宵闇に
車内は静かだった。
道を滑りゆく音が絶えまなく聞こえていて、沈黙を痛感するほどではない。
ただ、それでも與は静かすぎると感じた。横の助手席に座る楪は、殊勝なことに大人しい。
もとより黙っていれば、與にとって楪は忘れられる存在だ。気にならない。目につかない。服によるモノトーンの色彩もあるが、生命力のようなものが乏しいのかも知れない。オーラがない。色気がないとも言える。
——調子が狂う。
柄にもなく、與はそんなことを思っていた。
大して時間を共にしたわけでもないのに、横で押し黙る楪が奇妙だと思える。與を『天の邪鬼』と宣うくらいには、図太い神経の持ち主だと認識した。しかし、今の楪は別人のように気を張っている。
運転のあいまに與は目を流した。神経質そうな横顔に、張り詰めた弓弦が重なる。膝の上に置かれた拳が、固く握りしめられている。指の節は白くなり、わずかに震えて見えた。
「寒い?」
與が思いつきのままに尋ねると、ぱっと楪の顔が與に向いた。怯えたかのような挙動だった。
大きく開かれた楪の瞳を横目に捉えながら、與は返答を待たずに暖房をつけていた。
「ぁ……いえ、平気です」
二人の前方中央、スイッチに触れようとした楪の手は、與によって阻まれる。
「俺が寒ぃから」
掴まれた楪の手は、びくりと硬直した。與は即座に放したが、同じく凍りついたような空気に、楪の口から細い吐息が流れた。
「……寒いのは、平気じゃないんですね」
かさついた笑いを零した。
「痛いのは、平気なフリをしたのに……」
與の瞳が、横を鋭く刺す。先ほどの天の邪鬼宣言と違って、楪は愛想笑いのような中途半端な笑顔を浮かべていた。揶揄にしては、か細い声だった。與の機嫌を取るような、距離を測るような慎重さがあった。
沈黙が降りる。楪のほうが、間を結ぶように明るい声をあげた。
「捜査官さんは、私を送ったら自宅に帰るんですか? 今日のお仕事は終わりですか?」
「あ~、多分な」
「誰か待ってる人は……?」
「いねぇよ」
「……一人暮らしですか?」
「そ。寮みてぇなもん」
「そうですか」
——俺に興味でもあんの?
普段なら、何も知らない相手ならば、與はそれくらいの返しはする。恋愛めいた駆け引きが苦手なわけではない。普通の人間と、それなりの付き合いもある。
軽い返しをしなかったのは、気があるようなセリフとは裏腹に、会話が空虚で、楪の真意が読めずにいたからだった。日中の勘違いが尾を引いているのもある。
「私は、蓮ちゃんが……妹が、待ってるんです」
視線を前に戻して、楪は静かな声で話した。日が暮れた空に、一番星を探すような目をしていた。
「あぁそう」
與は適当な返事をしつつ、ハンドルを回す。目的地である楪の住所は覚えている。
「蓮ちゃんは、私が護ってあげないと……もう、ふたりきりの家族だから……」
「………………」
なんなのか。なんのアピールなのか。
與が自分の妹に手を出すと思い込み、牽制しているなら、心外でしかない。そこまで言うならさぞかし美人なのだろうが、與は妹の顔は知らない。
「お前の妹なんか興味ねぇよ。会いたくもねえ」
不愉快と困惑の半々で、與は不服を唱える。
楪は、長いポニーテールを揺らして振り返った。
「ほんとですか? じゃあ、会わないって約束してください」
「なんで……」
声高に詰め寄った楪に、與は鬱陶しげな声をこぼした。
けれども、楪のほうは真剣な目をしている。ふざけているわけではないらしい。
「約束してください」
「ハイハイ、約束な~」
煩わしさから、與は聞き流すようにあしらった。楪から目を離して、周囲の景色に意識を向ける。
話は終わったとみなした與の横で、楪はまだ執拗に言葉を続けていた。
「蓮ちゃんに手を出そうとしたら、私が止めますからね。なんとしても」
「お前、俺のことなんだと思ってんの」
しつこい。
不機嫌に投げかけた與の問いに、楪は口を小さく動かしたが、すぐさま閉ざした。
なんと言おうとしたのか。與には分からなかったが、訊き返す必要もなかった。車は目的地へと到着していた。
辺りには宵闇が広がっている。與が車窓から目をやると、楪の家には明かりが灯っていた。二階の一室、カーテンの隙間から光が漏れている。リビングや玄関内部も照明が点いているようで、家はまるで存在を知らしめるように、明るく光を放っていた。
降りようとした與がドアに手を掛けると、楪が横から制した。
「ここでいいです。ありがとうございました」
早口に告げると、楪は素早い動きで車から降りていく。思いのほか動きの良い楪に面喰らっていると、門戸に手を掛けた彼女が振り返った。
