緋色の警告
與捜査官は、非常に気分を害されたようすで捜査室を出ていった。
最後は怒りの笑みだった。
「お前だけは、今後なにがあっても助けねぇわ」
警察官にあるまじき捨てゼリフまで吐いていった。
私はキーボードを鳴らし始めたが、思い出し笑いのように唇から息をこぼしていた。天の邪鬼。似合う。ふふっ。
勝手に笑みを鳴らす唇に、
(あれ? こんなふうに笑うのって久しぶりかも……?)
凝り固まっていた精神が、少しほぐれるような感覚があった。誰かと気兼ねなく話す機会を、最近は得ていなかったのか……。
思考の表層をかすめた疑問は、ふいに別の音によって掻き消された。
——クスっ、と。
打ち込む文字の狭間で、呼気の音が聞こえたのだ。笑うような。
私じゃない。
びくりと振り返った。たった今まで、空気の揺らぎひとつ感じられなかった背後から、気配がした。
デスクが並ぶスペースには誰もいない。その奥に鎮座する可動式の棚の陰から、クスクスと笑う声がする。
「だ、誰ですかっ?」
「おや、驚かせたかのぅ?」
陰のなか、すらりと立ち上がる者があった。
注意して見れば、壁に寄せられたソファがある。死角のような陰から現れたのは、黒髪の——。
「あっ」
緋色の眼に、すぐさま思い出した。年寄りぶる不審な青年。私が拾った(くすねた)警察手帳の持ち主。
気づいた私に、青年は薄く微笑んで首を傾けた。
「じつに短い逃亡劇じゃったのう」
からかいの声が、唄うように響いた。なんの話か。戸惑う私を気にせず、彼はゆるりとした足取りでこちらまで歩いてくる。
「えっと……?」
「——あぁ、名乗っておらんかったか」
青年の纏う、長いトレンチコートの裾が揺れる。
「緋乃縁 椿じゃよ。お見知りおきを、お嬢さん」
近づいた青年から、ふわりと花の香りがした。廊下で衝突したときにも感じたが、仄かに甘い。
ひのふち、つばき。警察手帳の中身を見ているので、字面もぼんやりと浮かぶ。赤色がイメージされる名前だったはず。
私を細く見下ろす双眸も、この世の者と思えない赤い虹彩をしている。
(まさか、この人も……?)
鬼ですか? などと、不躾に尋ねるわけにもいかない。名乗り返す発想もなく、おののく気持ちで私は青年の端整な顔を見上げていた。
青年は鷹揚とし、やわらかく唇を開いた。
「先刻の無礼を詫びよう。うちのシロが、お嬢さんを脅かしたようで……我が不行き届き、慚愧に耐えぬ。赦しておくれ」
青年は手を胸に当てると、うやうやしく頭を下げた。礼儀正しい所作は、不審な第一印象と格差があった。
赦す、とは。青年の謝罪が何を指しているのか、理解できずに私は狼狽えたが……遅れて、脳裏で繋がるものがあった。
「しろ……もしかして、地下の白い狼のような……」
バケモノのこと。
言いかけて、言葉の先をつぐんだ。青年は何を思うでもなく、唇に微笑を乗せたまま応えた。
「あの仔は未熟でのう……。時に自制がきかぬのじゃ。斯様に危うい者を用いるのは、いかがなものかのぅ……?」
小首をかしげる青年の顔は麗しく、整いすぎていて話の内容があまり頭に入ってこない。遅れおくれで言葉の意味を拾うが、私が反応する前に青年が口を開いている。私はうまく話せていない。
「——さて、お嬢さんや」
艶やかな声が、張り詰める。緊張というよりも、ぴんと張られた弦をつまびくような声音。
目を合わせる瞳は、私をじっと捕らえて放さない。
「先人からの警告じゃ。我らの主君は、賢しき男じゃからのう、気をつけなされ」
——赤い。鮮血で染めたみたいな眼は、そこに得体の知れない魔が潜んでいるかのように、妖しく恐ろしく在る。
コ……コ……と、時計の針が音を刻んだ。
口腔に溜まる唾を呑み、私は小さく口を開いた。
「菫連木さんのことを言ってるんですか……?」
「そうじゃよ。——ただし、お嬢さんが取り分けて用心すべきは別の者じゃ」
「……?」
青年の微笑みが、わずかに変化した。
「怪異と呼ばれるモノが、人の想いを糧に力を得ると、聞いたじゃろう?」
「……はい」
「あれは、言葉が足りておらぬ」
「え……?」
疑問に惑う私の顔を、青年は憐れみの微笑で見つめた。
「鬼は、人を喰ろうてこそ、人外の力を得る。お嬢さんが絆されかけておる『鬼まじり』も——しかり」
朗々とした声は、まるでおとぎ話を語るように響く。どこか幻めいたそれは、私の頭を玲瓏たる音色で揺らした。
「あの者は、数多の人を喰らった化け物じゃよ」
誰のことを話しているのか——問わずとも、私の脳裏には、はっきりとその正体が浮かんでいた。
赤い闇を背に、凶悪な笑顔を浮かべた鬼の顔。尖る爪と、額から伸びる片割れの角。容赦なく打ち下ろされた警棒が鳴らした、鼓膜にこびりつくような音。
忘れては、いない。
「まさか……」
引き攣る頬で、できそこないの笑顔を返した。そんなわけない。そんなひとじゃ——ない。
冗談と受け流すには、口内が乾いていた。否定しようとした私の唇は震えただけで、何も音を成さない。
なにより、否定できるほど、彼を知りもしない。
青年の赤い眼は、不憫な者を見るように私を眺めていた。
「虚言ではない。あれは、鬼が棲まうだけの空の肉体じゃ。その証拠に、あの者は、身内をすべて喰い殺しておる」
言葉を、失った。
ひゅっと喉だけ鳴ったが、私の唇が言葉を紡ぐことはなかった。
——身内を、すべて、殺した。
心の臓が冷える心地で、私は自分の身を抱くように片腕を回した。
力が入る私の手に目を落として、青年は微笑みの唇を深める。
「ゆめゆめ忘れるなかれ——鬼の花嫁御よ」
窓から、赤い陽が射している。
禍々しくも美しい赤の眼は、陽を厭うように細く細く私を見つめていた。




