第035話「仮の安全圏」
この層での行動には拠点が要る。
第1層では巣の主を倒した後に安全な寝床を確保できた。だがこの層は違う。毒霧、泥底、高所の壁面住人。どこにいても何かしらの消耗がある。安全に眠れて、かつ狩り場へ出やすい場所を一つ作らなければ、じり貧になる。
条件を整理した。一つ、縦穴の近く。霧が薄い場所でなければ寝ている間に毒で削られる。二つ、泥底から離れた高所。泥底にはあの大きなものがいる。三つ、岩棚か岩窪みで体を隠せる場所。吊り苔蛇や枝脚蟲に寝込みを襲われたくない。
昨日までの探索で見つけた二つの縦穴のうち、一つ目の周囲が候補だった。窪地があり、乾いていて、岩棚から泥底に降りずにアクセスできる。
◇ ◇ ◇
一つ目の縦穴の窪地に戻った。焦げ跡のある場所だ。
窪地の奥を改めて確認した。岩壁に小さな裂け目がある。蛇一匹が入れる幅だ。中に体を押し込んでみる。奥行きは体長の半分ほど。行き止まり。換気は縦穴の気流が裂け目の入口まで届いているので、中にいても霧の濃度は低い。
ここだ。
入口が狭い分、大型の蟲は入れない。吊り苔蛇や吸い霧蛭のような小型は入れるが、裂け目の中なら先に気づける。縦穴の気流で霧が薄く、泥底から高さがある。条件を全部満たしている。
裂け目の中に体を収めて、入口の方向を確認した。岩棚に出るまで三メートル。岩棚から根道への降り口まで十メートル。根道を使えば東の狩り場まで五分、南東の鉄噛み蟻テリトリーまで十分。物流の拠点としては悪くない。出荷先が全部「食う」か「食われる」かの二択だが。
◇ ◇ ◇
拠点を決めた直後に、裂け目の外で動きがあった。
岩棚の上を何かが移動している。振動感知に引っかかった。多脚。だが枝脚蟲のリズムではない。もっと速い。脚の数が多い。
裂け目から頭だけ出して確認した。
岩棚の上を、百足が走っていた。
第1層の大型百足よりは小さい。体長は一メートルほど。だが脚の動きが異常に速い。泥底ではなく岩棚の上を移動している。体色が泥の茶色ではなく、暗い灰色だ。沼底百足と名付けた。名前に迷ったが、泥底から岩棚まで登ってくる百足なら沼の底から来たのだろう。
沼底百足はこちらの裂け目には気づいていない。岩棚の上を駆け抜けて、岩壁を登り、天井方向へ消えていった。
速い。岩棚の上でこの速度を出せるのは厄介だ。こちらの安全圏が岩棚の上にある以上、沼底百足は直接的な脅威になる。
追いかけるか。
HPは全快だが、相手の動きを見る限り、岩棚の上での追撃は分が悪い。狭い場所で待ち伏せる方がいい。
裂け目に戻って待った。沼底百足が巡回ルートを持っているなら、また通るはずだ。
二十分後、振動感知が同じリズムを拾った。戻ってきた。
今度は岩棚の端を減速しながら通過している。何かを探しているように、脚の先で岩の表面を叩いている。餌を探しているのか、テリトリーの確認か。
裂け目の入口まで来た。
立ち止まった。脚先で裂け目の縁を叩いている。匂いか振動で中にいるこちらを感知したか。
先手を取った。裂け目の入口は狭い。百足の全身が入る幅ではない。頭だけが入ってきた瞬間に、牙を叩き込んだ。
——入った。
頭部の関節、顎の付け根。百足系の急所は第1層で学んでいる。外殻粉砕の振動を乗せて殻をこじ開け、毒を流した。
沼底百足が暴れた。体を引き戻そうとするが、裂け目の中でこちらが噛みついているため、引くに引けない。脚が岩棚を叩く音が激しくなる。体が裂け目の入口に挟まり、もがくたびに岩が削れた。
締め付けは使えない。裂け目が狭すぎて巻きつく余裕がない。牙だけで食いついて、毒を送り続けた。沼底百足の脚が鱗を引っ掻く。痛い。だが致命的ではない。裂け目の中にいる限り、全身の攻撃は届かない。
