第5章 終わらない夢-2
その日の朝は目覚めが良かった。いつもの気だるさが全く感じられなかった。こんなに心
地よい朝を迎えたのは初めてのような気がした。
陽香はベッドの上で半身を起こすと、両腕を上げて大きく伸びをした。いつもと同じ部屋
がどこか明るく見えるのは、気のせいなのだろうか。
「昨日は眠れないと思ってたけど」
いつの間にか眠っていた。しかも、悪夢にうなされなかった。
「やっぱりこれって、東さんのおかげなのかな」
陽香は昨日のことを思い出し、小さく笑った。
陽香はパジャマから普段着に着替えると、洗面所に向かった。鏡に映る自分さえも明るく
見えてしまう。
「おはよう、はぁちゃん。今朝はごきげんね」
鏡越しに志穂が顔を出したのが見えた。
振り返る。
志穂は相変わらず不似合いの甚平を着ていた。
「何かいいことあったのかな?」
「はい」
陽香は躊躇することなく答えた。
「おっ、いい笑顔だこと」
「志穂さんは目が赤いですよ。寝不足ですか?」
「ひ・み・つ」
志穂はウインクすると、ダイニングルームに向かった。陽香は続いた。
ダイニングルームに行くと、コーヒーを煎れたいい香りがした。コーヒーは飲めないが、
この香りは嫌いじゃなかった。
「おっはよー、恭平さん。かわいいかわいいはぁちゃんのご登場ですよー」
恭平はキッチンで朝食の準備をしていた。
「おはよう、お兄ちゃん」
「もういいのか?」
「うん。ぐっすり眠れたから」
「そうか」
恭平は一度もこちらに顔を向けてはくれなかった。しかし、それはいつものことだ。
陽香は知っている。恭平は自分を出すことができない不器用な人間であることを。そして、
誰よりもやさしい。
「こんなに無愛想なのに、空手教室によく生徒が集まるものね。私の塾ならとっくにクビに
なってるわよ」
志穂は小声で皮肉る。志穂も恭平という人間のことを本当は知っている。だからこそ、文
句を言われながらもこうしてコーヒーを毎朝飲みに来ているのだ。
志穂は煎れたてのコーヒーをマイカップに注ぐと、新聞が置いてあるリビングに移動した。
「お兄ちゃん、陽香も手伝うね」
陽香はキッチンに立った。
クッキングヒーターの上ではフライパンがベーコンをバチバチと縮ませている。陽香は冷
蔵庫から卵を二個取り出すと、手際良く割る。
そんな自分が不思議に思えた。記憶を失ってから初めて立つキッチン。料理などしたこと
がないと思っていたのに、自分の意志とは関係なく自然と体が動く。
焼けたベーコンエッグを皿に盛ると、ダイニングテーブルに置いた。
「お父さんはトースト焼いてね」
無意識に出た言葉だった。
「陽香、今何て……?」
陽香は一瞬戸惑った。もしかしたら記憶の断片が目覚めたのかもしれない。陽香はうれし
くなって、恭平の顔を見た。恭平は驚愕していた。しかし、それはうれしい顔ではなく、ど
こか物悲しい顔をしていた。
恭平は何も言わず、トースターにトーストを入れる。
思い出してはいけない?
そんな気がした。
恭平との間に沈黙が生じる。
「おいしそうねー。私もいただこっかなー」
沈黙を破ったのは、志穂だった。匂いにつられてリビングから戻ってきたらしい。
「どうぞ、志穂さん。サラダもありますから」
陽香は胸の不安を振り払う。そんなはずがない。恭平がそんなこと思っているはずがない。
「って、思ったけど遠慮しとくわ。後ろで怖いお兄さんが目を光らせてるから」
志穂は空になったコーヒーカップを陽香に手渡すと、苦笑して退散していった。
「志穂さんには時々勉強教えてもらってるから、朝食ぐらいごちそうしてあげてもいいのに」
「いいんだ。あいつはすぐに調子に乗るからな。それに毎日コーヒーを飲ませてやっている。
それで充分だ」
恭平はサラダを運んでくる。ちょうどトースターが焼けた合図音を出す。
いつもの二人だけの朝食が始まった。




