第036話「二足歩行」
泥底に沈んでいた冷たい物を確認するところから始めた。
拠点の裂け目を出て、岩棚から泥底へ降りる。昨日の就寝前に熱感知で見た位置は、拠点から南へ10メートルほど。泥に半分埋まっている。
泥から金属片を掘り出した。
俺の頭より少し大きい板で、表面がゆるく曲がっている。薄いが硬い。叩いてみると、鉄噛み蟻のテリトリーで見つけた刃の欠片と同じ系統の音がした。だがこれは刃ではない。体を覆うための形だ。
裏側に繊維が貼りついていた。布の切れ端と同じ織り方だ。金属の板の裏に布を当てて、体に着ける。
……鎧の破片か?
体を金属で覆う発想は蟲にはない。これは、あの南東の痕跡を残した相手が身につけていた装備の一部だろう。壊れて泥に沈み、そのまま残っていた。
鎧片を泥に戻した。持ち帰る意味はない。だが情報としては大きい。刃物、布、火、そして鎧。南東に痕跡を残した相手は、道具を持って火を使う。そこまでは見えてきた。
◇ ◇ ◇
鎧片の発見地点から、南東への探索を再開した。
高所の道を使い、岩棚を辿りながら移動する。嗅覚強化で霧の薄い帯を読み、縦穴の気流に沿って進んだ。
3つ目の縦穴を通過した先で、岩棚の構造が変わった。今までの狭い岩棚ではなく、幅のある自然の回廊になっている。天井が高い。岩棚というより、泥底から3メートルほど高い位置に横方向の通路が走っている形だ。
回廊を進む。霧が薄い。3つ目の縦穴の気流がここまで届いているのか、それとも別の換気構造があるのか。とにかく呼吸が楽だった。
回廊が広がり始めた場所で、振動感知に反応があった。
距離は15メートル以上。泥底ではなく、こちらと同じ高さの回廊で、熱源が動いている。
蟲ではない。脚のリズムが違う。蟲は多脚で、細かい足音が続く。これは……左右交互の足音だ。2本の脚で歩いている。しかもそれが複数いる。少なくとも3体が、少しずつずれながら同じ方向へ進んでいる。
……2本脚か。
体を回廊の壁に寄せた。岩の色に鱗硬化の表面が馴染む。動きを止め、振動感知と熱感知だけで先を読む。
近づいてくる。
熱感知の範囲に入った。3つの大きな熱源。蟲とは根本的に映り方が違う。体の中心部が最も熱く、四肢に向かって温度が下がっていく。恒温動物だ。体温が一定で、周囲の泥や岩より明確に高い。
蟲は変温だ。環境温度と体温の差が小さいから、熱感知では輪郭がぼやける。だがこいつらは輪郭がくっきりしている。体が直立し、上部に球体がある。頭だ。2本の上肢と2本の下肢。
そして、一つだけ異質な熱源があった。3体の前方を歩く個体が、片手に異常に熱い道具を持っている。小さいが、周囲の空気ごと熱している。
――光っている。
この層に来て初めて見た。あれは火だ。火を手に持って歩いている。松明か、それに近い道具だろう。あの温度は蟲が出せるものではない。
3体は回廊の中を、こちらとは反対の方向、南東へ進んでいた。速度は速くない。周囲を警戒しながら慎重に進んでいる。
体を動かさないまま、壁に張りついて観察を続けた。
回廊の曲がり角で3体が立ち止まった。
……声だ。
振動感知では拾えない高い周波数の振動が、空気を通じて届いてくる。蟲が出す摩擦音や打撃音とは全く違う。変調がある。高低があり、リズムがあり、間がある。意味を持った音の連なりだ。
何を言っているかは分からない。だが、あれは伝達だ。3体の間で情報を交換している。
先頭の個体が松明を高く掲げた。回廊の先を照らしている。光が壁面に反射して、熱感知の映像に干渉した。あの光の範囲なら、暗闘に慣れた蟲の目も一時的に潰せるだろう。
3体が再び動き出した。先頭は松明を持っている。中央は細長い金属を構えていた。熱感知にも、冷たい反射が混じる。手で握り、前方に向けている。武器だ。後方の個体は両手を空けている。何も持っていないように見えるが、体の周囲の空気がわずかに震えている。
回廊の曲がり角を越えた先で、3体が止まった。
先頭が松明を振った。光の範囲が広がる。泥底から霧沼蛙が飛び出した。蛙は光に反応して、先頭の個体へ飛びかかった。
中央の個体が前に出た。金属の武器を振る。一閃。
蛙の胴が切れた。
……速い。俺が牙で何度も噛みつく必要がある蛙を、一振りで両断した。あの金属の刃は、鉄噛み蟻のテリトリーで見つけた刃の欠片と同じ材質に見える。壊れた刃は、あいつらの刃から落ちた可能性があるのか。