一分ほどで動きが鈍り始めた。第1層の百足類より毒の回りが速い。体が小さい分だけ早く効く。脚の動きが半分に減り、やがて止まった。
裂け目から引きずり出して食った。
灰色の殻は第1層の百足より薄い。速度に振った分、装甲が薄いということだ。食いやすいが量は多くない。半分ほど食べたところで通知が来た。
『熱感知 Lv2 に上昇しました』
感知範囲が広がった。今までぼやけていた泥底の奥の熱源が、輪郭を持って見えるようになった。岩棚の上から泥底を見下ろすと、蟲の小さな熱源が何匹か確認できる。あの大きな捕食者の姿は、今は見えない。
残りも食った。食い終わった頃には、裂け目の周囲に沼底百足の匂いが薄く残っていた。この匂いが他の百足を引き寄せるか、それとも遠ざけるか。しばらく観察が必要だ。
◇ ◇ ◇
沼底百足を食い終えてから、岩棚を使って拠点の周辺を確認した。
熱感知 Lv2の精度で見ると、この周囲の構造がかなり細かく読めるようになっている。根道の位置、泥底の深い場所と浅い場所、岩棚の繋がり方。全部が前より一段鮮明だ。
拠点を中心にして、三方向への動線を頭の中で引いた。北西に根道経由で東の狩り場。南東に岩棚経由で鉄噛み蟻テリトリーと布繊維ルート。真上に縦穴経由で第1層への退路。三本の線が拠点で交差する。
この層の支配ルールは二つだ。足場と、霧の濃淡。足場の良い場所は泥底から離れた高所で、霧の薄い場所は縦穴の近くだ。その二つが重なるのが、今いる場所だ。
通知が来た。
『Lv7になりました』
全回復。久しぶりにステータスを確認した。
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種族:鎧鱗毒蛇
Lv:7
HP:66 / MP:29
攻撃力:36 / 防御力:44
素早さ:29 / 知力:24
【スキル】
捕食継承 Lv1 / 毒牙 Lv3 / 締め付け Lv2
鱗硬化 Lv2 / 壁走り Lv2 / 振動感知 Lv3
熱感知 Lv2 / 外殻粉砕 Lv1 / 毒液圧縮 Lv1
酸耐性 Lv1 / 粘着無効 Lv1 / 毒霧 Lv1
鱗弾き Lv1 / 急旋回 Lv1 / 嗅覚強化 Lv1
反響定位 Lv1
次の進化まで:75%
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防御が44。この層に来てから一番伸びた数字だ。鱗硬化と合わせれば、沼底百足の脚程度なら受けてから反撃できる。素早さは29で据え置きに近いが、高所ルートと待ち伏せを使えば速度差は地形で埋められる。
沼底百足一匹でLv5から二つ上がった。岩棚の上を走れるあの速さは、この層では格上寄りの個体だったということだ。拠点を構えた直後に格上と当たったのは運が悪かったが、裂け目に籠城できたのは運が良かった。差し引きで、まあいい。
体を裂け目に収めた。今日はここで寝る。明日からは、この拠点を起点にして周回ルートを回す。食って、稼いで、進化を近づける。
目を閉じる前に、熱感知を最大まで広げた。泥底の遠く、拠点から見て真南の位置に、何かが沈んでいるのが見えた。熱源ではない。熱感知に映るのは温度を持つものだが、そこだけ周囲の泥と温度が違う。泥より冷たいものが、沼底に埋まっている。
……鱗か。
黒い。小さな欠片だが、泥に混じらず形を保っている。腐らない素材だ。蟲の殻は泥に溶ける。溶けずに残っているということは、蟲の殻ではない。
明日、確認する。




