鬼のひと
「お前、何やってんの?」
彼は開口一番にそう言った。
そこに嘲弄や軽蔑の意はなく、心の底から「何やってんの」という思いで尋ねたのが分かった。
だからこそ、逆に問い返したい。私は今、何をやらされているのか。
ノートパソコンから目線を上げてみる。開いたドアから入ってきたのは與捜査官だった。
ようやく纏まった文書を確認するため、気難しい顔でディスプレイを睨んでいた私に毒気を抜かれたのか、彼は幼児のような丸い目をしていた。
與捜査官は、再度問う。
「……お前、何やってんの?」
「私に訊くんですか」
「お前以外、誰に訊くんだよ」
「あなたの上司に訊いてほしいです」
「はぁ?」
眉を段違いにして疑問の声をあげた與捜査官に、私はムッとした唇で対抗する。ノートパソコンをくるりと回し、ディスプレイをあちらに向けた。
ドアの所で止まっていた與捜査官は、眉を寄せて目を凝らした。その距離で読める文字サイズではない。人じゃないなら、いざ知らず。
「……見えてます?」
「いや、全然」
「ちゃんと見てください」
ずいっとノートパソコンを前方に差し出した。
與捜査官は首をひねりつつ、慎重に近寄る。背の高い身を屈めて、ディスプレイを覗き込んだ。
「……捜査報告書?」
「そう、それです!」
「なんでお前が作ってんの?」
「だから、私に訊かないでください。あなたの上司が指示して去っていったんです」
「は? 冴が、お前にやれって?」
『さえ』って誰だ。
三秒ほど停止してから思い出した。菫連木さんの下の名前だ。
私の肯定はまだだったが、與捜査官はノートパソコンを操作し、文書を眺めた。
部外者に何をやらせているのか。間違いなく、菫連木さんへの批判が返ってくると信じていた私に、
「……合ってる」
「はい?」
「これ、お前の見立て?」
「……見立て?」
「事件の概略。これ、下の分析官と同じ見解じゃん。……お前、優秀だな?」
與捜査官は、真顔で感嘆した。
表情とセリフの食い違いのせいで、私は褒められたと気づくのに時間がかかった。
それほどでも。謙遜の言葉を返そうとして、なんか違うぞ、と。思いとどまる。
思っていた展開と違う。
「あのっ、そうじゃなくて——」
「ついでに」
私の言葉を遮って、與捜査官はノートパソコンを回した。さよならしたはずのディスプレイと再会する。
與捜査官もテーブルを回ってくると、私の右横について文書の一部を指さした。
「ここ、分析結果も付けろ」
「はい?」
「部位のデータは、これ。確認して報告書の曖昧なとこ埋めとけ」
バサっと横に置かれた紙の束。切断された人体の写真や、死体に関する細かなデータが記されている。
「え、なぜっ?」
しごく真っ当なリアクションだと思う。しかし私の疑問に、與捜査官もしごく当然といったようすで、
「お前が作った報告書だろ? そこまでやったなら、最後までやれるだろ」
さらりと答えると、隣のイスを引いて腰を下ろした。彼は彼で別の資料を読み始める。
あんぐりと口を開けて私は彼の横顔を見ていたが、慌てて食い下がった。
「あの! 私、これが終わったら帰っていいって……菫連木さんに言われましたよ?」
「あぁそう。じゃ、早く終わらせろ」
「終わったんですけどっ」
「終わってねぇって。細かい情報がなくてスカスカだろ」
「そのへんは適当でいいと言われましたよ」
「よくねぇよ。必要になったときのために、分かりやすく記録しろ。じゃなきゃ、文書を残しとく意味がねぇ」
とても正論めいたことを言われている気がする。気がする、というだけで、腑に落ちるわけではない。
動き出さない私の手を見兼ねたのか、與捜査官は金の眼をこちらに流した。
「どのみち、お前を送ってくのは俺。仕上げたら送ってやるわ〜」
「捜査官さんが、やればいいじゃないですかっ」
「俺も仕事あんだよ。お前、どうせ暇だろ〜? お前の報告書よくできてるから、そのまま仕上げりゃいいって」
「……そんなによく出来てます?」
「ここまでやれる捜査官、特異にはいねぇ」
「……まぁ、作文や小論文あたりは、昔から褒められてきましたけども」
