十六 たった一日、ふたりきり
まだ大通りの店の開かない早朝。
新聞配達の自転車が通り過ぎ、青いタイル張りの蛇腹のシャッターが開かれた。早朝から市場に仕入れに行く花屋だ。
紗蓉子は待ち合わせ場所にした本屋の前で、そわそわと待ち人を探している。
「紗蓉子!」
「鹿島さま!」
やっと姿が見えるほどの遠くから、鹿嶋が紗蓉子の名を呼びながら走ってくる。紗蓉子も、こんな遠くから呼ぶ必要もないのに、その人の名を呼んでしまう。
「今度、休みの日に俺に付き合ってくれないか」
見せたいものがあるから、と鹿嶋に誘われたのが数日前だった。
雨が降らなければいいと言う鹿嶋に、紗蓉子は「わたし、雨も好きです」と答えた。
嘘ではなかった。皇女宮の庭しか眺めるものがなかった紗蓉子にとって、雨は見慣れた風景を少し姿を変えて見せてくれる素敵なものだった。
「晴れた日は好きだけれど、雨でも行きましょうね」そう言うと、鹿嶋はうんと言った。
待ち合わせの時間が早かったので、紗蓉子はそれだけでユラから外出を禁止されるのではと恐れた。
当日まで何も言わず「お友達とおでかけします」という書置きだけ残して出てきた。あとの始末を思うと憂鬱ではあるが、紗蓉子は自分の心に従った。
「ごめん、遅れた?」
鹿嶋は立ち襟の長袖のシャツを軽くまくって、肩掛けカバンを下げていた。
「いいえ、全然」
答えてから、鹿嶋がじっと自分を見ていることに気づく。
「少し、歩くかもしれないと言うお話だったので……」
紗蓉子は蘇芳色の地に白い大きな花が散った単衣と、鉄紺の袴姿に草履だった。
「似合うよ」
鹿嶋には、ひとかけらの照れもない。
「紗蓉子、赤が似合う」
言い切って、差し出した手を紗蓉子が取ると、歩き出す。
「行こう」
二人は乗合バスの停留所まで歩いて行った。
目指す停留所は始発だから、折り返すバスと発車待つバスがすぐ近くに見えた。
「バス」
居並ぶバスの群れを見て、紗蓉子がつぶやく。隣の鹿嶋を見上げる。
「初めて乗ります」
「そう? 俺もひとりで乗るのはそんなに回数がない」
目的地行きのバスを見つけると、鹿嶋は前側から乗り込み、料金箱に二人分の乗車賃を入れた。それからきんちゃく袋を開こうとしている紗蓉子を見やる。
「いいよ。俺が出すから。どこまでも同額で乗せてくれる」
鹿嶋は紗蓉子の手を引いて、一番奥の窓際に紗蓉子を座らせる。
「鉄道の駅とは逆方向だから、空いている」
「遠いのですか」
「終点まで行くよ。そこから、もう少し歩く」
紗蓉子は座った二人の間に投げ出された鹿嶋の手に、自分の手を重ねる。あれから鹿嶋がいつも紗蓉子の手をとっていいか尋ねるので、彼女はもう聞かれる前にその手を取るようになっていた。
バスは街中を通りながら、いくつかの停留所で客を乗せ降ろしし、やがて街を離れ、畑や田が広がる道を抜け、山へと向かっていく。
車内の客がずいぶんまばらになったころ、鹿嶋が口を開いた。
「今日行く場所は、佐治の家が管理している土地なんだ」
「鹿嶋さまのご実家が」
「そう。その場所になにがあるのか、知っている人間は少ない」
やがてバスは終点に到着し、そのころ車内に残っていたのは、鹿嶋と紗蓉子の二人だけだった。乗合バスが回転場で方向を変え走り去ると、山道に二人が取り残される。
車内からつなぎ続けている手をそのままに、歩き出す鹿嶋は紗蓉子に言い含める。
