第2章 出会いは恋の予感?-2
少女は暗闇の中に立ち尽くしていた。
ここがどこなのか。
自分の名前すらわからない。
何も思い出せなかった。
何もない。
逃げ出したくても足が動かない。
助けを呼ぼうにも声が出ない。
自分の体が自分のものでない感覚に、少女は怯えていた。
少女の体は漆黒の闇の中へと沈んでいく。
深く。
深く。
深く。
まるで深海の底へと沈んでいくように、ゆっくりと。
少女は心の中で必死に助けを求めた。
そんな少女の願いが通じたのか、一筋の光が少女を照らし出す。
そして、そこから差し伸べられた手は、少女の手をしっかりとつかんで離さない。少女を
漆黒の世界から光ある世界へと導いてくれる。
少女はその暖かい手の主の名を呼んだ。
「恭平さん……」
目を覚ました叶陽香の目に入ってきたのは、いつもの見慣れた天井だった。
陽香は半身をゆっくりと起こすと、自分がベッドで寝ていたのを確認する。
「よかった」
陽香はベッドから出ると、汗ばんだ体にぺたりとくっついた長い黒髪を二つに束ねた。
室内の時計は八時を回っていた。カーテンの隙間から日差しが差し込む。今日もまた暑く
なりそうである。
陽香は喉の渇きを潤すため、天窓から朝日が差し込むロウカを渡り、ダイニングルームに
向かった。
「おっはよう、はぁちゃん」
ダイニングルームに入った途端、明るい声が掛けられた。陽香は声の主に目を向けた。
声の主、楠野志穂は、ダイニングテーブルで優雅にコーヒーを飲んでいた。ロングのウエー
ブヘア、彫りの深い顔立ちは一見西洋人にも見えるが生粋の日本人らしく、それを強調する
かのように不似合いな甚平を着ていた。
志穂は隣のマンションの住人で、モーニングコーヒーを毎朝かかさずに飲みにやってくる。
二十一才だが、都内の大きな塾の講師をしているらしく、何度か勉強をみてもらったこと
がある。兄、恭平の、自称親友らしい。恋人の間違いではないだろうかと思ったこともあっ
たが、恭平の志穂に対する態度を見てそれが勘違いであることを悟った。
「おはようございます、志穂さん」
陽香はペコリとお辞儀すると、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出しコップに注ぐ。
ミネラルウォーターを飲んだ陽香は、ダイニングテーブルの上に置いてあるサンドイッチ
に気付く。
「あの、お兄ちゃんは?」
「恭平さんなら道場のお掃除よ」
志穂は新聞を読みながら答える。
叶家の住居は空手教室の二階にあった。叶家の収入は恭平がやっている空手教室の月謝だ
けだった。最近ではダイエットや護身目的で空手を始める女性が増えてきているらしく、生
徒に困ることはないらしい。今や重要な収入源だ。
陽香はサンドイッチに手を付けず、ダイニングルームを出ていこうとした。
「ダメよー、はぁちゃん。恭平さんがせっかく作ってくれたサンドイッチなんだからちゃん
と食べてあげなきゃ」
そう言いながら志穂はちゃっかりサンドイッチを一切れ手に取っていた。が、志穂はそれ
を口の中に入れることなく、すぐに皿の上に戻した。
「賢明な選択だな」
陽香の頭上から低い声が降り注いだ。振り向くと、トレーニングウェアを着た恭平が立っ
ていた。切れ長の瞳には明らかに怒りの感情がこめられている。
「お早いお帰りね」
「それは陽香のサンドイッチだから手を出すなと忠告しておいたはずだが」
「でも、はぁちゃんも十六歳。体型とかにも気遣うお年頃になってきたかと思うからダイエ
ットに協力してあげようかなって」
「陽香にそんなものは必要ない」
志穂は陽香を一瞥する。
「ごもっともな意見ね。はぁちゃん、スタイルいいから」
志穂はバツが悪そうにコーヒーカップ片手にリビングへ移動した。
「おはよう、お兄ちゃん」
陽香は恭平の顔を見上げた。口では兄と呼びながらも、未だに恭平が兄だという実感がな
かった。
陽香は三年前の火事で両親と記憶を失った。思い出したくても、両親の顔すら思い出すこ
とができない。写真も残ってはいない。あの火事ですべて燃やされてしまったのだ。
両親を失った陽香を、親代わりとなって今まで面倒を見てくれたのは十歳年上の恭平だっ
た。
「朝食はちゃんと食べないとダメだと言ってるだろう」
「うん」
陽香が席に着くと、恭平はミルクの入ったコップをサンドイッチの横に置いた。
「陽香、またやっちゃったの?」
「………………」
恭平は答えてくれなかった。しかし、いつもなら夜のうちにしておく教室の掃除を朝やっ
たということがすべてを物語っている。
陽香は夢遊病という病に冒されていた。記憶喪失の影響なのか、はっきりとしたことはわ
かっていない。
寝ている陽香がどこかへ行く度に、恭平は陽香を探し回る。おそらく、昨夜も。
「ごめんなさい」
「お前が気にすることじゃない」
恭平のやさしい言葉が陽香には辛かった。逆に怒られた方がまだ気が楽だったかもしれな
い。
自分はいつも恭平に迷惑を掛けてばかりいる。この三年間、ずっと。
「ごちそうさま」
陽香はたまごサンドを一切れ食べると、逃げるようにして自室に戻った。
「あーあ、かわいそうに。はぁちゃん、今にも泣き出しそうな顔してたわよ」
リビングに退避していた志穂が、ダイニングテーブルに戻ってくる。
「恭平さんのやさしさってのは、一種の罪よねー」
陽香が食べ残したサンドイッチを志穂は遠慮なく食べ始める。
「どう接してやればいいのかわからないんだ」
「いっしょに暮らしてもう三年。お互いそろそろホントの兄妹になってもいい頃じゃないな
いの?」
「しかし、陽香がまだ」
「恭平さんがそんなことだから、はぁちゃんだってまだ心を完全に開くことができないのよ。
まずは恭平さんの方から変わっていかなきゃ」
「俺はお前のように器用じゃないんだ。そんな簡単に気持ちの切り換えなどできない」
「私だってそんな器用な人間んじゃないんだけどね」
志穂の表情に翳りが見えた。
「すまない。言い過ぎた」
「いいの。もう済んだことだから。それより、これ」
志穂は読んでいた新聞記事の一面をこちらに向けた。
女性行方不明事件の記事が書かれていた。
「今週でもう十八人。実際はもっと多いでしょうけどね」
「俺たちには関係のないことだ」
「本当にそう思ってるの?」
「………………」
恭平は答えることができなかった。
「都合が悪くなるとそうやって黙る。そんなだからあの子は未だに笑うことができないの
よ!」
志穂は言い捨てると、ダイニングルームから出ていった。
「志穂の言う通りだな。俺は何一つ変わらない、三年前から」
ダイニングルームに一人取り残された恭平は、陽香は座っていた席を見つめる。陽香が時
折見せる寂しい笑顔。陽香は心から笑っていないことには気がついていた。しかし、自分に
は陽香を心から笑わせてやることはできない。
「くそ!」
恭平は壁に拳を叩きつけた。




