Departure / 出発の日
王都へ出発の日、リンはまだ夜も明けないうちに目を開けた。
気が高ぶっているらしく、目はぱっちりと覚め、どうせ眠れないのなら、と起きあがることにした。
昨夜のうちにシロのお風呂は済んでいる。遅くまで一緒に遊び、いい香りで、ふかふかになったシロに抱きついて寝てから、そんなに時間はたっていないはずだ。
明かりをつけ、コンソールテーブルの上に置かれた、水時計の鉢を覗き込むと、感じた通り、四刻ぐらいしかたっていなかった。
『温め石』ができてから、お茶ぐらいは部屋の中で、火をつけずともいれられるようになっている。水差しの水を銅製のヤカンに入れ『温め石』を入れると、今度はお風呂をいれるために、浴室へと向かった。
「シロ、おはよう」
ささっと浴室を使い、身支度を整えて浴室を出ると、シロも起きたようだ。
リンの足を尾で叩くので、ドアを開けてやると、静かに外へ出て行った。
使い終わった、神々しい『水の石』と『温め石』を、石鹸やボディブラシなどが入っているお風呂セット用のトランクに収めると、今度は厨房へと向かった。
今日は朝早くヴァルスミアを出て、お昼過ぎにラミントン領の港に着くことになっている。そこで荷物を大型船に積みかえる間、ラグナル達と昼食を取り、ラミントンの船で一緒に王都へと向かうのだ。
朝食を食べずに乗船する者も多そうで、乾燥ベリーとナッツをたっぷりと入れた、甘酸っぱいフラップ・ジャックを、昨日のうちにたくさん作っておいた。館の料理人もサンドイッチを作ってくるというので、大丈夫だろう。フラップ・ジャックを切り分け、蜜蝋を引いた布に包み、ピクニックバスケットに入れた。
冷室から、昨夜つくったレアチーズケーキを取り出し、上にフレッシュベリーを飾ると、バスケットに入る超小型の冷室に入れなおした。これは、お茶の時間のデザート用だ。
「あとは飲み物、どうしようかな。冷たい飲み物があったら良さそうだけれど、密封性がねえ」
冷室には、昨夜作ったアイスティーがガラスのピッチャーに入っているけれど、水筒のような便利なものがなく、これを持って行くには、冷室を傾けないように気を付けないとならない。
ウィスタントンではどこでもきれいな水が手に入るので、木や、ヤギの角で作られたカップを腰に下げて、水筒を持たないのだ。それに、必要なら『水の石』で、簡単に水が持ち運べる。
「ん?」
リンはフォルト石を取りに行き、きれいに洗うと、ピッチャーの中にポトンと落とした。
「水の精オンディーヌよ 清冽な水の加護を我らに。この石をもってその力恵与にあずからん。えーと、『水の石』みたいに、お茶を石の中にためて『お茶の石』を作りたいです。できますか?アロ サフィラス グッタ アクア……」
祝詞の途中で、ピッチャーのアイスティーが減り始め、リンは息をのんだ。
じっと見ていると、最後にはコロンとした石が底に転がった。
「うわ、できたかも?!」
石を取り出すと、アイスティーの琥珀色をしている。
グラスの上で石を持ち、水を出す祝詞を唱えた。
「クーレ アクアム。……あっ、アベルテ アクアム!」
グラスにアイスティーが注がれた。
一口飲むが、味も問題ないような気がする。
『水の石』に含まれる水は腐らないので、お茶でも大丈夫な気がするが、後でライアンに聞いてみようと思う。
「うっふっふ、『お茶の石』できちゃったかも。オンディーヌ、ありがと」
リンはご機嫌で、いろいろなドリンクを『石』に閉じ込めていった。
「まあまあ、リン様、もうお目覚めだったのですか。おはようございます」
厨房で作業をしていると、アマンドが顔をのぞかせた。
「おはようございます、アマンドさん。興奮して寝付けなくて」
「もうお風呂はお済みですか?それでは髪を結いましょう。お召し物も、変えた方がいいかもしれません」
「今日は船で移動だけですよね?」
「ええ。でもご領主様方とご一緒ですから、謁見用とはいかなくても、もう少し……」
旅にでるなら、なるべく楽なものをと選んだドレスなのだが、長い袖ではなくても、少し装飾はあったほうがいいようだ。
リンは部屋へと戻り、アマンドにお願いした。
選ばれたのは、レーチェが旅用にと作ったラベンダー色のドレスで、手首からアンダードレスに付けられたレースがヒラヒラと見える。袖は上の方がリボンで結ばれて、今年の流行になっていた。