「誰かと一緒に歩くの慣れていないから、もし早かったら、言って」
道そのものは悪くなかったし、険しくもなかった。でもその道のりは思ったより長い。
「草履で来てよかったでしょうか」
「鼻緒が切れたら、俺がおぶってあげる」
「困ります」
「俺は困らないのに」
「わたしが困ります」
本当に困るのに、鹿嶋は紗蓉子の顔をのぞき込んでうれしそう。
「紗蓉子」
下を向いている紗蓉子を、鹿嶋の声が引き上げる。
「ごめん」
謝っているくせに顔が笑っている。
「ひどい」
紗蓉子の言葉に、今度こそ鹿嶋は声を上げて笑う。
「今度こそ本当にごめん。少し休もうか? 疲れただろ」
大丈夫と言って、紗蓉子は鹿嶋に体を寄せる。鹿嶋は強く手を握り返してそれに応えた。
やがて巻くように登っていく山道が途切れて、大きな淵が見えてきた。
水が枯れている。山中に、岩肌から地面にかけて大きくくりぬいたような大穴がぽっかりと開いている。
「昔はあそこから滝が落ちていた」
深い大穴の上の岩棚を鹿嶋が指さす。今はそこを木々が覆い、草が垂れて水の通り道は消えている。
「もう少し下に降りれば見える」
鹿嶋が傾斜のきつい岩肌を数歩、先に下りる。それを追おうとしてしゃがみこんだ紗蓉子の腰を支えて、鹿嶋は彼女を自分の横に立たせる。
「見て」
言われるがままに、紗蓉子は水の枯れた深い淵をのぞき込んだ。
そこに在るものを見て、紗蓉子は思わず大きく息を吸いこんだ。吐き出されない息の逃げ場があるように、横から鹿嶋が紗蓉子をやわらく抱き、安心させる。
淵の底には、龍がいた。
黒檀色のうろこに覆われた龍は、しかし暗い淵の底にいるから、日の光にあたればもっと淡いのかもしれない。
羽、いやあれは翼か。折りたたまれたそれで体を覆うように、龍は目を閉じている。生物の覇者とも言える姿から目をそらせずいる紗蓉子に、その緊張を受け止めた鹿嶋が告げる。
「動かないから大丈夫」
「死んでいるのですか」
「いや、生きてはいる」
鹿嶋はそっと紗蓉子を淵から下がらせ、両手を取って、ゆっくりと近くの岩の上に座らせる。それから震えすらあるような彼女の手を、自分の手で包み込んだ。
「佐治家の記録によると、この龍がここに住み着いたのはもう百年以上前の話だ。皇室にもこの件は届けられているが、今も向こうが把握しているか不明……と兄貴が言っていた。俺は……俺の御守石の主が、こいつではないかと思っている」
「やはり本物だったのですね」
「信じてはいなかった。でも、紗蓉子が……魔力を感じると言ったから」
他の誰の言葉も信じられなくても、彼女の言葉なら信じられる。
「兄貴に訊いてみたんだ。そしたら、母上は死ぬ前に、龍と話したと言っていたらしい」
「龍と……。彼らは人語を理解するのですか」
「わからない。そういう言い伝えはなくはないけど、神話とかおとぎ話の類だよ」
「鹿嶋さまのお母上は、何をお聞きになったのですか」
「この石を持つものは、龍にとっても人にとっても、大きな役目を持つことになると」
大きな役目。鹿嶋の手の中のすべらかな白いかけらは何も言わないけれど、そこにはどのような願いが込められているのか。
「御守石が俺の誕生とともにあったなら、俺の始まりがここかもしれない。昔兄貴と来たけれど、いつかもう一度来ようとは思っていた。紗蓉子と一緒に来たかったんだ」
紗蓉子は息を深く吸って、その言葉を噛みしめていた。
