつりと膿のような息が漏れる。
笑っているのか、苦しんでいるのか、判別のつかぬ表情でこちらを見つめる。
焦点の合わない濁った瞳で、それでも、確かにこちらを捉えている。
——次の瞬間、不自然なまでに緩慢だった動きが、まるで糸が切れたように一変した。
ぐちゃり、と泥濘を踏み潰した音がしたかと思うと、妖狐は影に引き寄せられ、闇の中から一気に跳ねた。
「っ……」
青年の体を抱きしめたまま悲鳴を呑み込む。
ぎゅっと腕に力を込めて衝撃に構えたが、私の前には妖狐よりも早く、與の背中があった。
警棒が一閃し、赤闇に一筋の光を刻む。妖狐は地を這うように身を伏せ、四肢をぐしゃりと折り畳んだ。
焦点の合わぬ瞳が爛々と赤く灯り、唸り声が喉奥から漏れる。脂と腐汁の臭気がさらに濃くなり、全身の毛が逆立ったように膨らんだ。耳の裏ではただれた皮膚がぷつりと弾け、濃い膿が滴り落ちる。
殺気が、細かく刺すように肌を撫でた。
「——白月、やれるか?」
恐ろしいバケモノを前にしながらも、冷静な與が問う。冷然にも感じる声で白月へと尋ねていた。
「やれる!」
興奮の満ちる声が、高らかに答える。
私たちの盾となる與の向こうで、フードの外れた白月の顔が見えていた。怯えなどない。白月の双眸は、ぎらつく抜き身のように研ぎ澄まされ、熱を孕んだ輝きを放っていた。
渇望に上下する肩。興奮に呼応するように、白月の身体が変わり始めた。
耳が、じわりと尖る。皮膚が引っ張られるように形を変え、やがて天を向いたそれは、獲物の気配を逃さぬ捕食者のものだった。
次に、口許。わずかに開かれた唇の隙間から、伸びるように鋭い牙が覗く。
彼自身もそれを確かめるように、舌でゆっくりと歯をなぞった。その仕草は不気味なほど自然で、まるで初めからそうあるべきものかのようだった。
そして——手が。
彼の指がひくりと痙攣し、瞬く間に筋肉が隆起していく。指先から鋭い爪が伸び、白月はそれを振ってかすかに空気を裂いた。
私は、小さく息を呑んだ。
目の先にあるのは、獣の片鱗を帯びた半妖だった。
長い爪が鈍く光る。
白月は肩の力を抜き、地を這う獣のごとく滑らかに重心を落とす。
彼の喉奥で、低い息が漏れた。
一歩、踏み込む。
それだけで空気が変わった。筋肉がしなる音すら聞こえそうなほど張り詰めた動き。指先が軽く動くだけで、爪が獲物の喉を掻き開く未来が容易に想像できる。
そうして——闇を裂くように、跳躍した。
張り裂ける音。
妖狐との衝突が、薄い金属を折るような音を響かせる。
妖狐は距離を取るが、白月が追いつめるように地を蹴る。飛びかかる軌道は無駄がなく、まっすぐに敵の喉笛を狙っていた。
しかし、妖狐もそれを読んでいたかのように身を翻し、寸前で回避する。返す爪の攻撃が白月の脇腹を掠め、服と皮膚を浅く裂いたが——それは、些末なことなのだろう。白月は一瞬たりとも怯まなかった。
すぐさま反撃。再び間合いを詰めると、白月は力の入った腕を素早く閃かせた。
金切り声のような音が、私の鼓膜を突き刺す。鋭い爪は、妖狐を大きく切り裂いていた。
空気が千切れるような、耳をつんざく悲鳴が、赤い闇の果てまで響き渡った。
妖狐の喉から絞り出される声は、人のものとも獣のものともつかない。肌の下の骨が震えるほど、苦悶と怨嗟が混じり合い、まるで幾千もの魂が泣き叫ぶかのようにこだました。
その体が崩れていく。毛並みのような影の表面がパラパラと剝がれ落ち、長い尾がのたうち回るたび、赤黒い霧が辺りに揺らぐ。鋭くしなった爪が虚空を引き裂こうとするが、もはや何も掴めなかった。
ただ、天を仰ぐような妖狐の喉奥から、血膿を啜るような濁声が漏れた。それは言葉というより、咳き込み、呻き、嘆きと呪詛が溶け合ったような音で。
——何故、貴方様ガ……斯様ナ者ヲ護ロウトスルノカ……。
見下ろす白月が、細く息をついて何かを返した。
——おれは……人間だから。
かすかな呟きは、そう唱えた気がした。
妖狐の姿はぼろぼろに崩れ、やがて赤闇に溶けるように消えていく。
残されたのは、静寂だけだった。
ゆるやかに、赤い闇が霽れていく。
與が私たちを振り返っていたが、私の目は白月に向いたままだった。そっと人へと収まっていく彼の身体を、見つめていた。
名を呼ぼうか、私はためらっていた。賞賛を掛けたい気持ちに、ささやかな恐怖が差したのだろうか。動けずにいる私を、白月のほうが振り返っていた。
重なった目の奥で、白月の心が揺れたように見えた。
だが、その戸惑いは一瞬だった。
突如として瞳に険しさを走らせたかと思うと、白月は迷いなく距離を詰めてくる。
緊張に身を強張らせた私の前まで来ると、私の腕に囲われていた青年の体を、白月は勢いよく引きずり出した。
「おい、白月っ?」
動揺の声で、遅ればせながら止めようとしたのは與だった。
私は抗う間もなく腕を空にしていた。
慌てふためく青年の胸倉を掴んだ白月は、その青年の胸ポケットに手を突っ込んでいた。乱暴なまでの挙動で奪い取ったのは——。
「どういうつもりだ」
白月の手によって曝されたのは、ただのスマホだった。
一瞬、何が言いたいのかさっぱり分からずに困惑した私だったが……理解する。その画面はカメラが起動していた。
「てめー、こんな状況で録画しやがって……」
答えない青年に痺れを切らしたのか、勝手にスマホを操作する白月が瞳を尖らせた。
「なんだよ、これ……」
動画を確認しようとしたのか。
白月の手の中から流れてくる音声は、どうも現在のものではない。青年の笑い声——複数の、騒ぎ声。
「なんだよっ、これは!」
白月の怒鳴り声と共にベッドへと叩きつけられた画面には、目を疑いたくなる光景が映っていた。
夜の肝試し——例の、神の島で。
青年たちが、古びた小さな祠を蹴り壊していた。




