四、大猫
熊猫に同じ本の確保と写本の作成者を調べてもらうにも時間がかかる。
趙迂のこともしばらく様子見したいところだが、ここで問題が起こる。
「月の君のところへ行ってくれ」
「今日ですか?」
「今日だ」
壬氏の元に定期的に検診に行く話だった。
別に前ほど拒否感はないが、問題ごとを抱えていると見透かされそうで怖い。とはいえ、劉医官の命令だと断れないので行ってくる。
(まいどー)
いつも通り顔見知りだがまだ名前を知らない護衛たちに頭を下げて部屋へと入る。
壬氏は書類を片手に杯を揺らしていた。部屋は冬とは思えないほど暖かい。毛足の長い毛氈が敷かれ、長椅子にはひざ掛け毛布が掛けられている。
「来たか?」
猫猫は頭を上げる。壬氏の仕事は以前ほど多くないはずだが、持ち帰って仕事をするのが日課になっているのだろう。案件も大したことがない物に見える。
「健康状態を確認しにまいりました」
「わかっている」
猫猫は帳面を取り出す。
「それはなんだ?」
「記録しないと怠慢になりますので。これまでの触診などに加えて質問を増やそうかと」
猫猫なりに色々考えている。
「失礼します」
猫猫は壬氏に近づき、下瞼をめくったり、舌を出してもらう。脈を取ったり、心の臓の音を聞く。
「……」
なんとも言えない視線が猫猫に注がれるので無視して職務を行う。
「では質問を」
まずはいつもどおり、体調不良や体の異変がなかったか確認する。追加で新しい質問を加える。
「毎日の食事内容と量、あと酒や水など飲み物の種類と量を知りたいです」
「いちいち覚えていないぞ」
むうっと天井を仰ぐ壬氏だが、考える必要はない。そっと水蓮がやってきて毎日の食事内容を記した帳面を置く。
「ありがとうございます」
「今後は詳しい量も書くわね」
「大体で問題ありません」
でき過ぎるばあやだ。猫猫はあとで書き写そうと帳面を横に置く。
「あとは、一日に何度厠に行きますか?」
「厠……」
「排泄の回数を具体的に教えてください」
「排泄……」
壬氏が固まる。
「はいはーい、猫猫さーん」
突如、雀が現れる。
「その先は駄目です、駄目ですよぅ」
「何が駄目ですか?」
雀は指をふりふり、首をふりふりして猫猫を嗜める。
「皆様の偶像はお花摘みにはいかないんですよぅ」
「……健康状態を調べたいだけなんですけど。ってか、出すもん出さないと死にますよね?」
「ともかーく、これ以上その話題は禁止ですよぅ。異変を感じたら、月の君は自分で、もしくは水蓮さまがお知らせしますのでぇ」
雀はそっと椅子を猫猫の後ろに置いて座れと示す。
「それよりも世間話でもしてくださいなぁ」
猫猫としては、趙迂や例の本の作者がはっきりしないうちは、あまり話したくないと思っていたのだが。
壬氏はそうでもないらしい。
「なにか異変があれば、自分で報告する。それよりも――」
壬氏は水蓮に目配せをする。
「面白い物が出回っているようなので一つ手に入れた」
何だろうと猫猫が思っていると、水蓮が急須を持ってくる。装飾が凝ったもので、いい値段しそうだ。
「見ていろ」
壬氏は湯飲みに茶を注ぐ。良い香りの茶だが、ものすごく高価な茶葉を使っているのだろうか。
壬氏はもう一つ横の湯飲みに茶を注ぐ。いや、茶ではない。赤い果実水が湯飲みに注がれている。
猫猫は二つの湯飲みの中身を見比べる。全く別の液体がそれぞれ入っていた。
「どうだ? 不思議だろう」
壬氏が面白そうに笑う。
「急須の中が二重構造になっていて、二種類注ぎ分けられる」
「へえ」
猫猫は興味深そうに急須を観察する。
「毒殺に使えそうですね」
「……そうだな」
「今後、似たような急須を見たら気を付けるようにします」
「そうしてくれ」
壬氏は少し落ち込んだように急須を卓の端に寄せる。
