第4章 罪と罰-4
マンションに戻った志穂は、玄関にある見慣れぬパンプスを見て顔をしかめた。大きくた
め息をもらすと、リビングに入る。
ショートヘアにメガネを掛けた女性は、あからさまに不快な表情を作り出してソファーに
腰掛けていた。
母、奈津子である。
「珍しいわね、お母さんがこんな所に来るなんて」
志穂は皮肉った。
「電話を掛けてもあなたが捕まらなければ、ここに来るしかないでしょう。午後からの講習
にも来ないで何をしていたの?」
「いろいろと」
志穂は大儀そうに奈津子の前に腰掛けると、くわえた煙草に火を点けた。
「雅輝がいない今、楠野スクールを継げるのはあなたしかいないのよ。高校を卒業してから
は大人しく塾の講師をしてくれていたからお父さんも安心していたのに」
「私は兄さんと違って凡人なの。だから、これが精一杯なのよ」
「そんなことないでしょう? あなただって本気になれば」
「そうやって兄さんを追い込んだのがまだわかんないのかよ?」
「志穂?」
奈津子の表情が怒りから哀しみへと変わっていく。
二歳年上の兄、雅輝は子供の頃から奈津子に言われるがままに勉強ばかりやってきた。
気が付けば、雅輝は世間では天才少年などと謳われるようになったいた。奈津子にしても自
慢の息子だったに違いない。おかげで志穂は周囲からもよく兄と比較された。雅輝のことは
好きだったが、比べられるのは大嫌いだった。だからといって、雅輝との仲が悪くなるわけ
でもなかった。雅輝は宿題を見てくれたし、奈津子の目を盗んで二人でゲームセンターにも
遊びに行った。しかし、志穂が雅輝の勉強の妨げになると判断した奈津子は、マンションを
購入し、志穂から雅輝を遠ざけたのだった。そうやって奈津子は雅輝をどんどんと追い込ん
でいった。
志穂は雅輝になぜ反抗しないのか、と一度だけ聞いたことがあった。
大切な人だから。
雅輝は笑ってそう答えた。志穂には雅輝の気持ちがわからなかった。
反発する志穂に対して、奈津子は冷たかった。母親としての愛などそそがれた記憶などな
いに等しかった。
しかし、雅輝が交通事故で帰らぬ人となった時、志穂に対する両親の態度が変わった。志
穂にはそれが嫌でたまらなかった。だが、雅輝を失った悲しみのショックから立ち直れずに
いる奈津子を放ってはいけなかった。愛する者を失った悲しみを知っているから。
三年前、志穂は大切な人を同時に二人も失ったのだ。
「帰ってちょうだい」
これ以上、嫌な人間にはなりたくなかった。
「わかりました。明日はちゃんと塾に来るのよ」
奈津子はそれだけを言うと、部屋から出ていった。
志穂は煙草の火を消すと、冷蔵庫から缶ビールを取り出すとパソコンの前に座った。
インターネットで自殺志願者を募るサイトを検索する。時勢が時勢だけに検索されたサイ
トの数はハンパではなかった。
志穂はキーワードを追加する。
女性限定。
奥多摩。
検索されたサイト数は三件。
志穂は冷えたビールを一口飲む。今の志穂にはたまらなく苦い味だった。
男は教会にいた。土地や家財を全部売り払い、建てた小さな教会だった。
暗闇の中、蝋燭の炎だけが唯一の灯火だった。誰も礼拝になど訪れてこない。そう、ここ
は神を崇めることを目的として造ったのではない。神父も存在しない。
「足りない。まだ足りない」
男は低く唸った。
祭壇で眠る娘を目覚めさせるための約束の時は刻一刻を迫ってきているのだ。
今更何を怖れることがある。
神は自分から愛しい娘を奪った。
どんなに祈っても、神は娘を助けてはくれなかった。
この世に神などは存在しないのだ。
信じるのは、ただ自分のみ。




