Saturation / 飽和
天幕に戻ったライアンはフログナルドを呼び寄せ、リンを迎えにやった。
「桟橋の方にいる。戻りはなるべくゆっくりで良い」
「はっ」
即座に踵を返して天幕を出るフログナルドを見送り、フロランタンの隣に着席すると、目の端に待っていたかのように立ち上がる者達が見えた。食事が終わり、歓談の時間に入ったらしい。
面倒なことだと思っていると、シュゼットがすっと合図をして、給仕の者にデザートを運ばせた。
小さめのグラスに入っており、三層に分かれている。一番上にはフレッシュな果実がのっている。
「兄様、それを食べている間は誰も来なくてよ。小さいからすぐ終わってしまうかもしれないけど、一番甘さ控えめで、兄様向けなの」
くすくすと笑いながら言うシュゼットに、謝意を示した。
「助かった」
「リンは?」
「足を伸ばしているが、まもなく戻るだろう」
「椅子の形に固まったら、困るものね」
リンの様子を思い出したのか、おかしそうに言う。
チーズケーキとムースが合わさった爽やかなデザートを食べながら、フロランタンとシュゼットの話を聞くともなく聞いていると、突如、森で大きく空気が動いた。
フロランタンも気づいて、ハッと顔を上げ、空を見る。
「すごい勢いですね」
言い終わる前に、一気に膨らみ破裂した。
「サラマンダー。暴走だ」
「一体、何が……」
眉を寄せた厳しい顔をして、ライアンはすでに立ち上がっていた。
リンに何かあったのかもしれない。そうとしか考えられないほどの力の動きに、ライアンは内心ひどく焦っていた。
フロランタンが何か言いかけるのを無視して歩きだす。
耳元にリンの声が届き、足を止めた。
『ライアン、サラマンダーの暴走です。森の火事です。天幕が危険です』
大丈夫だ。早口だがしっかりとした声だ。シルフを送る余裕があるのだ。
何があった、と、返したいのをこらえ、ふっと息を吐き、フロランタンを見返った。
「フロランタン、リンからシルフが来た。森で火事が起こったらしい。天幕からの避難と消火の手配を」
フロランタンも立ち上がり、すぐに側近を呼んだ。
シュゼットも同時に手を揚げている。
この天幕の中にも精霊術師や加護持ちがいる。その者たちも気づいたようで、騒めきが大きくなり始めた。
それを横目に天幕を出ると、シムネルが後に続いた。
外に出ると、まだ火の手は見えないが、白く煙が立ち上り、焦げ臭い匂いが漂ってくる。
「かなり大きい暴走でしたが、リン様に何かあったのでしょうか」
「わからぬ。フログナルドと一緒のはずだが。シルフが来たので、リンの意識はある」
森の小道に入ると、あちらこちらに火の柱が立っているのが見えた。弾ける音を立て燃え上がる樹木だ。燃える木の葉が飛び回り、火が渡っていく。
「これは……」
炎の勢いは強く、広範囲にわたっている。
想像したよりもひどい状況に、シムネルが思わず声を漏らす。二人で駆け足になった。
フロランタンが指示したのか、後ろを追いかけてくる複数の足音も聞こえる。
その時、湖でまた大きな力が動いた。
位置さえ、見えるようにはっきりとわかった。リンが水を動かしている。
「オンディーヌ。リンだ」
水をかけたのだろう。少し先の木々から白い蒸気が立ち上がる。
力の方向へ足を速めると、湖の畔にリンが立っているのが見えた。
「っ!」
ほっとした途端、最初の暴走と同じぐらいの火の気配に、ライアンは息を呑んだ。
ぐんぐんと森の上に広がっていく。
「リン、ダメだ!」
大きすぎる。
張り詰めた空気が、ふっと緩んだ。
目の前でリンが崩れていく。
リンに背を向けて立っていたフログナルドが振り向き、慌てて抱きとめた。
「リン!」
走り寄って、その側に膝をつく。
「痛い……」
かすかに聞こえる声。
気づいているのかいないのか、リンはわずかに身体をよじり、息を詰まらせる。
頬から首筋が赤らみ、リンの首筋に手を当てれば、熱がこもって暴れているようだ。
「恐らく飽和だ。フログナルド、最初の暴走もリンか?」
フログナルドを促し、ライアンは自分の腰に付けている袋を探った。
「いえ。最初のはリン様ではありません。消火のために、水と火のお力を二回使われたと思います」
フログナルドは意図を察し、リンが何の力を使ったかだけを報告してくる。
思ったとおり、水と火のバランスが完全に崩れているのだろう。水の力を大きく放出したところに、相反する火の力を引き入れ過ぎていた。
あの範囲を一気に消し去るなど、一体どれだけ取り込んだのか。
ライアンは『水のサラマンダー』を取り出し、油紙を開くと、リンの口をこじ開けて押さえ、粉末を中に放り込んだ。
「うぅ!」
リンが頭を振り、足を一度バタつかせた。
シムネルが横から差し出した水のカップを受け取り、口に流しこむと半分は飲み込み、半分は吐き出そうとする。
「ダメだ。吐くんじゃない。薬だ。飲み込め」
もう一服を口の中に流し込むと、さらに首を振って暴れ、意識も少しはっきりとしたらしい。
涙にうるんだ目で見上げ、訴えてくる。
「か、辛い。痛い」
「わかっている。それでも飲め」
もう一度飲ませられるか、と様子を見ていると、リンはひくりと痙攣し、喉からゴフっと大きな音を立てると、飲んだばかりの水と薬を吐き出してしまった。
ライアンの腕をつかんで咳こみ、ハアハアと浅い呼吸を繰り返している。
ぐったりとした身体を支える腕にも、リンの震えと高い熱が伝わってくる。
熱を取らないとまずい。
ライアンはリンを抱き取ると、立ち上がり、シムネルに指示を出した。
「至急、船の準備を。火のお力の過剰だ。アルドラとギルドに『水の銀鳥花』の問い合わせを」
「船は間もなく参ります。離宮にも連絡済みです」
「ライアン、父上にも連絡をすでに入れてある」
近くで見守っていたフロランタンも、そう声をかけた。
「フロランタン。船に『凍り石』を積みたい。厨房にあるものをそろえて欲しい。……それから、後でシルフに尋ねよ」
近くに座り込んでいたクレマを一瞥し、指示を出すと、フロランタンはコクリとうなずいた。
バタバタと周囲が動き、シルフが飛び交う中、ライアンはリンを腕に抱いたまま膝のあたりまで湖に入ると、首の後ろを支え、その熱い身体を浸した。
ドレスのスカートが、ゆらりと水中に広がる。
リンがふうっと、心地よさそうな息をついた。
緑の加護石を握り、ライアンが唱え始めたのは『冬至の月夜』の祝詞だ。続けて『氷結』の祝詞が紡がれる。
それまで大気と大地を支配していた重くもわりとした熱が、高い音を立てて吹き込んだ極寒の風に追いやられると、湖の端からチリチリと薄く凍りはじめた。
「下がれ。凍えるぞ」
湖畔に集まってきた野次馬に言い放ち、ライアンはさらに集中すると、周囲に真冬を呼び込んだ。