「私も鹿嶋さまと来られて、よかった」
鹿嶋は優しく微笑んで、淵から離れるように岩肌を先に登って、それから紗蓉子を引き上げる。
「ねえ、腹減らない?」
登り切ったところで視線がかち合うと、唐突に鹿嶋が尋ねる。そして言いにくそうに頭を掻きながら、
「……弁当を作って来たんだけど」
と言う。
「鹿嶋さまが!?」
明らかに衝撃を受けたらしい紗蓉子の声に、鹿嶋は言葉に詰まった。が、その様子を認めた紗蓉子が間断なく、「いただきます」と言い切ったので、あとは平和だった。
「握り飯しかないんだ」
「そんな。充分です。お昼をまたぐとわかっていたなら、私もなにか用意してくるべきでした」
「俺がちゃんと言わなかったから」
鹿嶋は、早朝の出発に合わせてさらに早く、まだ暗いうちから起きだして、生まれて初めてひとりで飯を炊いた。まだ通いの手伝いの者も来ないうちから、たったひとりでがたがたと。
「なんだか米に芯があって、あまりうまくないかも」
鹿嶋は自作の握り飯を一口かじって残念がる。
「そんなことありません!」
紗蓉子はそう言って、大きくてまるっこい握り飯を一生懸命食べた。
食べ終わると早起きが祟ったのか、鹿嶋は二人並んで座った木陰の奥で、いつしか眠ってしまった。紗蓉子は木肌に頭を打ち付けそうになる鹿嶋をそっと抱き寄せて、自分の膝の上に導いた。
横たわる彼の、耳の形を観察する。それから頭を撫でて、骨の形を確かめる。なぜか涙が出そうだった。紗蓉子は、いつか鹿嶋と離れる時が来ても、この頭の形をずっと覚えていようと思った。
長い時間が経って足がしびれても、紗蓉子にはそれが永遠でも構わないと感じていた。
ある時、目を開けた鹿嶋が、指弾に撃たれたように跳ね起きる。
「まずい。いま何時だろう」
「え?」
「帰りのバスは本数がないんだった。数個前の停留所までしか来ないバスが多い」
二人は大急ぎで停留所に戻ると、時刻表を確認する。
「行ったばっかりだ。帰りの時間がだいぶ遅くなる。俺はともかく、紗蓉子は大丈夫かな」
「だ……大丈夫だと思います」
内心だめかもしれないと思ったが、鹿嶋と一緒にいられる時間が増えたことはうれしい。
二人は来る人が少なく、古びて朽ちつつある待合の中に並んで座る。徐々に暮れていく空を眺めながら、他愛もない話をずっとしていた。
雲の白色が、沈みゆく日と、追ってくる夜の色と混じり合い、赤と紫の多色を空に描いている頃だった。
不意に鹿嶋が、紗蓉子の瞳をのぞき込む。
「……紗蓉子の眼は、緑なんだ。きれいな色」
鳶色の上に、濃く深い翠を重ねた結果、その虹彩は常緑を思わせる。
「ずっと思っていた」
「鹿嶋さまの瞳もきれいです」
紗蓉子は鹿嶋を見つめ返す。
「俺?」
「目が、夜みたい」
濃くて、深い。
「紗蓉子、目をつむって」
鹿嶋は間を置かずにひそめた声で言う。ほかに誰もいないのだから、そんなことをする必要はないのに。
紗蓉子は素直に目を閉じたが、鹿嶋の顔が近づいてくると、そっとその肩を押す。
「……どうして」
「なに?」
「どうして鹿嶋さまは目を開けたままなの」
「だって失敗したくなかったから」
「失敗って……」
「最悪の思い出になるかも」
「また、そういうこと言う」
しかも笑いながら。
「ほら、目を閉じて。バスが来たら……もうしない」
その一言で、紗蓉子は静かに目を閉じた。
次の瞬間、鹿嶋が彼女の手をそっと押さえ、唇を重ねた。




