第4章 罪と罰-3
窓を閉めた陽香は、再びベッドに腰掛けた。
あんなに長い時間外出したのは初めてだった。まだ興奮が収まらない。気分が悪くならな
ければ、もっと大学内を見て回ることができたというのに。
陽香はそんなことを思う自分が不思議でたまらなかった。今まで恭平にあれほど勧められ
てもどこにも行く気にはなれなかったというのに、勝弥と話しているといっしょに行きたい
という気にさせられてしまう。
昼間の勝弥の言動を思い出すと、自然と笑みがこぼれてしまう。
「陽香、入るぞ」
ノックの後、恭平が入ってくる。片手には一人前用の土鍋を乗せたトレーを持っていた。
「玉子粥を作った。食べれるか?」
「うん、食べる」
恭平は茶碗に玉子粥を注いでくれる。受け取った陽香はふーふーしながら食べる。陽香が
寝込んだ時、恭平はいつもこの玉子粥を作ってくれる。温かくて美味しい、恭平の味がする。
恭平は陽香が食べ終わる頃を見計らって声をかけてくる。
「痛かったか?」
「うん、ちょっと。でも、悪いのは陽香だから。それにうれしかった」
いつも笑うだけで叱ってくれなかった恭平が、初めて叱ってくれた。陽香の中で恭平との
距離が少しだけ縮まったような気がした。
「東さんはすっごくいい人よ。だから、東さんのこと怒ったりしないで」
「わかった」
「あの、お兄ちゃん」
陽香は躊躇したが、思い切って聞いてみた。
「記憶を失う前の陽香って、どんな子だった?」
「よく笑う子だった」
恭平は驚いた様子も見せず、静かに答えた。
「それってただのおバカさんって気がするんだけど」
陽香は不服そうに唇を尖らせた。そんな陽香を見て、恭平は口元に笑みを浮かべていた。
それはいつもの淋しい笑顔とは違う、やさしくてやわらかい笑顔だった。
「そんなことはない。陽香は今と同じで、家族思いのいい子だった」
「ホントに?」
「本当だ。だから今夜はそれを食べたら早く寝るんだ」
「はーい」
恭平は陽香の頭をなでると、部屋を出ていった。
早く寝ると返事はしたものの、今夜は興奮してなかなか寝付くことはできないだろう。
ダイニングルームに戻った恭平を待っていたのは、志穂だった。勝手知ったる何とやらで、
コーヒーを飲んでいた。
「家族思いのいい子ね。ウソも方便ってやつかしら?」
「何しに来た?」
「コーヒーを飲みに。聞かれたくない話ならちゃんとドアを閉めておいてよねぇ。聞くつも
りはなくても聞こえちゃうから」
「ウソじゃない。陽香は近所の人の間でも母親思いのやさしい子だった」
「さすが元刑事さん。ちゃーんと調べてたのかしら?」
皮肉にも取れる志穂の言葉を無視して、恭平はコーヒーをカップに注ぐと、志穂の前に腰
掛けた。
陽香の両親は、放火という悪質な犯罪でこの世を去った。出火当時、行方がわからなくな
っていた陽香を警察は第一容疑者として疑っていたが、近所の人たちは皆口をそろえて陽香
の無実を訴えた。病弱な母親に代わって、父親の世話をしていた明るくてやさしい少女だと。
「ま、そんなの調べなくても、はぁちゃん見てればわかるけどね。ところで、恭平さんは
諏澤浩一郎という男を知ってる?」
志穂が話題を変えてきた。
「いや」
「聖ポリアンヌ女子大学で教授をしていた男よ。二ヶ月前に一人娘を亡くし、大学を辞めた
らしいけどね」
「それがどうした?」
志穂のもったいぶる口調に、恭平は苛立ちを覚えた。
「真田研究室を使っていたそうよ」
「何が言いたい」
「念のため、はぁちゃんは一人きりにしない方がいいわよ」
志穂はそう言い残すとダイニングルームを出ていった。
空になったコーヒーカップを見た恭平は、
「オレの周りにはお節介が多いな」
苦笑した。
志穂の心配もわからないでもなかった。しかし、陽香を脅かす存在はもうこの世にはいな
いのだ。三年前のあの日に死んだのだ。
恭平は複雑な心境だった。
陽香は東という青年との出会いによって、本来の自分を取り戻そうとしている。それは喜
ばしいことだ。しかし、それは同時に陽香が記憶を取り戻すことも意味している。
できることなら思い出してほしくなかった。エゴだと言われてもかまわない。
思い出してしまえば、取り戻しかけている陽香の笑顔はもう二度と帰ってこないかもしれ
ないのだから。