名残惜しい——そんな顔ではないが、與が去るのを見送ろうとしているふうではある。
與は、運転席の窓を下げた。
「何してんの? 早く入れよ」
「捜査官さんこそ、帰らないんですか」
「お前が家に入るまで、見届けてやってんだわ。いちおう警察官なの、俺」
「……知ってますよ」
「じゃ、早く入れ」
楪は視線を落とし、そっと眉を寄せる。指先で袖口をつまみ、頼りなく揺れる仕草が逡巡しているようだったが、やがて曖昧な笑みを浮かべて頷いた。
「では、お先に失礼します。お世話になりました。さようなら」
社交辞令の声色だった。
出会ってから與が聞いた中で、最もにこやかであるというのに、一切を拒むような隔絶感があった。
さようなら。その一言に、強い念が籠もっていた。
返事はしていない。與の反応を待たずに、楪は門戸を開けて玄関へと歩いていった。ほぼ黒のモノトーンをした後ろ姿は、家の明かりを背負って深い陰を刻んでいる。
開かれたドアの向こうから、まばゆく光が広がった。帰宅を告げる楪の声が、閉じゆくドアの隙間から與の許まで届いた。
「ただいま」
そんな声も出るのか。ぼんやりと與は思った。明確に言語化されていなかったかも知れない。
家人を待つ家の眩しさに、與は目がくらんだかのように、少しだけ目をつむった。慈しみのある温かな声の余韻が、遠い記憶を呼び覚ます気がした。
——おかえり。
これは、錯覚だろう。
與に幼い頃の思い出はない。あるとしたら、怪異と化してからのもので、その声は家族のはずがない。
胸を刺す複雑な感情は、徐々に暗い焔へと呑まれていく。
目を開けた與の顔は、無表情だった。車を出そうとしていた。
ゆるく発進した車から、與は前方へと目を向けていて——突如、曲がり角から人が飛び出てきたのを捉え、ブレーキを踏んでいた。
「あっぶねぇ~……」
冷や汗が出る。独り言も出ていた。
肝の冷えた與は、前方を改める。飛び出してきた人間は、スーツを着た女だった。大げさに頭上で両手を振りながら、
「ごめんなさいね~?」
運転席の窓へと駆け寄ってくる。窓は下げたままだった。
明らかに車の進行方向を妨害する動きだったことに対して、與は疑惑の目を送る。文句のひとつでも言いたかったが、あちらは歩行者でこちらは車両。分が悪い。口は閉ざしていた。
窓に身を屈めたスーツの女は、與に向けて小首をかしげてみせた。
「こんばんは。ちょっとよろしいですか?」
「……誰だ?」
「わたくし、こういう者でして」
そつなく両手を添えて名刺を差し出す女は、週刊誌の記者だった。片手の指で挟むように受け取った與は、名刺をなぞって目を細めた。
女は媚びる笑顔を浮かべ、窓枠に手を掛ける。
「朝美 楪さんのお知り合いですね? よければ、お話を聞かせていただけませんか?」
楪が被害者となった、連続暴行殺人事件について取材をしているのか。
目的は理解した。幸いなことに女は、與が警察官であると察していないらしい。與は冷淡な態度で返答した。
「他を当たれ」
名刺を突き返して、窓を上げる。
しかし、女は手をどけなかった。センサーが反応して窓が上がらない。
「……おい」
與が、威圧的な声を低く発する。女は、笑顔の口許を引き攣らせつつも粘った。
「朝美さんのご様子は、どうでしたか? 被害者遺族としても、随分と参っていたでしょうに……今回のことで、新たに心の傷を負われたことでしょう?」
「うるせぇ……勝手に喋ってんじゃねぇよ、どけ」
「悲痛な胸のうちを語っておりました? それとも、妹さんの無念を霽らした気持ちのほうが強いのかしら……」
「あぁ?」
與の鋭い瞳と声に、女がたじろいだ。女は窓枠から手を離し、急いで身を引いたが、與のほうが腕を掛けて顔を乗り出していた。
「今、なんて言った?」
與の怪訝な目を受けて、女は取り留めのないようすながらも応える。
「しし失礼しました……。犯人が捕まったからといって、亡くなった方が戻ってくるわけじゃあ……」
「——亡くなった方?」
與の復唱に、女が困惑の表情をする。しどろもどろな空気のまま、女は疑問の浮かぶ瞳で與を見返した。
「三人目の被害者である妹さんが、今回の連続事件で唯一、亡くなられた方ですから……?」
與の眉頭が、深く歪んだ。
楪の声が、頭の中で響いた。
——蓮ちゃんは妹です。両親を亡くしてるので、ふたり家族なんです。
與は、窓から出した顔で背後を振り返った。
眩しいほどに煌々とした家は、白々しく宵闇に浮かびあがっていた。




