30話 笑われるかもしれない
それでなくとも慣れない薄暗い地下室で、いかにも怪しい初老の男性——アスターと二人きり。その状況に、私は、筆舌に尽くし難い恐怖感に襲われた。
もはや、私を護ってくれる者はいない。このような状況下では、私を護れるのは私しかいないのだ。
だが、いくら私が抵抗したところで、男性に力で勝つことはできないだろう。それゆえ、もう、目の前の彼が悪人でないことを願うことしかできない。
「アスターさん……だったわね」
「そっちで呼ぶとは、驚いたよ。で、何かね」
「どうしてこんなことをするの?」
狙いが分からないので、取り敢えず尋ねてみた。
もちろん、簡単にすべてを話してくれる可能性はかなり低い。だがそれでも、少しは何か判明するかもしれないと思ったから。
「誘拐なんてして……どうするつもり?」
するとアスターは、狭い地下室内にある椅子に腰をかける。彼が腰をかけた瞬間、椅子がキィと軋んだのが印象的だ。
「ただの仕事だよ」
彼は眼球だけを動かして私を見て、小さな声で答えた。
「……仕事? 貴方は、そんなことを仕事にしているの?」
品のある容姿からは、そんな物騒な内容を仕事にしている人間だとは想像がつかない。
「そうだよ」
「……もったいないわ。貴方みたいな人なら、真っ当な職にだって就けるでしょうに」
「そんな風に言っていただけるとは、光栄だ。ま、無理なのだがね」
さりげなく、ばっさりと否定されてしまった。
「普通の家に生まれ、普通に育っていっていたなら、真っ当な職に就けた可能性もあったかもしれないが……なんせ、色々複雑だったのでね」
「でしょうね。王女を誘拐、なんて、どう考えても普通じゃないもの」
つい本音を漏らしてしまい、やってしまった、と慌ててアスターへ目を向けた。
機嫌を損ねてしまったら大変だ。私の命に関わるのだから。
しかし、意外にも、アスターは怒りの色を浮かべてはいなかった。それどころか、口元に笑みを湛えている。
「いかにも! 君は正しい」
彼は案外機嫌が良さそうだ。
「せっかくだ、歓迎会といこう。何が良いかね? えぇと……」
椅子から立ち上がったアスターは、黒い布を脱ぎながら、テーブル近くの四角い棚へと向かう。そして振り返る。
「酒は嗜まれるのかね?」
「飲まないわ。というより、まだ飲める年ではないの」
「それは残念だ」
「ごめんなさいね」
「いやいや。何も気にすることはない」
では、とアスターは続ける。
「これはどうかな?」
彼が棚から取り出したのは、透明のビニール袋に入った、綿のような塊。触ると柔らかそうだが……食べ物なのだろうか。
「それは?」
「まさか、知らないのかね? 綿菓子という食べ物なのだが」
その時、ベルンハルトの発言を思い出した。
この前取り逃がした狙撃手に関する情報の中にも、確か、綿菓子が何とかというものがあったような……。
「分かったわ、綿菓子! そういえば、そんな見た目だったわね!」
うっかり明るい声を出してしまった。
これではまるで、ここにいることを楽しんでいるかのようではないか。相手のペースに乗せられないよう、気をつけなくては。
あくまで敵地であるということを、忘れてはならない。
「差し上げよう」
アスターは、綿菓子の入った透明のビニール袋を渡そうとしてくれる。
「……結構よ」
だが私は、そっぽを向いた。
日頃ならこんな態度をとることはしなかっただろう。せっかく渡そうとしてくれているのを拒むなど、申し訳ないから。
しかし、今は別だ。
「な。ほ、本当に要らないのかね?」
「えぇ」
「そうか。お気に召すものがなくて、すまないね」
「……いえ」
この狭い空間に、親しくもない男性と二人というのは、精神的に疲労を感じざるを得ない。が、このくらいで弱っていては王女なんて務まらない。だから私は、己を励まし、気をしっかり持つように心掛けるようにした。
一方アスターはというと、私が受け取らなかった綿菓子の入ったビニール袋を開けつつ、元の椅子へと戻っている。
「アスターさん、あの……」
私は勇気を出して、改めて話しかけてみることにした。
「少し……聞かせてもらっても構わない?」
「ん? 何かね」
彼は綿菓子をつまみながら、私へと視線を向けてくる。その表情から悪さを感じ取ることはできない。やはり、彼が悪人だとは思えなかった。
「私を誘拐するよう、貴方に頼んだ者がいるの?」
「……鋭いね、君は」
いや、べつに鋭くはないと思う。
振る舞いを見ていれば、彼が根っからの悪人でないことは分かる。実際、ここへ来るまでも、もちろん今も、彼はあまり乱暴な手段を使おうとはしなかった。真に悪人であるならば、私を丁寧に扱ったりはしないはずだ。
「やっぱり。それは誰なの?」
「残念ながら、それをお教えすることはできない。依頼主との契約違反になるからね。それに……私はあまり口の軽い男ではなくてね」
「……真面目なのね」
「いいや、そうではない。普通なのだよ、これが」
綿菓子を口に含みつつ述べるアスター。彼の表情には、暗い影がまとわりついているように見えた。本当はこんな仕事をすることを望んでいないのかもしれない。見た者をそんな風に考えさせるような、複雑な顔つきをしている。
「私のような仕事は、口が固くなければやっていけないのでね」
「そう……大変ね」
——大変?
言った後で、私は不思議に思った。
目の前の男性に対し、憐憫の情を抱いてしまっている私がいる。そのことに戸惑ってしまったのだ。
そんな風に、一人戸惑いの波に飲まれかけている私へ、アスターは声をかけてくる。
「……それにしても、調子が狂うのだが」
彼はまだ綿菓子を食べている。だが、先ほどまでは存在した暗い影は、その顔から消えていた。
「どうして?」
「普通は、もっと逃げようとしたり暴れたりするものなのだが、君は大人しい。しかも、一日も経っていないにもかかわらず、ここに馴染んでいる」
馴染んでなんかないわよ。
そう言ってやりたい衝動を抑えつつ、アスターの顔へ視線を注ぐ。
するとアスターは、目を数回ぱちぱちさせた後、困ったような顔つきになる。
「……な、何かね?」
どこかあどけなさの残る、困惑したような顔。微かに恥じらいを感じさせるそれは、少年みたいな雰囲気を醸し出している。
可愛らしいことは可愛らしいのだが、初老の男性には少しばかり似合わない……かもしれない。
「アスターさん、もし良かったらなのだけど」
やはり、彼を完全な悪人と思うことはできない。そこで、思いきって説得してみることにしたのだ。
「私の依頼も……受けてくれない?」
馬鹿だと笑われるかもしれないけれど。




