時計技師と農村の夫婦
朝から晩まで時計の修理屋として働くウィルフレッドは、10年前に年配の男に雇われた。彼に子供は居なく、この店を継ぐ者を探していた時に、当時9歳だったウィルフレッドは「仕事があるならなんでもする」と力強く応えたのが経緯だ。今日まで住み込みで働き、息子のように育てられたと思う。もちろん、厳しく仕事を教えられたが明日の食事に事欠かないで済んだのは、感謝すべきだろう。
仕掛け時計の修理と言う大きな仕事を終えた今日、半日の暇をくれた。
「つーこと急に言われてもな」
自分の店を出て街を歩いてみたものの、特別することなんてない。花売りの娘に話しかけても向こうは仕事だし、冷たく追い返されるだけだと思い、ふらふら歩いているとベンチから聞き覚えのある鼻歌を紡ぐ女性が座っていた。それは多分……10年ほど前に住んでいた孤児院のーー
まさか!
「ら、ライア姉?!」
数年会わない間に、すっかり大人になり見違えたとウィルフレッドは声をかけたものの思った。だけど、その歌が何よりも本人だと証ししている。
見違えたというのは、ライアと呼ばれた女性も同じようで、瞬きして数秒。あの少年だった彼が今では青年の仲間入りになった姿に驚いていた。
「もしかして、ウィル?」
「そうだよ。……良かった。覚えてくれてたみたいで」
少しだけ冗談混じりにふざけて笑うと、ライアは「忘れるわけないでしょ」と微笑んだ。それから、まるで子供の成長を喜ぶ母親のような目を向けて「ねぇ、私の背なんて越しちゃったんじゃない?」と言いながら立ち上がろうとした。けれどお腹に小さな命がいるので、ちょっと重たそうに。
「ほら、やっぱり! 本当に大きくなったね」
手を使って自分の背丈とウィルフレッドの背丈を比べて、とても嬉しそうに笑っている中、彼は別の事で戸惑っているみたいだった。誰がどう見たって、お腹が大きくなっているのは一目瞭然。
「なぁ、ライア姉。まさか、……子供できたの?!」
「うん。今日は安定してるから街に遊びに来たの。触ってみる?」
「あ、あぁ。……動いた」
「もうすぐ出きたいみたいだから、すごく元気なの」
「へぇー、……ってそうじゃなくてさ!」
「なに?」
きょとんとするライアに、ウィルフレッドは訊いていいものか悩んだ。父親は誰なんだと。ライアのことだから、娼婦になるはずないし、今の雰囲気だってあの頃のまま。見た目だって娼婦には全く見えない。あいつらは服装や瞳の鮮やかさで良くわかる。何より、子供ができて困惑してない様子だ。むしろ、鼻歌を歌ってしまうほど幸せそうにしている。
孤児院育ちの子に父親や母親は誰かと訊く者なんて居ないし、子供同士でも自分の親の話なんて滅多にしないくらいタブーだった。ライアに下手に訊いて「父親は居ない。私一人で育てるの」と答えが返ってきたら、多分聞いたことを後悔するとウィルフレッドは考えた。だけどだからと言って、確かめないのも少し不安だった。
「……あのさ、水を差すようで悪いんだけど訊いていいか? その子の……」
「お父さんは誰かってこと? ウィルも知ってる人よ」
不安を他所にライアは明るく答えた。それどころから逆に問題を出されてしまうくらいに。
「俺も知ってる人?」
真っ先に浮かんだのは、フロンだ。孤児院に居た時に、ライアが好きだったのはフロンくらいだとウィルフレッドは考える。だけど、あいつはライアと何処と無く距離を取ってたし、最後はライアを残して孤児院を出ていった奴だ。また会えるなんて思えないし、あのフロン兄がね。とは言っても、ライアが別の男を好きになる上に、ウィルフレッドも知ってる人なんているだろうか。
「時間切れね。来たみたい」
唸っていると、ライアは顔を上げて何処からやって来た男に微笑んだ。小さな紙袋からは焼きたてのパンの匂いが漂っている。
「座ってなくて良かったのか?」
「うん。へーき。話してたらついね」
「話してた? あ、そこの……って、お前、ウィルフレッドか?」
ガサゴソと紙袋から取り出したパンを落としそうになった。
「……………ウソ、だろ……? なんでフロン兄が此処に居るんだよ!? あっ、ま、まま、まさかっ! 父親がフロン兄とか言うんじゃないだろうな?!」
「ふふ」
しかし、それ以上に驚いていたのはウィルフレッドの方だ。フロンがライアの気持ちを知ろうとしないまま孤児院を出ていったのをウィルフレッドは目の当たりにしていた。いつか迎えに行くと言った約束も、たまに顔を出すと言った言葉さえ無かった。
「フロン兄は、ライア姉のこと捨てたくせに……っ!なのに今さら、なんだよっ!」
驚きは、怒りへと変わってフロンに直接向けられた。
「ウィル。フロンは捨てたわけでもないって言ったでしょ。確かに会わなかったけど、孤児院を守ってくれてたじゃない」
「そうじゃない! そんなことは分かってる! 俺が言いたいのはっ!フロン兄だって」
叫んだけれどそれ以上は言葉にならなかった。
あの時から2人は多分、好き合ってたとウィルフレッドは思う。フロン兄だって、ライア姉のことを好きそうだったのに、近づこうとしないでむしろ離れてばかりいた。ライア姉はそれでも構わないって我慢して、フロン兄はそんなライア姉の思いに漬け込んで甘えて、仕舞いには曖昧な関係も、望みも全部捨て去ったくせに。
「今さら遅せぇよ! ライア姉と一緒になる気が無いから出ていたったんだろ?! 」
「……あぁ。虫がよすぎるって自分でも思うよ。あの時は確かに、ライアと2度と会う気なんてなかったし、ライアから逃げた」
どうしようもない歯がゆさをかかえフロンを睨むと、フロンは言い訳ぜすに目をそらさずにウィルフレッドを見つめ返した。
本当はウィルフレッドだって分かってるはずだ。ライアがフロンをずっと好きで、そのフロンと夫婦になれた今が幸せだってことを。
「時間がかかったけど、僕の人生にライアが隣りに居なきゃだめだって、やっと分かったんだ」
「……っ、そんなこと、俺はもっと前から思ってたよ。ライア姉を守れるのも、幸せにできるのもフロン兄しか居ねぇって。俺たち弟は力不足だし、どうやったてライア姉の弟にしかなれない……。フロン兄だって、ライア姉を大切にしてたくせに、何考えてるのか孤児院を出ていくし。……だぁあー!!もっと早く好きだって気づけよな!!」
ライアはその横で、懐かしそうに笑う。
「いろいろあったね。だけど、離れてたからこそ今があるんだと思う。私は遠回りしたからこそフロンとより一層幸せになれたと思うの」
妹や弟たちのために何よりも頑張ってきたお母さん兼姉。幸せになって欲しいと思っていたそのライアが、フロンと一緒に居ることを選んだんなら、もはやウィルフレッドは口出しなんてもうできるわけがない。もう会えないと分かってても彼女は想い続けていたのが、こうして叶ったのだから。
だったら、しかたない。良いことじゃないか。
負けを認めたウィルフレッドは、気分を切り替え深呼吸一つして笑った。
「おめでとう、ライア姉」
それから、まだ見ぬ小さな赤ん坊も。
「末永くお幸せに」