第1話 婚約破棄されました。
「ルチア、婚約を破棄するね」
ヴァニシオンの台詞に、ルチアは言葉を失った。
まるで、書き損じた紙は捨てておいたよ、と言わんばかりの親切で優しい声音。それによって、ルチアの地位はあっけなく無くなったのだ。ヴァニシオンの執務室に沈黙が訪れる。
薄々、感じてきた気配が形となったことに、ルチアの胸の内で仄暗い光が灯った。悲しいはずなのに、婚約者という身分から解放されたことの方が気持ちとしては大きかったからだ。同時に、安堵してしまったことへの罪悪感が、ルチアの唇を強く噛みしめる結果となった。
ルチア・スターレットは、フィクト国第一王子、ヴァニシオンの婚約者だった。出会いは幼少期のころにまでさかのぼる。
伯爵家の令嬢として生まれたが、身体が弱く、いつも本ばかり読んでいた。そんな深窓の令嬢だったルチアに、ヴァニシオンは花を届け、本を贈り、時には話し相手にもなった。
遊びたい盛りの男の子に申し訳ない――ルチアは、幼いながらに思っていたが、ヴァニシオンは「ルチアといるときだけが、僕は一番心が休まるんだ」と微笑んでくれた。
――ずっと、一緒にいてくれる?
――うん! 僕、ルチアのことが大好きだから、ずっと一緒にいるよ!
遠い、遠い、幼いころの約束。
そんな彼だからこそ、ルチアも心から惹かれ、愛おしいと感じ、やがて王妃として支えたいと願うようになった。
ところが、次第にその距離は離れていった。
蕩けてしまいそうな熱い眼差しは、いつしか心を閉ざすように冷たく濁って、日に日に足が遠のいていく。
ルチアは、何がいけないのかと、懸命にマナーや知識を身体に叩き込み、心だけでも強くあろうと決意を固めていた。
さらに年を重ねるにつれて、健康体になり、デビュタントの日にはヴァニシオンと踊ることもできた。
身も心も彼にふさわしい女性になれたとばかり思っていたのに、ヴァニシオンの心は再びルチアに向くことはなかった。
そして、今日、とうとうその理由が明かされる。
「……理由をお尋ねしても?」
「理由? そんなの君からの紙束に決まってるじゃないか」
バサリとヴァニシオンの机の上に置かれたのは、ルチアが考えた行政改革案だった。
フィクト国は、民に対する税金が他国よりも重い。だからこそ、少しでも国を良くするべきだとヴァニシオンに幾度も進言をしていたのだ。
「本来、君の立場は、僕の婚約者だけだ。いつから文官や宰相になったのさ。前から思っていたけれど、この国じゃ意味ないから。王子の僕に文句言わないでよ」
机を指で叩きながら、苛立ちを露わにする。頬のあたりで切りそろえた金糸の髪を揺らして、彼は大きなため息をついた。
幼い頃から見慣れているはずなのに、ヴァニシオンは今でも、おとぎ話に出てくる王子様そのものに見える。サファイアの瞳を縁取る長いまつげに、色白な肌と整えられた鼻梁は、どんな淑女も惚れ惚れしてしまうくらい麗しい。でも、そんな美貌を損ねるようなことをしてしまったと、ルチアの胸に小さなトゲが刺さった。
けれど、間違ったことはしていない。そう、感じるほどにルチアは、改革を推し進めたかった。
「殿下。この国の民は限界です。次期国王である貴方がどうにかしないと!」
「……ルチア。二度も、同じことを言わせないで。王子である僕に文句を言うな。それと、これは婚約破棄の証書。スターレット家に書いてもらったから」
一枚の紙が投げ出される。そこには、両親のサインが書き添えられていた。
(どうして……)
ルチアの意思を確認することなく両親が承諾したとは思えなかった。
父も母も愛情深く育ててくれた。ヴァニシオンとの関係も昔は良好で、温かく家に迎え入れてくれていたはず――。ルチアは、その両親にまで、ヴァニシオンは冷めた目つきでこれを突き付けたのかと思うと、急に彼が別の生き物に見えた。
「これで、ここでの話は終わり。ルチア、家に帰っていいよ」
「えっ」
業務報告は済んだ、と言わんばかりにヴァニシオンは机に肘をつけて目を伏せる。
久方ぶりに会ったというのに、ものの数分で終わってしまった。しかも、婚約破棄という国の将来にまで関わる重大な事項に、ルチアは一言も口を挟ませてもらえなかった。
これでは“玩具”と同じだ。
幼いころは大切な宝物のように思っていたのに、大人になったら飽きて捨てる。ヴァニシオンにとって、ルチアはその程度の価値だったのだ。いらなくなったものは見たくないとばかりに顔を背けるヴァニシオンの仕草に、憎しみを覚えた。
「……わかりました」
文句の一つでも言ってやりたい気持ちを手で握りつぶす。
手のひらに爪が食い込むほどの激しい怒りを視線に変えて、ヴァニシオンにぶつける。
だが、ヴァニシオンは深くため息を吐いたあと、ゆっくりと席を離れて、窓際に向かった。その後ろ姿からは拒絶の色しか見えず、ルチアの怒りは空回りに終わる。
「っ、失礼します!」
無作法と罵られてもおかしくない勢いで、ドアを開けて大きな音を立てて閉める。
これくらいやってもいいだろう。そんな気持ちが、ルチアの目から涙となって零れ落ちた。
(――バカ、バカ、バカ! もう知らない。殿下なんて、勝手にすればいいんだわ!)
涙を流すのはこれっきりにしよう。
ルチアは、大きく鼻を鳴らして目を強くこすると、ぼやけた視界が次第にはっきりと浮かび上がる。
あの約束を心のどこかで信じていた、幼い自分に別れを告げて、ルチアは歩き出した。
けれど、帰る場所はどこにもなかった。
「お嬢様!」
家に戻れば、次々と家具が外に運び出されていく。
馬車を降りて唖然としていると、メイドのジーナがトランクを一つ抱えて駆け寄ってきた。
「お嬢様! 早く逃げましょう!」
降りたばかりの馬車にトランクと一緒に押し込まれて、ルチアは目を白黒させる。
「えっ、一体、どういう――?」
「スターレット家が潰されました!」
「はぁっ!?」
理由を尋ねる時間すらルチアは与えられず、ジーナは御者に行き先を伝えてから、一緒に乗り込んでくる。
そして馬車は猛然と走り出した。




