勤務時間終了です。
冥界の空は、今日もどんよりと曇っていた。
灰色の雲はゆっくりと渦を巻き、時折、死者の囁きのような風が吹く。
そんな陰鬱な天気とは裏腹に、一人の女魔は上機嫌だった。
──今日もタナトス様は格好いい。
彼女の名前はアルネア。
死を司る神タナトスの補佐官であり、冥界行政局の中でも優秀と評判の悪魔だ。
……恋人ではない。
残念ながら。
死神タナトス。
冥界で最も真面目で、
最も仕事が早くて、
最も定時で帰る男。
……そして。
アルネアが、何百年も片想いしている相手だった。
「タナトス様、お疲れさまです!」
「うむ」
ピンク色の長い髪を揺らしながら、アルネアは今日もタナトスの半歩後ろを歩く。
腰の小さな黒い翼が嬉しそうに揺れ、頭の触角はぴくりと跳ねた。
黒いジャケットに白いブラウス、短めのスカートという補佐官の制服。
見た目は優秀な補佐官そのもの。
アルネアが思うに、この白衣の男タナトスは仕事人間である以上に、
恋愛という概念を理解していない。
過去に何度もデートに誘ったことがあるが、
上手くいった(…とも言えない)のは、悪魔カフェに寄った一度きり。
悪魔カフェはヒュプノスのお付き、同じ階級の女魔マグナが運営する冥界の人気店だ。
マグナにはタナトスへの想いを相談済みだが、
彼女曰く「タナトス様は難攻不落」とのことだった。
タナトスは袖に止まっていた冥界てんとう虫をつまんだ。
「……」
じっくりと観察している。
「……珍しい種類だな」
「タナトス様、わたくしの話聞いてました?」
「聞いていた」
「じゃあ何の話でした?」
「……虫の話ではなかったな」
タナトスは虫の額を軽くでこぴんした。
冥界てんとう虫は、ぷいっと飛んでいく。
それを見届けると、タナトスは終命録を閉じた。
「今日の死亡予定、終了」
分厚い帳簿を閉じる音が冥界庁舎に響く。
「アルネア、あとは頼む」
「えー……はい。明日分の更新も済ませておきます」
「じゃ」
そしてタナトスは、いつものようにさっさと退勤した。
一方で──
ヒュプノスは……
「……ヒュプノスよ」
タナトスの声掛けに返事がない。
机に突っ伏したまま爆睡していた。
(勤務時間中に寝るのは彼の仕事である)
サタンはというと、
「魔界会議はまだ終わらんのか……」
書類の山に埋もれていた。
角だけが辛うじて見える。
タナトスはため息をつく。
「じゃあ、お先です」
「あ、タナトス、ちょっと…」
「勤務時間終了です」
「……」
タナトスは意気揚々と悪魔カフェへ向かった。
アルネアはその背中を見送りながら、今日も恋の進展は難しいとため息をついた……。
読んでくれてありがとうございます。続きもゆるく楽しんでもらえたら嬉しいです。




