A storm / 嵐
「順調に気温が上がっていますね。もうとっくに樹脂で『赤』は超えていますよ」
リンはパタパタと扇子を使っていた手を止めると、キャビネットの引き出しに入った小箱から、ミントの精油を取り出した。小瓶の蓋を開け、こめかみを押さえるように付ける。
暑さに弱いリンは、冷房の効いていない室内で、三十二度を超えてくると軽い頭痛を覚えることが多い。
頭が痛くなったときに温度を測る樹脂を見たら、目に痛い赤色をしていた。どうやら赤が三十度の目安らしい。
「リン、頭痛で気温を計るな」
ライアンが小さく折りたたんだ紙包みをリンに渡した。
「弱めに調合してあるが、本当は涼しいところで休むべきなのだぞ」
今日は特に空気が重い。リンもぼうっとして辛そうだ。
暑さ対策を教えた本人が、水分を取っても、『涼風石』の近くにいてもダメらしいとわかって、ライアンは眉をひそめている。
リンはここのところ毎日、ライアンに痛み止めを調合してもらっていた。
「ありがとうございます。でも、夏はいつもこうなので。薬が効いて良かった」
リンは薬包紙を開いて小さな黒い丸薬を口に含み、水を飲んだ。
苦ささえ我慢すれば、半刻ほどで楽になる。
今まで恥ずかしいから言えなかったが、生理痛の時にも使えそうだ。
とても良く効くので、自分で作れたら便利だと、使用されている薬草を尋ねたら、バターバーに、フィーバーフュー、白柳の木の皮、という、聞いたことのないものだった。ヴァルスミアに戻って落ち着いたら、薬草と作り方を教えてもらえることになっている。
食事はとれるか、と、心配そうなライアンの手を取り、リンは立ちあがった。
商業ギルドが設置した天幕で、アイスクリームを販売し始めて数日。続く暑さのためもあって、売り上げは好調だった。
いろいろなギルドの会議室からテーブルが広場に持ち出され、周囲の店や天幕も協力してくれている。
広場ごとに違うアイスクリームが、日替わりで出されているが、どの広場で、何のフレーバーが出されているかも看板ですぐわかる。人々はそれを見て、自分の好きな果実を選んだり、逆に、食べたことのない果実に挑戦する者もいる。
ウィスタントンの天幕前の行列は短くなり、炎天下で待たせる事がなく、ほっとしていた。
慣れてきたハンター見習いはしっかりとフレーバーの特徴を伝え、その果実が買える天幕を案内する。その様子があまりに見事なので、商業ギルドのトゥイルはウィスタントンまでシルフを飛ばし、見習いを呼び寄せたぐらいだ。来週には二人到着して、夏の大市で鍛えるのだろう。
風の術師の補充も、ラミントンから二人、『泡立て』の祝詞をすでに使っているというまだ若い術師と、この秋から卒業前研修に入るという見習いがやってきた。ウィスタントンの術師見習いとは、当然顔見知りである。
初日に、天幕まで通うのに楽だから、と、オグが学生寮へ誘うと、お昼のカツサンドに感激していた二人は、まかないの話をすでに聞いていたのか、二つ返事で移って来たらしい。
昼休憩の交代時刻となり、三つの広場の屋台に出ていたローロ達見習いが、天幕に戻ってきた。
お揃いのチュニックの制服を着て、その恰好を見ると、街の皆もウィスタントンの売り子だとわかるようになったらしい。
ローロの着ているチュニックの袖にはイニシャルが刺繍されている。じーっと見ていたら、どうやらそれがフロランタン・ケイン・ウィスタントンのイニシャルで、つまり王子が子供の頃に着たものらしいと気がついた。うろたえるだろうから、ローロには言わないでいるけれど、とてもよく似合っている。
リンは食事を中断して、顔をあげた。
「今日の感じはどうかな?」
「『風』は少し並びますが、順調です」
「『火』もそうだよ。アイスクリームもだけれど、ミックスフルーツは子供でも買えるから」
四つの広場でアイスクリーム販売を始めると同時に、冷凍ミックスフルーツの販売を始めた。
安めの価格に設定したとはいえ、やはりすべての人がアイスクリームを買えるわけではない。何かもっと、と考えて、ベリーや丸くカットした果実をそのまま凍らせて、五個まとめて、子どもの小遣いでも買える値段で販売している。
これもまた、大人気だ。
ミードやアイスティーに入れる氷代わりにどうですか、とすすめると、大抵入れてくれ、と頼まれる。赤や青の果実がプカプカと浮かんで楽しいし、長く冷たいままだから喜ばれている。
