第033話「薄い場所」
焦げ跡のそばだけ毒霧が薄い。昨日の発見が引っかかっていた。
あの場所だけ霧が薄い理由は二つ考えられる。焦げた何かが霧を散らしたか、焦げ跡とは無関係に元から霧の流れが違うか。どちらにしても、毒霧の濃淡を読めるようになればこの層の行動範囲が変わる。
焦げ跡のある窪地へ向かう。昨日確認した高所ルートを使って移動した。
◇ ◇ ◇
窪地に着いた。焦げ跡は昨日のまま残っている。
鼻先を岩に近づけて、匂いを丁寧に嗅ぎ分けた。焦げた岩の下に、泥や苔とは違う匂いが混じっている。蟲の体液の匂いとも違う。乾いた、繊維のような残り香だった。
嗅ぎ続けているうちに、空気の流れが見え始めた。霧の粒子の密度が場所ごとに違う。焦げ跡の横が薄いのではなく、焦げ跡の上方から空気が降りてきている。その気流が周囲の霧を押し退けている。
上を見た。
天井に穴がある。直径は体幅の三倍ほど。縦穴だ。そこから乾いた空気が細く落ちてきている。上層の空気が、この穴を通じて第2層に流れ込んでいた。
……風の穴か。
これが毒霧を押し退けている正体だった。縦穴の直下は常に霧が薄い。この層で安全に呼吸できる場所が、天然の換気口として点在しているわけだ。
ならば同じような穴が他にもあるはずだ。匂いの差で見つけられるなら、この層全体の毒霧の地図が作れる。
そこで通知が来た。
『嗅覚強化 Lv1 を習得しました』
鼻先の精度が一段上がった。今まで「なんとなく匂いが違う」だった差が、方向と濃度として読み取れるようになった。縦穴からの気流が運んでくる上層の空気と、毒霧の境界がはっきり分かる。
嗅覚強化を使って、窪地の周囲を確認した。縦穴の気流は南東方向へ流れている。つまり縦穴の南東側にも霧の薄い帯がある。この帯を辿れば、霧の中を最小限の被毒で移動できる。
◇ ◇ ◇
気流の帯に沿って南東へ進んだ。
棚を使い、高所から霧の薄い筋を嗅覚強化で読みながら移動する。泥底に降りなくていい分、消耗が少ない。この動き方なら、毒霧の濃い地帯を横切れる。費用対効果でいえば、今までで一番いい移動法だった。
二十メートルほど進んだ場所で、棚の下の岩壁に何かが張りついていた。
灰色の蛭だった。体長三十センチ。壁面に吸盤で貼りつき、口を大きく開いている。口の周囲が霧を吸い込むように動いていた。毒霧を吸って濾過している。霧を食っている蛭だ。吸い霧蛭と名付けた。
こちらに気づいていないのか、動かない。近づいてみる。吸い霧蛭の周囲は霧がさらに薄い。こいつ自身が霧を吸い込んでいるから、体の周りの霧密度が下がっている。
壁面で動かない敵は楽だ。頭の上から降りて、尾側から巻きつく。吸い霧蛭は体表が粘膜質で、締め付けると体液が滲み出した。気持ちのいい感触ではないが、粘着無効が仕事をしている。
牙を入れた。柔らかい。毒を入れるまでもなく、締めるだけで動きが止まった。
食う。量は少ないが、経験値は入る。味について点をつけるなら、下から二番目だ。
通知は来なかった。
その先にもう一匹いた。同じ吸い霧蛭だ。同じ処理で片づけた。二匹目も捕食継承は空振り。
◇ ◇ ◇
吸い霧蛭を二匹処理した先に、二つ目の縦穴があった。
一つ目より少し大きい。直径は体幅の四倍ほど。上から降りてくる空気量も多い。ここの周囲は毒霧がかなり薄く、熱感知の精度もほぼ第1層並みに戻っている。
棚の端に体を寄せて、縦穴の中を覗いた。上方向は暗い。第1層へ繋がっているのか、さらに上の構造なのかは分からない。
