第1章 厄病神と裸足の幽霊-1
東勝弥は闘っていた。
理性と本能の狭間で。
本能の赴くままに突き進むか?
それとも、理性で押さえ込むか?
勝弥は今、運命の決断を強いられていた。
握り締めた拳がじわりじわりと汗ばんでいくのがよくわかる。それは決して真夏の気温の
せいだけではない。
オレは一体どーすりゃええんのっ?
またしても心の中で葛藤が始まる。しかし、気付かぬうちに足が動きだしていた。
足早に向かっていた、その先は。
コンビニのお弁当コーナーだった。食べ物を目の当たりにして、一度は静かになっていた
腹の虫が早く食わせろと騒ぎ立てる。
本能の勝利となるのか?
勝弥は手の中にあるお金を確認する。
三百五十八円。
百円おにぎりが三個は買える。
勝弥はためらうことなく、大好きな鮭のおにぎりを三個手に取った。
が、ここで理性がストップを掛けてくる。
一度に三個も買う必要はないはずだ。今有り金を全部使いきってしまったら明日からどう
するつもりなのだ。ここは一個で我慢しておくべきだ、と。
しかし、右手から鮭おにぎりがなかなか離れてくれようとはしない。鮭おにぎりが「私を
捨てるの?」と訴えかけている声さえ聞こえてしまう。
勝弥、ここは男らしくキッパリあきらめろ! 不甲斐ないオレを許してつきゃあ、鮭絵〜っ!
鮭美〜っ!
勝弥は涙の別れを告げて、鮭おにぎり二個を所定の陳列棚の中に戻した。
後ろ髪を引かれながら、勝弥は一個の鮭おにぎり(鮭子)を抱きしめて素早くレジに向か
った。
「百五円です」
レジの男性店員は、例えおにぎり一個でも一見ホームレスにも見られかねないボサボサ頭
の十七歳の小汚い客だとしても嫌な顔ひとつ見せず笑顔で対応してくれる。アルバイトとは
いえ、なかなか社員教育の行き届いたコンビニである。
勝弥も笑顔を返すと、百五円ぴったりと渡す。
何だかさわやかな気分になれた。
「ありがとうございました」
コンビニを出ると、夕日が沈みかけていた。
昼間に太陽の熱を目一杯吸収したアスファルトの照り返しがきつかった。梅雨の明けた七
月末の東京は、田舎者の勝弥にとってはきつかった。思わず故郷の海を思い出してしまう。
海から吹いてくる涼しい潮風。懐かしい潮の香り。
帰りたい。
そんな弱音すら吐いてしまいそうになる。
しかし、今はそんな感傷に浸っている余裕はない。胃袋が訴えてくるのだ。早く食べ物を
よこせ、と。
勝弥は道の端で、鮭おにぎりを袋から出した。食べ物を口にするのは三十六時間ぶりだっ
た。それまでは水で何とか空腹を誤魔化してきた。
感激のあまり、両手が震える。
涙でおにぎりがぼやけて見える。
勝弥は涙をぬぐって、鮭おにぎりを見つめた。
米粒のひとつひとつがダイヤモンドのように輝いて見えた。
それを包み込むパリパリの海苔はまるでシルクのような輝きを放っている。
「いっただきまーす!」
勝弥が大口を開けてそれを頬張ろうとしたまさにその瞬間。
どんっ!
背後から誰かがぶつかってきた。
頬張ろうとしていた鮭おにぎりがポロリと手の中から落ちていく。
「げっ!」
コロリンコロリンと転がっていく鮭おにぎりを、勝弥は慌てて追いかける。
が。
走り去っていくキャップ帽の男に、鮭おにぎりは無情にも踏みつけられてしまう。
「オ、オレの三十六時間ぶりのメシがぁぁぁ」
膝まずき、無残な形となった鮭おにぎりを拾い上げる。
「鮭子ぉ〜、なんて形になっちまったんだぁ〜っ!」
決死の思いで買った百五円もした鮭おにぎり。自分に食べられる運命だったはずの鮭おに
ぎり。
「ひったくりよ〜! 誰か捕まえてーっ!」
背後からそんな女性の声が聞こえてきたが、今の勝弥にとっては鮭おにぎりの仇を取る方
が先決だった。
「んにゃろーっ! 絶対許さねぇっ!」
一瞬だったが、あのキャップ帽は忘れない。まだ目視できる距離にいる。
「待ちやがれっ!」
勝弥は人ゴミをかき分けて走った。
キャップ帽の男には意外とあっさりと追いついた。
肩に手をかけて、こちらを向かせる。サングラスを掛けていたが、勝弥とあまり年令差は
ないように思えた。
「よくもオレの鮭子を!」
「んじゃあさ、これで好きなだけ買いなよ」
青年は自分のキャップ帽をこちらの頭にかぶせると、手に持っていた革のショルダーバッ
クを押しつけてくる。
「へっ?」
こちらが唖然としている隙に青年は逃げていく。
「あの帽子の男よ! おまわりさん早く捕まえてちょうだいっ!」
「も、もしかして、この展開って……」
ごくりと唾を飲み込むと、ちらりと後方へ目をやる。
血相を変えた小太りの中年女性と警官が二人、こっちに向かって走ってきていた。
こういう場合、どんなに弁解しても信じてはもらえない。東京とは怖い街だ。上京して三ヵ月の
間に、嫌というほど思い知らされてきた。
「オレじゃなぁわっ!」
ムダとは思いながら無実の叫び声を上げて、勝弥はショルダーバックを中年女性に向かっ
て放り投げると、全力疾走で逃げだした。