これから街の外に行くからと、自分の水袋を差し出して、そこに冷凍フルーツを入れていく人もある。
子供も小銅貨を握り締めて、毎日のように、おやつに買いに来る。五個あるから、五人で一つずつ分けて口に放り込む。冷たさに目を丸くして、口をモゴモゴとさせながら、元気に走っていく。
「周りの天幕や店に、人は行っているかな?」
「夕方、ありがとうって挨拶に来た人もいるし、自分達もアイスクリームを買いにきたよ」
「商業ギルドの人も反響があって、喜んでいるようでした」
「そう。ならいいけれど」
宣伝の役に立っているようなら、問題ないだろう。
周囲の天幕でも冷凍フルーツなら販売できるのでは、と提案してみたが、『涼風石』と『凍り石』は注文が一杯で、生産が全く追い付いていないらしい。
街にいき渡るようになるまでに、まだ少し時間がかかりそうだった。
見習い達は昼食のサンドイッチを頬張りながら、リンと少し話をすると、それぞれ持ち帰り用の木箱と『凍り石』の補充を手に、出張先の広場に戻っていった。
今日は一層空気が重く、暑く感じるようだ。
さあ、もうひとがんばり、と思った時、街に声が響き渡った。
「『王宮より緊急連絡です。
西の海上より、強い嵐が東に向かっております。
すでに王領、パネトーネ領の港付近、大荒れの模様です。
今後天候は大きく崩れ、王都周辺への嵐到着は、十六時前後を予測。
風雨で被害が予想されるため、天幕を解体し、避難を開始してください。
繰り返します……」
周囲はざざっと動き始めたが、リンはポカンとして聞いていた。
「天幕を解体って、言っていましたよね?」
「ああ。かなり荒れているようだ。天幕はもたないだろう」
「えええ、じゃあ、全部移動ですか?」
「そうなるな」
そんな話をしているところへ、今度は商業ギルドからシルフが声を届けた。
大市の一時中止と、馬車の広場への乗り入れ許可。避難・移動先のあてがない場合、商業ギルドにすぐに申し出るようにと伝えてきた。
トゥイルが、すべてを学生寮へ、と指示をだし、シムネルは風の術師見習いと一緒に、他の広場にいる者にシルフを飛ばし、荷物をまとめ始めるようにと伝えた。
「馬車が入るだろうから、まず表のテーブルから移動するぞ」
オグの指示で、見習い達が天幕を飛び出した。
リンは、後ろの応接のキャビネットを開ける。
「うちは学生寮があるからいいですけど、他は大丈夫なんでしょうか」
「ほとんどの領では、領主の館に運びこめるし、商人の宿泊所も使えるだろう。難しければギルド預かりだ。……ラミントンはいいとして、タブレットの所は、クナーファ商会で預かれるだろうか」
『スパイスの国』一行の滞在先は王宮だ。荷物を運ぶには少々遠い。
ライアンはシムネルを『スパイスの国』の天幕へ確認に向かわせた。
まさか大市の途中で、すべてを解体することになるとは。
なにせ、ウィスタントンの天幕は一番大きい。それだけの人数が働いているが、他の広場にまで出張所がある。
リンはせっせと、ティーセットを布で保護して、木箱に詰め始めた。
「ライアン様、『スパイスの国』とクナーファ商会の天幕、両方とも商品点数がとにかく多く、可能であるようなら『スパイスの国』の商品を、学生寮にお願いしたいと。今日はロクムが不在のようで、手が足りない様子です」
「わかった。必要ならこちらから手伝いを送ってくれ」
表のテーブル、天幕の奥の在庫、応接セットの家具、と、どんどん学生寮へと運びこむ。
天幕は片付いていくが、その間も、ライアンは空を見上げては気にしている。
リンがきれいに詰めた木箱を外に運び出しながら、時折、王宮にシルフを飛ばしている。
「シルフの様子を見ると、嵐の到着は早いかも知れぬ。遠くの音がよく響く」
シムネルが学生寮への夕食の配達中止を連絡し、トゥイルは食料を手配しに、天幕を出て行った。
荷物をすべて運び入れ、オグとハンター見習いが天幕を解体し始める頃には、ライアンが言った通り、王都には嵐が近づいていた。
まだ雨は降り始めていないが、強い風が背を打つ。
「風が強くなりましたね」
「オグ、後は頼むぞ」
リン達がタチェーレ川の『船門』に着いた時には、濃いグレーの雲が盛り上がり、すぐそこまで嵐を連れてきていた。
タブレットと護衛も同じように『船門』にいた。文官は『スパイスの国』の荷物と一緒に、学生寮に残ったようだ。
