一、主人(14.06.29改)
かちゃりと扉を開けるとともに、部屋に入ってきたものは大きく息を吐いた。
「おかえりなさいませ」
高順はゆっくりと頭を下げ、衣装に着られたような若い男を見る。気弱そうに肩が下がり、うつむきがちな顔、そして表情を読み取れぬよう伸びた前髪。
高順が扉を閉める。外には、高順にかわり副官としてついていたものたちがいた。
扉が閉まりきる音と同時に情けない姿をした青年はしゅっと背筋を伸ばした。髪をかき上げると、秀麗な眉目が露わになる。
顔つきを変えるため、多少化粧の類を施しているが、それでもこれだけ変わるとなれば、驚くしかない。
美麗の青年、壬氏がそこにいた。
いや、ここでは壬氏という男はいない。
それに似たまったく別の人物だと、改めて高順は自分に言い聞かせる。
ここは、いつも使っている棟ではなく、もう数段上等のもの。そこに入れるものは、ごくごく限られる。
高順もまた、特別な裏口から入るようにしている。服もいつもの官服ではなく、少し凝ったものを着ている。
「湯あみをなさいますか」
「ああ、頼む」
高順は、いつもの官服姿でない主人にたずねる。
さきほどまで、主人は、皇帝および複数の高官とともにいた。
主は着なれぬ衣の襟をゆるめ、長椅子に寝そべる。けだるげな主に、初老の女官、水蓮は冷えた果実水をさしだす。
下男に湯を用意させる。古くから仕える男で、水蓮と同じく主人を幼い頃から知っているものだ。この男も含め、ここには片手に足りる人数しかいない。
湯を溜めさせるのに、しばし時間がかかることだろう。
「やっぱ、避けられぬ問題だろうな」
主人は、高順に問いかけているわけではない。自分に言い聞かせているのだろうと、高順は答えない。
弊害、巨大になり過ぎた後宮の。
先代の後宮は女官五千をこえていた。
今はその半分もない。
年々、減らし続けてきたからだ。
それでも、後宮の適正人数は今の半分ほどでよい。もっと少なくてもかまわない。皇帝も同じ考えを持っている。
とある娘は、女官狩りにあったというが、それは時機が悪かった。
ちょうど里樹妃の輿入れとともに、女官の入れ替えを行った頃だった。
今が平和な時代でよかった。
ここ数十年、蝗害や大きな飢饉は起きていない。それらしい内乱もなく、時折、異民族がちょっかいをかけてくるぐらいだ。
女の園にかかる維持費は、時に国庫を空にしかねない。
しかし一方でそれは、雇用対策にもつながっている。
貧しい農民の出稼ぎ先として、花の園が好まれるとは皮肉なことだ。
その雇用という名目で、これ以上縮小すべきでないと唱えるのは宰相だった。
先の皇太后の覚えめでたき初老の男は、後宮を無駄に巨大にした張本人である。
先帝に子ができぬならば、生める妃を増やせばよいと、年々、女官の人数を増やしていった。
そもそも、子ができぬ原因はまったく別のところにあったわけだが、その理由は口にもだしたくないおぞましいものである。
つまり、先の帝は妙齢の女性に興味をもたれない性癖を持っていただけにすぎない。
でなければ、国一番の美姫と言われた娘を惜しげもせず下賜したりするだろうか。
他にも、臣下に妃を惜しげもなく下賜することはまれでなかった。
なので、現帝の弟君が生まれた際、誰もが皇太后の不貞を疑ったほどだ。
皇帝が育ちきった后に食指を動かすはずはないと。
先の時代に甘い汁を吸い、肥え太った宰相は今の時代も自分のものと思っているのだろう。
かなり強引な方法で自分の娘を輿入れさせている。
阿多妃を追い出してまで。
ただ肥え太っているだけならまだ対処法があるのだが、すでに化け狸の域までくれば相手にするのも難しい。
「どうにかせねばなるまいな」
主人がつぶやく。高順は黙ったまま控えている。
したくはなくとも、せねばなるまい。それが、主人の仕事である。
水蓮が着替えを持ってきたのをみると、主人は湯殿へと向かった。
皇帝も無茶をなさる。
数え十九の若者に、無理難題を押し付ける。
そうせねばならないのかと。
主人の選んだ道ならば仕方なくついていくしかない。
改めて、高順は思うのだった。
高順が翡翠宮に来てみると、無愛想な小柄な女官は留守だった。
「どこへ行ったのですか?」
侍女頭の紅娘にたずねると、彼女は何とも言えない顔をして、少し離れた棟をさした。
火をつかっているのか、煙が見える。