下を見た。
縦穴の下方にも空間が広がっている。霧が薄い分だけ、振動感知と熱感知の両方でかなり遠くまで見えた。
そこで、動いているものが見えた。
大きい。熱感知の映りが通路いっぱいに広がっている。多脚。均一なリズムの振動。
……知っている。
大型百足だった。第1層で何度もすれ違い、試し噛みをして、縄張りごと奥へ追いやったあの大型百足と同じリズムだ。巣の主を倒した後、第1層から消えていたやつ。ここまで降りてきていたのか。
大型百足は泥底を横切ろうとしていた。脚の動きが第1層の時より荒い。巡回ではない。逃げている。
何からだ。
答えはすぐに来た。
泥底の奥から、別の熱源が浮き上がった。大型百足よりさらに大きい。だが脚がない。長い。太い。泥の中を滑るように移動している。全身が泥底に半分沈んだまま、大型百足に向かって一直線に進んでいた。
速い。大型百足が向きを変える前に追いついた。
泥底で衝突音がした。
大型百足の脚が暴れる音が振動感知に伝わってくる。あの甲殻を何度も叩く打撃音。だが音がすぐに鈍くなった。甲殻が軋む音が混じる。大型百足の振動が乱れ、一つ、二つと脚のリズムが消えていく。
——食っている。
第1層であれだけ怖かった大型百足が、抵抗できないまま泥底に引きずり込まれていた。あの硬い甲殻を噛み砕いている音が、ここまで届く。大型百足の振動が弱くなり、やがて止まった。
泥底の大きな熱源は、しばらくその場で動かなかった。食い終えたのか、消化しているのか。
嗅覚強化が、泥底から立ち上る匂いを拾った。大型百足の体液だ。第1層で試し噛みした時に嗅いだのと同じ匂いが、泥に混じって上がってくる。
棚の端から体を引いた。見つかってはいない。こちらは霧の薄い縦穴の近くにいて、向こうは泥底の霧の中だ。熱感知の届く距離が違う。
だが一つだけ分かった。この層の泥底に、ああいうものがいる。大型百足を正面から食い切れるものが。
採点表をつけるなら、今の俺では項目が全部足りない。
◇ ◇ ◇
縦穴の近くで体を休めながら、毒霧の仮説を整理した。
この層の毒霧は均一ではない。縦穴の直下は常に薄い。吸い霧蛭がいる場所もやや薄い。焦げ跡のある場所は、おそらく縦穴の気流が届いている範囲だ。
つまり、縦穴を中心にした霧の薄いエリアが点在している。それを繋いでルートを引けば、泥底を避けて高所を使い、最小限の被毒で動ける。
そこまで整理して、体の状態を確認した。吸い霧蛭との戦闘で消耗はほぼないが、高所ルートの移動だけで毒霧の被毒がじわじわ溜まっている。HPは五割を切っているはずだ。霧の薄い場所にいる今のうちに回復を稼ぎたい。
レベルアップの通知は来ていない。吸い霧蛭二匹では足りなかったか。雑魚は雑魚なりの経験値ということだ。
縦穴の近くで体を休めた。霧が薄い分だけ被毒の進行が遅い。ここなら少し眠れる。
目を覚ました時、HPは六割程度まで戻っていた。万全ではないが動ける。
縦穴の縁に体を伸ばして、壁面を確認した。穴の内壁に何かが引っかかっている。
岩の隙間に、薄い金属の欠片が挟まっていた。
……金属か。
錆びている。長さは指先ほど。岩から削れたものではない。叩いてみると、岩とは違う音がする。硬い。薄い。人工的な形をしている。
切断面。焦げ跡。そして金属の削れ片。
この層を通った何かは、刃物を持ち、火を使い、金属の道具を扱う。それは蟲ではない。