川にいた船の多くは、途中の街で岸に避難したようだが、すでに王都の近くまで来ていた船は、到着を急いだらしく、岸壁は船で混雑していた。人と荷物がいっぱいで、王宮からの船が到着する場所もない。
「移動は難しそうですね」
「そうだな。……タブレット、学生寮への宿泊も検討した方がいいかもしれない」
「ああ。悪いが王宮へ、船を戻すよう、連絡を入れてもらえるか」
ライアンはまた空を眺め、シムネルと共にシルフを飛ばし始めた。
グレーの雲は空を覆い、一気に薄暗くなった。
寮泊まりを考え始めてすぐ、大粒の雨が落ち始めた。
降ってきた、と思ってすぐに雨足は強くなり、目の前は白い、水のカーテンに覆われた。風も激しく、そのカーテンが斜めに揺れる。側を流れるタチェーレ川でさえ良く見えない。
川沿いのポプラ並木から、手のひら程の大きい葉が千切られて、空を滅茶苦茶に舞う。巣に帰ろうとする鳥も風に煽られており、鳥なのか木の葉なのかわからないほど、黒い物体が空を飛びまわっている。
風音と一緒に、雨が大地を打つ、ゴウとした音も押し寄せるようだ。
「どこに行くにしても、少し待たないと動けませんね」
リン達はとりあえず『船門』の貴賓待合室へと案内されたが、しばらく待っても、雨足も風音も弱まりを見せなかった。
たまに待合室を出て、外の様子を眺めていたライアンが、何かに気づいたようだった。
遠くを見て、すっと集中すると、短く祝詞を唱えた。
「オンディーヌ、インぺリウム アクアム」
水を制御化に置く祝詞だ。
「ライアン、嵐ですよ?大丈夫ですか?」
「ああ。だが、アルドラが始めている。そこの船に乗っているようだが、風を整えようとしているようだ。……リン、援助する、と、シルフをアルドラに飛ばせるか?」
「わかりました」
「このような風の中ではシルフも真っすぐと行かぬ。集中せよ」
「はい」
リンは川の中ほどにいる船を見つめて、イメージだけはまっすぐ、シルフを飛ばした。
「レコダレントゥラ ヴェルバ。アルドラ、リンです。ライアンと『船門』にいます。ライアンが援助すると言っています。ミジット オブセクロ ヴェルバ アルドラ」
すぐにアルドラから、シルフがぶつかるように返ってきた。
「ライアン、船に病人がいるそうです。それで風を急がせたと。風と川面を落ち着けて、着岸したいようです」
「なるほど。それで船と嵐が一緒に来たか」
すぐにライアンは、左手首の石を触りながら、集中し始めた。ライアンの周りだけ静かになったように、雰囲気が変わる。
大きく揺れる川面を整えようとしている。
邪魔をしないように、隣でじっとそれを見ていると、水の流れが見えるように、なんとなく何が起こっているのかわかるようだった。
空を見上げると、風の行方も見えるようだ。
「力の流れ?何か見える気がします。……ええと、私も手伝いますね」
「これだけ強いと、風も水も流れた先が荒れる。リン、慎重に」
大きなエネルギーを曲げるということは、曲がった先に負荷がかかるようだ。
「わかりました。気をつけます」
リンはそう言うと、風と水の石を握り込んだ。
「シルフ、オンディーヌ、船を到着させたいです。アルドラとライアンを手伝ってください。一時だけでいいので、上空へ風を流してください。川面を穏やかに、水は川底を流して。……お願いします」
ペコリと頭を下げた。
リンのお願いは、アルドラとライアンが整えていたこと、そのままだった。
どうやら本当に力の流れが見え始めたらしいことに、ライアンは驚いたが、それ以上に慌てて、リンの背中を支えた。
これだけの自然を動かすのに、どれだけの力を使うと思うのか。
「リン、気分は悪くないか」
「んー、ぼうっとしますけど、暑いからずっとそんな感じで……」
リンの体調不良は暑いからなのか、力のせいなのか良くわからない。
ライアンはため息をついた。
ゴウと鳴っていた風音が弱まり、川面が落ち着き、川の真ん中で大揺れしていた船がするすると近づいてきた。雨はまだ強いが、これなら着岸できる。
リンの顔色を見ていたライアンも、この間に急いで着岸の準備をと指示を出す。
岸に寄ってきた船の扉が開き、甲板に船員が出てくる。
その最後から、懐かしい、見知った顔が現れた。
「一気に軽くなったと思ったら、こんな無茶をしたのは、リンだね」





