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底無様(上)

怪異は、意識すれば存在し、そして招くものだそうです。

貴方はどんな怖いものがお好きですか?

 蒼を救う――などと口にするだけなら、それは安っぽい決意表明にすぎない。現実はどこまでも地味で、そして孤独だった。


 あの日以来、僕の生活は一変した。大学の講義と研究室での実験、その合間のすべての時間を怪談や都市伝説、民話の渉猟に費やしていた。大学の図書館に籠り、郷土史のページをめくる。深夜には、ネットの海を漂い、真偽不明のオカルト掲示板の過去ログを漁り続ける。


 僕がやっていることは、もはや科学ではないのかもしれない。客観性も、再現性も、検証可能性もない、ただの伝聞の集積。だが、未知の現象を前にした時、まず過去の報文を渉猟するのは、研究者としての当然の作法だった。僕にとって、怪談とは、科学以前の時代に書かれた、定性的な報告書に他ならなかったのだ。



「水」「淀み」「髪」「引きずり込む」「女」。


 検索窓に打ち込むキーワードは、多少の違いはあっても大筋ではいつも同じだ。そして、ヒットする膨大な情報の中から、僕はいくつかの共通項を見出しつつあった。


 その一つに、「井戸」の存在が挙げられる。


 古今東西、水にまつわる怪談の中で、井戸の登場頻度は突出して高い。考えてみれば当然だった。井戸とは、生活のまさに中心にありながら、同時に、地下深くの暗闇へと繋がる異界の入り口でもある。そして何より、僕の仮説に照らし合わせれば、これほど完璧な環境はなかった。

 光の届かない、閉ざされた水域。長い年月をかけて、落ち葉や虫の死骸、あるいは人々の生活から染み出した何かが、その水中に蓄積されていく。それは、いわば人工的に作られた、小規模な暗渠だ。熟成され、凝縮された培養液。


 ここで起こる現象を分析できれば、美泥渕の謎にも迫れるかもしれない。そして、蒼を救うための、何らかの手がかりが掴めるかもしれない。


 そんな考えに没頭していた僕のスマートフォンが、けたたましく振動した。ディスプレイに表示された名前に、僕は少しだけ眉をひそめる。高木だった。


「よう、生きてるか? ちょっと相談があるんだけどさ」


 電話の向こうの高木の第一声は、相変わらず能天気だった。あの夜の恐怖など、とうに忘却の彼方らしい。羨ましい限りだ。


「相談?」

「おう。今、週末で田舎のばあちゃんちに来てんだけどさ。蔵の片付け、手伝わされてて。そしたら、庭の隅に変な古井戸が出てきたんだよ」


 井戸。

 その言葉に、僕の心臓がどきりと跳ねた。


「なんかさ、木の蓋にボロボロの御札とか貼ってあんだよ。親戚の爺さんとかも『昔から開けちゃなんねえって言われてる』とか言ってて、気味悪いんだわ」


 高木は、心底うんざりしたように言った。


「でさ、お前、最近そういうの調べてるんだろ? 民俗学的な? とにかく、なんか詳しそうじゃん。だから、ちょっと見に来てくんねえかなって。まあ、話のタネにさ」


 偶然、という言葉で片付けるには、出来すぎたタイミングだった。まるで、僕が井戸の情報を求めていることを知っていて、向こうから現れたかのようだ。断る理由など、あるはずもなかった。


「……わかった。行く。場所を教えてくれ」

「お、マジで!? 助かるわー!」


 これは、単なる肝試しではない。僕にとって、初めての本格的な現地調査(フィールドワーク)だ。僕は、蒼にはこの件を知らせないよう高木に固く釘を刺し、電話を切った。彼女を、これ以上危険な領域に引き込みたくはなかった。




 週末、僕は高木に指定された住所へと向かった。これから向かうのは心霊スポットのはずだが、僕の背中のバックパックの中身は、環境調査か地質調査にでも行くかのようだった。

 いつもの教科書やノートパソコンの代わりに詰め込まれているのは、この日のために用意した調査機材だ。

 まずは、pHや全有機炭素、溶存酸素量を簡易的に測定できる水質調査キット。

 次に、高感度ステレオマイクと、人間の可聴域を超えた周波数帯まで記録できるリニアPCMレコーダー。

 暗闇を白日の下に晒す、最大輝度1000ルーメンの高照度LEDライト。

 念のための安全装備として、クライミング用のロープと、厚手の革製グローブ。

 そして、採取したサンプルを適切に持ち帰るための、滅菌済みのバイアル瓶を数本。

 我ながら、どうかしていると思う。だが、僕がこれから行うのは、オカルトではなく、あくまで未知の現象の観測と記録だ。今の僕にできるのは、ただ、ありのままを記録することだけだった。




 電車とバスを乗り継ぎ、辿り着いたのは、携帯電話の電波もかろうじて一本立つかどうかの、山間の集落だった。バス停で待っていた高木の車に乗り、さらに数分。彼の祖母の家だという、立派な古民家が見えてきた。


「ここ?」

「おう。まあ、今は誰も住んでねえんだけどな」


 茅葺屋根は崩れかけ、庭には夏の光を受けて、背の高い雑草が所狭しと生い茂っている。人の営みが消えて久しい、静かな時間が流れている場所だった。僕たちは、家の裏手へと回り込む。



 そして、それはあった。


 庭の隅。巨大な桜の古木の根元に、それは苔むした姿で鎮座していた。

 石造りの、円い井戸枠。直径は80センチほどだろうか。その上には、雨風に晒されて黒く変色した分厚い木の蓋が置かれ、さらにその中央には、千切れかけた注連縄しめなわのようなものがかけられ、文字の判読すら難しい。そのしめ縄の下には、赤黒い染みがついた紙――御札が、辛うじて貼り付いている。


 井戸の周りだけ、空気が違う。まとわりつくような湿り気。カビと苔が混じり合った、むっとするような匂い。そして、その奥に、微かに、しかし確実に存在する腐敗臭。


 美泥渕と同じ匂いだ。僕はそう感じた。


「……これか」

「おう。やべえだろ? なんか、じっとりしてて気持ち悪ぃんだよ」


 高木が、少し離れた場所から顔をしかめて言った。

 僕は、バックパックを降ろし、ゆっくりと井戸に近づいた。御札は、長い年月でその力を失っているのか、あるいは、内側から漏れ出す何かによって、その意味をなくしているのか。


 僕は、これからこの暗闇の底を覗かなければならない。蒼を救うために。

 知的好奇心と、恋人を救うという使命感。そして、自分の命が脅かされるかもしれないという、原始的な恐怖。それらがごちゃ混ぜになった、奇妙な高揚感を覚えながら、僕は分厚い木の蓋に、そっと指をかけた。


「おい、やめとけって。今日は見るだけにしとけよ」


 高木の、珍しく本気の制止の声が飛ぶ。

 僕はその声に、息を詰め、ごくりと唾を飲み込んだ。その音が、異様に大きく響いた気がした。


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