なにごとか、と高順はそのもとへと向かおうとしたが。
今日は壬氏はおらず、言付けを伝えるためにきた。それだけなのに、しっかり草刈り鎌を持った侍女がこちらを見ていた。
あとでやればいいのか、と高順はいらぬ機転を利かせてしまう。一度、宦官に草刈りを頼んだところ、窓に細工を施されたことがあったらしい。高順ならばしないという信頼を持たれていると考えるならば、嬉しく思うべきだろうか。
あとでやると約束し、煙の見えるほうへと高順は向かう。
棟にある厨房では煙のもとである小柄な女官が、鍋とにらみ合っていた。
中は熱気と花の香しさが周りに立ち込めている。
「なにをしているのですか」
「高順さま」
無表情の猫猫の額にはうっすら汗が浮かんでいる。
竈にかけられた鍋のその先に奇妙な管が伸びており、その先からちろちろと液体が落ちている。
匂いのもとはこれらしい。
「薔薇水を作っています」
なるほど、香しいのはそのせいか。
そういえば、園遊会のあと薔薇の鉢植えを後宮内に移植していた。
その花びらを利用したのだろう。
それにしても、どうにも突飛なことをする娘である。
しかも、それに気づいていないからたちが悪い。
せっせと管から垂れる液体を嗅いで、こんなものかと眉を歪めている。どうやら、これだけ香しいというのにまだ満足できない出来らしい。
すでにいくつもつくられたそれは、香りとは別に色付け用の染料も用意してあった。
「よく玉葉さまは許可されましたね」
「紅娘さまの許可のほうが難しかったです。それに、ちゃんと綺麗に片付けないといけませんね。身体についた匂いもしっかり落とさないと」
植物を濃縮させた精油は、少々なら問題ないが、あまり使い過ぎると妊婦に悪いらしい。
だから、わざわざ別の場所を借りてやっているという。
なるほど、面白いもの好きの妃より、仕事熱心な侍女頭のほうが手ごわかろう。
それでも、許可をとれること自体、寛大すぎることに気が付いているだろうか、この娘は。
なにか集中すると、周りが見えなくなるものはいるがその典型だろう。
他の事では冷静に立ち回っているというのに。
猫猫は、薔薇水を小瓶に入れ、高順に渡す。
凝縮された香りが鼻腔に広がる。
「野生の薔薇のほうが香りは強いのですが」
どこか不満げな顔をする猫猫。
完璧を求めるところは、どうにも研究者気質である。
もうひとつの竈にも大きな鍋がかけられている。
同じように陶器の管が伸び、透明な液体が滴っている。
薔薇の香りとは違う。頭がくらくらする匂いだ。
「そちらは、酒精をためたものです」
なるほど、嗅ぐだけで酔いそうになるわけだ。
それにしても、やることなすこと薬師の領分をこえている気がしてならない。
言えば、確実に不興を買うだろうが、やはり軍師どのと似ている部分が多い。奇人の血は奇人である。
猫猫は器にたまった液体を回収すると、手際よく片付けていく。
高順も手伝うと、相変わらずまめですね、と言われた。
どうにも、年上の妻を持ったせいか、こういうことには身体が先に動くようになってしまったらしい。草取りも窓ふきも頼まれて平気なのはそのせいだろう。恐妻を持つが故、家に戻るたびにどやされる。
ふと、高順の頭に無粋なことがよぎった。
まあ、猫猫なら口にしてもさして気にしないだろうから、聞いてみることにする。
「小猫は、嫁ぐことは考えないのですか?」
数え十八、すでに適齢期も後半にさしかかっている。
後宮という特殊な環境だからこそ、忘れてしまいがちになるが、もう親にせっつかれる年齢なのだ。
「出産には興味ありますが、嫁ぐことは頭にないです」
なんとも一足とびな答えである。
だとすれば、子どもは欲しいということか。
「しかし、子どもに興味がわくという確証もないので、ほいほい種をもらうわけにもいかないですし」
出産という行為自体に興味を示しているということか。
なんとも頭が痛くなる。
「実行しないでください」
「責任が持てるまでやりません。それに私の身体は毒の塊ですから、まず毒抜きからはじめないといけないでしょうね」
いや、そのまま産んでも、いやそれではいけない、と猫猫はくだらぬことを考える。
いつかはやるのか。もう愛だの恋だの言う前に、実験と同じだ。
それまでにうまくねじ込めるかどうか。
竈の火を落としながら、高順はぽりぽりと首の裏をかいた。
まったく面倒なものを気に入られたものである。