「(お〜、ちょろい)」
「あ。なんです? その顔、なんです?」
「なんでもねぇ〜」
顔を背けて、與捜査官は手許の資料に目を戻した。よく見えなかったが、笑いを噛み殺すみたいな顔をしていなかったか。
資料に向いた與捜査官の目は、もう戻ってこない。仕方なしに私もテーブルの上の資料を手に取った。
パラパラと流して(写真は生々しいので意識から外しつつ)目についたのは、人の名前だった。当たり前だが、私が見た四人の人影は殺人事件の被害者であり、それぞれに名前があった。
存在した人たちだ。夢ではない。今はっきりと、確信が胸を突いた。
首を絞められた男は、どうしてあんなバケモノを作ったのか。死体を繋ぎ合わせて、何がしたかったのか。
——そんなことは、どうでもよかった。
赤い世界で見た、男の狂った笑みが、すべてを物語っているように思う。
異常者を理解したくはない。想うならば、最初の被害者たちを。怪異になってしまった、彼女たちを。
どうしてホテルに行ったのか、何がしたかったのか。誰でもいいから怨みをぶつけたかったのか、助けてほしかったのか。帰りたかったのか、返してほしかったのか。
報告書の精度を上げるべく情報を加えながら、今となっては何にもならないことを、それでも考え続けていた。
怪異となった彼女たちは、何を望んでいたのだろう。
私は、何ができたのだろう……。
渡された資料を読み解くことに没頭していて、しばらくの間、周りは見えていなかった。
気づけば隣で資料をめくる音が途絶えていた。私に向く視線を感じて、横に目を向ける。テーブルに頬杖をついた與捜査官と、目が合った。
「なんですか……?」
観察されていたように思う。うろんげに尋ねると、與捜査官は感情の読めない顔で答えた。
「お前、俺のこと怖くねぇの?」
ぱちり。瞬きひとつ分で、思い出した。このひと鬼だ。
いや、忘れていたわけじゃない。そこまで馬鹿じゃない。報告書作りに夢中になっていたのと、入室したときに彼がきょとんとした丸い目で入ってきたのが悪い。鬼の面影が重ならなかった。
それとも、菫連木さんから聞いた話のせいか。
ぐるぐると頭の中で言い訳の嵐に翻弄されていたが、はたりと答えを思いつく。
「あっ、ほら! 今は、おでこのとこ、ぎゅーんってなってないので」
左手の人さし指を立てて、自分の額にくっつけて見せる。『鬼』や『角』のワードを出すのは憚れた。
菫連木さんからは、與捜査官も怪異事件の被害者であると聞いた。けれども、とっさに「怖くない」と否定することはできなかった。
適当な私の主張に、與捜査官は片眉を上げる。
「お前、やっぱ抜けてんのな」
薄っぺらい目で呆れたように息をこぼされた。馬鹿にしている。彼の境遇を思って言葉を選んであげたというのに。
不満の気持ちから、つい唇を突き出してしまいそうになったが……
「……感謝、してます」
開いた私の唇は、思い直して言葉を変えた。
「助けてもらったことも、犯人を追いかけてくれたことも……感謝してます」
與捜査官は無言だった。訝しんでくる金の眼は相変わらず失礼だ。鬼やら被害者やらは関係なく、単に彼の人格に問題があるような。人としてダメなような。
「……あ。でも、事件だって分かった瞬間、隣の部屋に飛び込んでいったのは見直しました。ちゃんと警察官でした」
内心で彼の品性を疑っていたが、唯一の評価ポイントが思い浮かんだ。声を明るくして伝えると、與捜査官は稲妻のように眉を動かした。
「『でも』ってなんだよ」
……たしかに。今のは私が失礼だった。批判的な心の声が、ちみっと表に出てしまった。
與捜査官は眉をひそめたまま続ける。
「『見直す』ってのも、」
「あ〜っと! ここ、質問いいですか? 専門用語で分かりにくいんですよねっ」
無理やり話の方向をねじ曲げ、私は資料を掲げてみせた。與捜査官の目は資料に流れたが、「あ〜? どれだ?」残念なことに、見せたところは写真が中心だった。専門用語なんてない。
同じところを目で追って、言い訳が尽きたことを悟る。ふぅ。私は諦観の境地で呟いた。