蛙の死体が泥底に落ちた。3体は立ち止まらなかった。死体を確認もせず、そのまま南東へ進んでいく。
蛙1匹に興味がないのか。それとも、この先にもっと大きな目的があるのか。
◇ ◇ ◇
3体が回廊の奥に消えるまで、動かなかった。
松明の熱が遠ざかり、振動感知からもリズムが消えた。完全に離れた。
息を、吐いた。
あれが何なのかは分かる。分かるが、この世界で何と呼ばれているかは知らない。だが前世の記憶にあるもので言えば、あれは……人間だ。2本脚で直立し、道具を使い、言葉を話し、集団で行動する。金属の武器と鎧を持ち、火を操る。
あいつらは、人そのものの動きだ。
そして俺は、通路の壁に張りついて息を殺していた。見つかったらまずい位置なのは、笑えないくらいはっきりしている。
笑えない構図だが、事実ではある。あの一閃を見る限り、今の俺が正面から戦って勝てる相手ではない。蛙を一振りで両断する刃物と、何も持っていないのに空気を震わせていた後方の個体。3対1で、しかも相手は連携が取れている。
逃げたのは正解だった。正確には、最初から戦う気がなかっただけだが。
◇ ◇ ◇
3体が通った回廊を、慎重に辿った。南東方向へ。
回廊の壁面に、新しい痕跡があった。松明の煤が岩に残っている。焦げ跡の一部は、これかもしれない。何度もここを通るたびに、松明の煤が壁に蓄積したのだろう。
蛙を斬った場所を通過した。死体はまだ泥底にある。食いたいが、あの3体がすぐ先にいる。今は追うより距離を保った方がいい。
回廊がさらに広がった先に、開けた空間があった。
天井が高い。縦穴が近いのか、霧が非常に薄い。そして、匂いが違う。
嗅覚強化が拾ったのは、焼けた木と金属と布と、それから獣っぽい匂いが混ざった残り香だった。何種類もの匂いが重なっている。一度や二度ではない。何日も、何度も、同じ場所に留まった相手の匂いだ。
岩壁の窪みに、焚き火の跡があった。灰が積もっている。石を丸く並べた火床。焼けた骨が混じっている。蟲の殻の焼け焦げもある。食った跡だ。火で焼いて食っている。
その横に、岩壁を平らに削った場所があった。削った面に、細い線が刻まれている。
文字かもしれない。だが俺には読めなかった。記号の羅列にしか見えない。前世の日本語でもなければ、英語でもない。この世界の文字か?
焚き火跡の周囲を嗅覚強化で丁寧に調べた。残り香の強さから推測すると、最後にここが使われたのはそう遠くない。泥底の刃の欠片や布の繊維は古かったが、この焚き火跡はもっと新しい。あの3体か、別の連中か。どちらにしても、ここは繰り返し使われている中継地点らしい。
灰の中に、小さな金属の環が落ちていた。輪の形をした金属。鎖の一部か、留め具か。片面に模様が刻まれている。蟲の殻や岩にはない、人工的な幾何学模様。
……紋章みたいな模様か?
意味は分からない。だが、これを作ったのは今まで見た蟲ではない。あの3体と同じ、人間側の物だろう。
金属の環を岩の隙間に戻した。持ち去る理由がない。ただ、位置は覚えた。
ここまでの探索で、HPは7割程度まで削れていた。戦闘はしていないが、回廊の移動と泥底を一部渡った分の毒霧被毒だ。レベルアップの通知は来ていない。今日は戦闘を避けたから当然だが、経験値が入らないまま消耗だけが進んでいる。
引き返す判断をした。今日得た情報だけで、整理に時間がかかる。
拠点への帰路で、さっき蛙が斬られた場所を通った。死体がまだあった。匂いで確認する。まだ腐っていない。食えるか。
俺は蛙の死骸を食った。斬られた蛙は既に死んでいるから、毒を使う必要もない。半分に切れているので食いやすかった。あの3体の獲物を横取りしている自覚はあるが、腐らせるよりはましだ。
拠点の裂け目に戻り、体を収めた。
拠点の中で、今日見たものを整理した。
この層には人間らしき相手がいる。少なくとも3人一組で、武器と火を持ち、回廊を南東方向へ進んでいた。中継地点を繰り返し使っている。文字らしき物を使い、紋章みたいな模様も持つ。
あいつらから見て、俺は何だ。壁に張りついた灰色の蛇。見つかっていたとして、蛙と同程度の脅威か、それ以下か。一振りで処理されるのか、それとも無視されるのか。
どちらにしても、今の俺があの3体に干渉する理由はない。距離を保ち、観察し、情報を取る。正面から出たら切られる。今やることは、それを確かめに行くことじゃない。