(話題を作ろうとしたんだろうけど)
申し訳ないと思いつつ、どうしても猫猫の頭は毒見の方向で考えてしまう。
(何か話題はないか)
「そういえば阿多さまのところの子どもたちはどんな様子ですか?」
思わず口にしてしまったのは、趙迂のことが頭の片隅に残っていたからだろう。
「生き残りの子どもたちか。いきなりだな」
「梔子さんがだいぶ元気になっていたもので、そういえばと」
「ふむ。預かった娘は健やかに育っているか」
「ええ。羅半兄に懐いています」
「確かに子どもに懐かれそうな御仁だな」
野生児に近い時もあるが、前の栄養失調で死にかけているときよりもましだろう。
「あれから三年が経っている。昔のことはあまり記憶になく健やかに育っている。阿多殿にも懐いているぞ」
猫猫も知っている。阿多だけでなく翠苓もしっかり面倒を見ているだろう。
だが、子どもはいつまでも子どものままではない。
「子どもたちは将来どうするんですか? 翠苓のように扱うわけにはいきませんよね?」
翠苓は仮にも先帝の血を引く娘だ。生涯、監視の目が緩むことはなかろう。
「成人して問題がないようなら、それぞれ自立してもらう気ではいる。彼らは物心つく前に親たちが堕落していたようで、乳母に任せきりだったそうだ」
生き残った子どもの中で最年長は趙迂だ。他の子どもよりも両親の記憶があるだろう。もし、記憶が戻ったらどう動くのか。
(思い出すなよ。思い出すなよ)
変に反感を持っていると思われると、猫猫もかばえない。
考えつつ茶を飲んでいると壬氏の書類に目がいった。
小難しい文書の中に拙い絵が描かれてある。
「これは?」
「ああ、鈴麗公主が描いてくれた。俺だそうだ」
「似ているとはいいきれませんが、味があるかと」
「だろう?」
ふふんとちょっと鼻を高く見せる壬氏。
一時期は壬氏よりも猫猫のほうに懐いていたが、今は忘れてしまっている。なんか悔しい気持ちになりながら絵をまじまじと見た。
「数え六歳でしたっけ?」
「ああ」
猫猫が覚えている限りでは赤子だった。子どもの成長は早いというがふと猫猫も思うことがある。
「ていっ」
猫猫は意味もなく壬氏をつついた。
壬氏は思わずのけぞる。
「い、いきなりなんだ?」
「いえ、四年前の壬氏さまならありえない態度かなと思いまして」
「あーあー、言うな。言うな。聞きたくない」
壬氏は耳を押さえて首を振る。過去の自分の行いを忌々しく思っているようだ。
「当時の後宮女官たちは役得ですね。本来ならお目見えも難しい麗しの君に、仕事とはいえ声をかけてもらう機会があって」
きらきらを振りまいていた姿を思い出しながら語る猫猫。
「嫌がらせか?」
「いえいえ、滅相もない。ただ、今の姿との落差が面白いだけですよ」
「ふん」
壬氏はふてくされると長椅子に横になった。
「眠るなら寝室で寝てください」
壬氏は無言で手招きをして、猫猫を呼ぶ。近づいて来た猫猫を近くにあった毛布でくるんだ。
猫猫は繭のように包まれてしまう。
「何のおつもりで?」
毛布越しにくぐもった声が壬氏には聞こえているだろう。
「変な気持ちにならない程度に補充したかった」
「回りくどいんですけど」
猫猫はもごもご動くが、壬氏がしっかり包んでいるため抜け出せない。
「なんか本物の猫みたいだなあ」
「こんな大きな猫いませんよ」
「虎でも飼うか」
「誰が世話をするんですか」
「馬閃」
「あー」
思わず猫猫は納得する。
「無責任だからやめておく」
「そうしてください」
「代わりに猫役を頼む」
「うー、わん」
猫猫は絶対に「にゃー」と鳴いてたまるかと思った。
同時に妙にぽかぽかして、かすかに心臓の音を感じる今の体勢に落ち着き始めていた。
(寝ないようにしないとな)
猫猫は軽く自分の頬をつねりながら、鼓動を感じていた。