腰には、これもラベンダー色のタッセルを付けた扇子をレースの袋に入れて、ベルトに通した。
これで今年の流行スタイルのできあがりだ。
「爽やかな初夏の装いですわね。本当にお似合いになりますこと。御髪も伸びられて、いろいろ結い方を変えられるようになりましたわ」
アマンドは目を細めて、リンを褒める。
着替えて、髪を結われ、すべての準備が整うと、出発の時刻となった。
水時計のオンディーヌが持つ石を外して止めると、リンは階下へと向かった。
応接室にはライアンがすでに到着していた。
術師のマントではなく、貴族衣装を着ており、左肩にマントをはおっている。こちらも旅行用なのか、いつもより楽な服装で、足元もしっかりとしたブーツを履いている。
「……リン、トランクはわかるが、そのバスケットも持っていくのか?」
ライアンは、リンが手に持つ、ピクニックバスケットが気になるようだ。
応接室の椅子に座ってもらい、ライアンの髪を束ね始めた。
「朝食用のフラップ・ジャックと、船で食べるお菓子がたくさん入っているんです」
「いろいろ作っているとは思っていたが、そのためか」
「シュゼットが、『一緒の船で行けるのね』と喜んでいたので、お菓子を持って行く約束をしていたんです。それに、グラッセさんも一緒の船でしょう?だから、女子会用に多めに」
「女子会?……シュゼットは船に弱い。菓子を食べられると良いが」
髪がまとまると、ライアンがバスケットを手に持った。
リンの小型トランクは、すでに馬車に積み込まれている。
馬車に乗り、シロを足元に侍らせ、『船門』へと向かった。
領主一族の移動に、『船門』は人と馬車と荷物でごった返し、にぎやかだった。
ラミントン領から来た早朝着の船が戻る時に、一緒に行くのだ。その船以外に何艘も並び、荷物を積み込んでいる。
これでも文官や騎士、メイドなどの半数以上がすでに王都へ入っているという。
「……いくつか並べておけば、シロは自分で石鹸を選ぶから」
「リンさん、昨日から、俺でも三回はそれを聞いてるよ」
見送りに来ていたタタンにシロを預け、引継ぎをしていると、ローロが呆れたように言う。
「リンお姉ちゃん、大丈夫。シロはお利口だし、私もシロが大好きだから、一緒に留守番する」
タタンがシロの頭を撫でながら言う。
「うん。ありがと」
リンはもう一度しゃがむと、シロの首にかじりついて、クンクンと匂いを嗅いで立ち上がった。
「シロ、またね。待っていてね」
館から馬車が着き、領主夫妻とシュゼットが降りて来た。別の馬車からは、見送りに来たらしい、ギモーブとケスターネが降り、周囲が礼を取っているのが見える。
ライアンと合流して話をしているようで、リンもそちらへと近づいた。
腰を落として挨拶をすると、シュゼットが笑顔で近づいてきて、リンの腕を取り、引っ張り上げた。
「リン、嬉しいわ。一緒に行けるなんて」
「私もです。お菓子をたくさん作ってきました」
「うふふ」
領主夫妻の到着までに、すべての積み込みが終わるようになっていたらしく、もう乗船だ。
荷物の船は、もう岸壁を離れだしている。
貴族も平民も、皆が一番後ろの同じ船に乗り込むようだ。
オグが引率という形で、天幕でローロと働く、ハンター見習いも一緒にいる。
ハンターは移動には慣れているといっても、王都まで、しかも領主一族と一緒なので、緊張しているのが見てとれる。ローロより年上の、もうすぐ成人の子だから、いい経験になるだろう。
リンの見知った文官や、ギルド職員も見つけた。
レーチェと針子の女性に、クグロフとブリンツの姿も見える。
ブリンツは到着したばかりだが、次の日の午後にはもう、クグロフと仕事をしていた。今後ウィスタントンに住み、仕事を受けるなら、王都の金細工師のギルドに挨拶に行かなければと、一緒に行くことになった。
ガレットはここで留守を預かり、リンの注文家具を製作するようだ。
船に乗り込むと、多くの者が左舷に並んだ。
タラップが外され、一本マストの帆が風を孕み、船がゆっくりと岸壁を離れる。
見送りに来ているエクレールが、手を挙げるのが見えた。他の者も出発する家族に、手を振っている。
朝の光がまぶしい中、端の方に、タタンとシロが小さく並んでいるのが見えた。
リンも身をのりだして、大きく手を振った。
「行ってきます」





