第35話 切り捨てられる場所
一週間は、思っていたより短かった。
ミラ・ハーシェルは、夜明け前から地図を広げていた。
古い地図だ。紙が薄く、折り目が擦り切れている。
それでも、この自治領の“現実”が一番よく分かる。
人が住んでいる場所。
結界が張られている範囲。
すでに、住めなくなった区画。
それらが、静かに色分けされていた。
「……ここから、ここまで」
鉛筆で引いた線は、細い。
だが、その内側と外側では、未来が違う。
内側は、生き残る。
外側は、撤退する。
それだけの話のはずだった。
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会議室には、必要最低限の人間しか集めなかった。
自治領議会の代表。
結界技師。
補佐官。
そして、エマ。
中央の人間はいない。
この判断は、あくまで“自治”の名の下で行われる。
ミラは、立ったまま地図を示した。
「中央からの支援条件は明確です」
声は落ち着いている。
少なくとも、そう聞こえるように話した。
「守る範囲を縮小する。その代わり、残る区域に集中投資する」
誰も口を開かない。
皆、線の外を見ている。
そこには、彼らの家がある。
親の家がある。
畑がある。
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「これは……切り捨てではないのか」
年配の議員が、絞り出すように言った。
「撤退です」
ミラは、昨日と同じ言葉を使う。
「このまま全域を守ろうとすれば、いずれ全部が落ちます。そうなれば、誰も残れない」
「理屈は分かる」
別の議員が言う。
「だが、線の外の人間はどうなる」
「移転支援を行います」
準備していた答えだ。
「住居、職、最低限の生活は保証する」
“最低限”。
その言葉に、誰も救われない。
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エマは、黙って聞いていた。
フォルンで学んだ理屈は、ここでも通用する。
だが、重さが違う。
ここでは、判断が直接、人の人生を削る。
「……質問いいですか」
彼女は、勇気を出して口を開いた。
「この線は、どうやって決めたんですか」
ミラは、一瞬だけ視線を落とした。
「結界維持コスト」
「人口密度」
「避難にかかる時間」
淡々と、要素を挙げる。
「そして――」
少し、間を置いた。
「私が、夜に眠れるかどうか」
会議室が静まり返る。
それは、数字ではない。
だが、嘘でもない。
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決議は、通った。
賛成多数。
反対もあったが、覆らなかった。
公式文書には、こう記された。
> 自治領防衛区域の再定義について
> 持続可能性を確保するため、
> 防衛および居住区域を段階的に集約する
“切り捨て”という言葉は、どこにもない。
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だが、現実は隠せない。
線の外に住む人々に、通達が出た。
「三か月以内に、移転をお願いします」
怒鳴る者。
泣く者。
黙り込む者。
ミラは、すべてを受け止めた。
逃げなかった。
言い訳もしなかった。
「これは、事故ではありません」
彼女は、繰り返し言った。
「判断です。私の判断です」
それが、唯一できる責任の取り方だった。
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夜。
結界塔の上から、自治領を見下ろす。
灯りの数は、これから減る。
意図的に、減らす。
「……正しいことをしている、のよね」
誰にともなく呟く。
答えは返らない。
エマが、隣に立っていた。
「正しいかどうかは、分かりません」
彼女は言う。
「でも、“続ける”判断ではあります」
ミラは、ゆっくり頷いた。
「ええ。終わらせないための判断」
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その日、自治領では何も壊れなかった。
だが、確かに“場所”が失われた。
地図の上で。
そして、人の心の中で。
それでも、ミラは知っている。
ここで何も選ばなければ、
失われるのは、場所だけでは済まなかった。
これは、救いの物語ではない。
切り捨てられる場所があったという、
ただの記録だ。
そしてその記録は、
誰かが次に判断する時、
きっと重さとして残る。
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