高野山
高野山にある奥の院は広く二キロメートルもある。バスの通る一の橋を入り口から、弘法大師が御入定された御廟までの道のりの長さがそれである。
彼は一眼レフのカメラを片手に奥の院の参道をゆっくりと歩いていた。
石畳で出来た一本道の両側には樹齢千年の巨大な高野杉が立ち並び、穂先から生えた葉によって日の光はかすかに差し込む。彼や私の影を石畳に落とそうとはしない。
そのような高野杉の合間、あるいは高野杉とともに数多くの墓石が建っており、彼はその光景に目を奪われた。
墓石といっても一般的な墓石などではなく、両手ですら抱えられないほど大きな石が積まれている。二人で両側から抱えても、その手が繋がることはない。そのような巨石には梵字が刻まれ、それぞれ形にも意味が与えられ、下から地水火風空という仏教の五大、つまり宇宙の意味が込められていた。
梵字に五大。程よい湿度が作り出す苔むした墓石や慰霊碑。巨大な高野杉がそれらすべてを囲むといった事柄は、日常に触れることのない仏教的な神秘を感じたのか、彼は無心にファインダーに収めていた。その墓石の中には武田信玄、石田三成、明智光秀といった有名な武将のものも含まれ、そのことを彼は知ると、ファインダーに収まった神秘性に対し、歴史の軸が加わった、などとも言った。
高野杉に囲まれた一本道を歩くこと十五分、一本道は見晴らしのよい場所へと私たちをいざなう。そこは一の橋と御廟橋の中間にある手水橋で、身を清めるための手水舎がある。信者であればここで身を清める水行があるのだが、信者ではない彼も私も身のうちの手だけを清めた。身を清めないのであれば、と言った彼は入念に指先まで清めていた。そのためか、撮影禁止と言われる御廟橋に至るよりも先に、この手水舎を後にした段階で、もう撮影を辞める決心をし、一眼レフのレンズに蓋をした。旅行に一眼レフのカメラをわざわざ持ってくる彼にとってその行為は、身を清めることと同義だったのかもしれない。
御廟橋を越えると二キロメートルもあった奥の院の中の目的地に着いた。高野杉の神秘性にも慣れてきた頃だったが、燈籠堂で見た頭上にある無数の燈籠の整然とした並びにはまた別の神秘、つまり人工的なものに対する神秘を感じた。
その奥には信仰の聖陵、弘法大師御廟があった。御開創された高野山の最奥、そこは誰もが遠くから御廟を見守る。
カメラを使わない彼は記憶する、とだけ言った。