「……なんだかお腹が空きましたね」
「お前の情緒どうなってんの?」
フォローしようとして、道を踏み外し転げ落ちた気分だ。慣れないことをするものではない。
すべてを放り投げた私の唐突な呟きに、與捜査官は懐疑的な声で切り返してから、立ち上がった。
「たしかに、腹減ったわ」
與捜査官の目が、すっと壁の方に流れる。時計があった。集中していて時の流れを感じていなかったが、窓の外は日が落ちて赤く染まり始めている。
私も與捜査官も、昼は軽食のみだ。
「食いもん買ってくるけど、お前も要んの?」
「えっ」
思ったよりも大きな声が出た。びっくりした。
私の杜撰な発言を、意外にもまともに受け取ってくれたことに、非常にびっくりしていた。
「……なんだよ」
低く落とされる與捜査官の声に、そろそろ私のほうが失礼だなと自覚する。首を振って遠慮した。
「いえ、大丈夫です。夕飯は帰って作るので……」
「あ、そう」
「……というかですね、私、もう帰っちゃだめですか?」
「そこまでやったなら、やりきれよ」
「夕飯……蓮ちゃんのために、早く帰って作ってあげたかったのに……」
昨夜に続き、帰宅時間が怪しくなってきた。蓮花が文句を言う幻聴が聞こえる。ぱっと簡単に作れる副菜は何があるだろうか。
記憶の中の冷蔵庫から夕飯を思案していると、捜査官の声が頭上に掛かった。
「お前、子供いんの?」
意外そうな響き。顔を上げてみると、與捜査官は瞳にも意外そうな色を浮かべていた。
「え? いませんけど?」
「は?」
「? ……あ。蓮ちゃんは妹です。両親を亡くしてるので、ふたり家族なんです。蓮ちゃんは昔から、『お姉ちゃん、お姉ちゃん』と後ろをついてくる、とっても可愛い妹で……そう、私はシスコンなんです」
「すげぇどうでもいい情報」
「そっちが訊いたんじゃないですか」
「訊いてねぇよ」
ため息まじりに話しながら、與捜査官はテーブルを回っていく。首筋に手を当てて、さするような動作をしていた。そういえば、彼は首を折っていなかったか。
「あの、」
ドアに向かう背中を呼び止めた。何も考えずに呼び止めていた。首だけで振り返った與捜査官は、気怠い目を私に流した。
窓の縦長のブラインドから、細く光が射している。金の眼は、うっすらと赤を帯びた。
「……首は、大丈夫ですか?」
「首?」
「首、痛めてません?」
「痛めてねぇよ」
「……強がってません?」
「はあ?」
「よかったら、湿布をあげましょうか。私、持ってますよ?」
「要らねぇ〜」
迷惑そうに顔をしかめた與捜査官に、虚勢は感じられない。
「そうですか……」
與捜査官の首筋に視線をそそいでいると、彼は大げさに息を吐いてみせた。
「俺は、お前らとは違ぇんだよ」
「……違うんですか?」
「あぁ〜? バケモノの姿、お前もちゃんと見ただろ。忘れてんの?」
「……でも、」
座ったまま、彼の眼を見つめる。陽に染まる異質な眼は、オレンジの色を灯している。
無機質なガラス玉に、生命の熱が宿ったように見えた。
「『痛い』って、言ってましたよね?」
赤い世界のなかで、彼は確かに言った。
——あ〜、いってぇ……。
首が折れる音は異常だった。人体が鳴らしていい音ではなかった。平然としていた彼が普通でないことは、理解したつもりだ。
でも、
「攻撃を受けて、痛くないわけじゃ……ないんですよね?」
「………………」
陽を帯びた金の眼は、かすかに揺らいだ。彼が入室したときにも思ったが、見た目によらず分かりやすい人だ。顔に出やすい。
沈黙の時を挟む。彼は口を開いたけれど、否定するには少し遅い。
「湿布、あげましょうか」
「要らねぇ」
先んじて尋ねてみたが、即座に却下される。相変わらず迷惑そうな目つきは変わらない。
ただ、私のほうは小さく笑っていた。
「おい、なに笑ってんだよ」
「なんか……こういう鬼、いたなぁと思って……?」
「は?」
「あっ、思い出した」
閃きのままに、声を張る。
「天の邪鬼だ」
つい満面の笑顔で答えた。彼の額で青筋が浮いた気がしたが……私はもう、あまり怖くはなかった。




