二十七 鹿嶋燦然 3
廊下の突き当たりの紗蓉子がいるはずの部屋のまえで、立ち止まった。ドアノブをもって、ゆっくりと扉を押す。
吹き込む風にはためくカーテンをその手に弄びながら、紗蓉子が寝台にすわっていた。もう病衣ではない。ここから出られるほど、回復していたのか。
「紗蓉子」
長く、呼ぶことも許されなかったその名を口にする。
息を吸いこむ彼女が自分の名を呼ぶ前に、耐えきれず駆け寄って、声も出せないほど強く抱きしめた。
「鹿嶋さま、ご無事ですか?」
すこし腕をゆるめると、耳元で彼女の声がする。
「ああ、元気だよ」
鹿嶋はすぐに答えて、まっすぐに紗蓉子と向かい合った。
彼女の、特に眉根に力がこもっている。鏡のひとつも見て、自分の姿を確認しておくべきだった。思うより、ひどい姿をしているのかもしれない。
鹿嶋はもう一度、「元気だ、大丈夫」と重ねた。それを聞いて息をついたあと、紗蓉子はひと息に話し出した。
「鹿嶋さま、わたし、どうしたらいいのか。わたしが死んですべてが終わると思っていたのに、そうではないと言われて……世界がどうなるかわからないのに……」
紗蓉子はこの混乱について、口に出して言語化するのがはじめてだったのか、事実を並べ立てるのが精いっぱいだった。
鹿嶋はそっと紗蓉子の肩に手をそえて、その顔を下からのぞきこむように見つめる。
「紗蓉子、いろいろ考えすぎて、よくわからなくなっちゃうところ、イスカさんと似てるね。姉妹だから? イスカさんはどこかでちゃんと答えを見つけてくるけど、紗蓉子はわかんないままになっちゃうの、かわいいね」
「ほんとうに困っているんです」
心底困っていて、紗蓉子は責めるように鹿嶋の胸をたたいたが、彼はまだ笑っている。
「……この国は滅びるのですか? それが運命なのですか?」
「運命なんてないよ。だって俺と紗蓉子だって、運命じゃない」
残酷なことを言う鹿嶋に、紗蓉子はすこし震えて、気づくと「ひどい」と言っていた。
「俺と紗蓉子に、運命なんてない」
鹿嶋は、なおも言う。
泣きそうになる彼女を見ていると胸が痛むが、運命なんてくだらないものに縛られて、道を見失いそうになっている紗蓉子には、こう言ってやるよりほかない。
「そうじゃなかったら、捨てる?」
運命じゃなかったら、佐治鹿嶋のことも捨てるのかと迫られて、紗蓉子は必死で首を横に振る。「捨てない」と、涙声で言った。鹿嶋はそれに満足して、やさしく笑ってやる。彼女を安心させるように。
「だって俺たちは、もっと単純なものだろ」
ふたりが出会うのに、そんな複雑なものは必要なかった。
「俺たちは、もっと簡単だ。俺が、紗蓉子を見つけた。それだけだ」
たくさんいる。世界中にいる星の数ほどの人間のなかから、あらゆるいっさいに頼らず導かれず、俺が、自分で、紗蓉子を見つけた。それが運命などというものの仕業だと、だれが認めてやるものか。俺の人生を輝かせるこの出会いは、俺が自力で見つけたものだ。何にも操られずに、俺だけの力で引き寄せた。
「運命なんて、そんなものなくても、俺は紗蓉子を見つけたよ。そしてこの先も、それがなくても俺はあなたを見つける。どこにいても」
紗蓉子は考え込むように下を向いたが、鹿嶋の手を握って、けっして離さない。
「……一度、わたしに猫をとどけてくださいましたね」
もう一度見上げたその顔が、皇女の顔をしていたので、鹿嶋も自然背筋を伸ばして相対する。
「はい、お届けしました。皇宮内で見かけて、すぐにあなたの猫だとわかった」
「わたしもです。わたしも、猫をお連れになった近衛の方が、鹿嶋さまだとすぐにわかりました」
「ほら、言ったでしょう。かならず見つけると」
まだ不安そうな顔をする紗蓉子の頬にふれ、顔を引き寄せて、鹿嶋は額をつけて彼女の体温を感じる。
「世界はたしかに滅びるかもしれないけど、今世がだめなら、来世で一緒にいましょう?」
「来世?」
来世。
花でも風でも、なんでもいい。
「では、わたしが人なら?」
鹿嶋の鼻先のすぐ近くで、紗蓉子の唇が動いた。
「あなたが人ならば、俺は猫に」
「なぜ猫なのです」
思わず吹き出す紗蓉子の吐息が、鹿嶋の頬にかかった。
「猫、お好きでしょう? よかった。やっと笑ってくれた」
「猫、好きです。でもそのときは、鹿嶋さまも人でなくては困ります」
「それでは、あなたが人なら、俺も人に生まれます」
ふたりで額をつけたまま笑いあった。鹿嶋は輝くようなその笑顔を、いつでも思い出せるように間近で焼き付ける。
「かならず見つけるから、待っていて」
「はい。何度生まれ変わって、どのような姿でいても、あなたを待ちます」
きっと世界はほろびない。仲月見イスカがそうはしないと鹿嶋は信じているが、運命というしがらみに翻弄された、愛する皇女を救うための、これは来世まで続く破られない約束だった。
「これがなんだかわかるか。眞夏」
隻影の魔法使い仲月見イスカは、皇宮の中庭で、みずからの従兵のまえにひとつの首かざりをぶらさげた。
「なんです? なんかの骨?」
「ご名答だ。やるじゃないか」
イスカは満足そうにうなずくと、首かざりを引っ込めた。
「これは鹿嶋のものだ。かつて龍からあずけられたという」
「それって、ただのうわさじゃなかったんですか?」
「だがこの石には、本来外側に向かって出てくるはずだった鹿嶋の魔力が蓄積されている。という研究結果がでた。彼が龍の首をおとすような所業ができるのも、この石のおかげということだ。そしてこの石、というか骨は、龍ご本人から鹿嶋に託された」
イスカはそこに、なにかの理由を見出そうとしている。
「わたしはこれが無意味な偶然とはおもわない。鹿嶋がこのちからを持っていることには、かならず意味がある。いつか鹿嶋の命をうばおうとしたすべての人間に、彼を生かしておいてよかったと言わせてみせる」
彼女は周囲が考えるより、自分の副官を殺そうとしたものたちに思うところがあるようだ。
眞夏はその横顔を見ながら、これから彼らが向かう場所へ、自分も連れて行ってもらえないかと頼む機会をうかがっている。
「……それにしてもイスカさん、ぜんぜん緊張とかしていないんですね。これから遠くに行くっていうのに」
しかも、終わるあてがあるのか定かではない旅だ。
「緊張? そんなものは、ある一瞬に成功のすべてが集約される行動に対して有用な心の持ちようだ。これからわたしたちが向かう長旅には、そんなもの持って行ったら、たちまち失敗するよ」
「それにしては気負わなさすぎでは?」
眞夏の心配をよそに、彼女は、今日いちばんの会心の笑みをかえす。
「だって、世界を救うんだよ? だれだって一度はやってみたいだろう!」




