濡羽髪
何かに対応するには、まず文献調査やフィールドワークが大事です。
怪異にもたぶんきっとそうだと思います。
「今日、ウチ来ない? 面白いドキュメンタリー見つけた」
恋人である蒼からのメッセージは、いつもと変わらない、屈託のない響きを持っていた。あの夏の夜、僕たちが美泥渕へ足を踏み入れてから、既に数日が経過していた。僕の脳裏には、いまだにあの淀んだ水面の光景と、彼女の手を洗い流した時の泥の感触が焼き付いている。だが、それはあくまで僕個人の、主観的な恐怖に過ぎないはずだった。
彼女の様子を確かめたい、という気持ちは、あった。それが恋人としての純粋な心配からか、あるいは僕の立てた突飛な仮説を検証したいという研究者の悪癖からか、判断がつかないまま、僕は彼女のアパートへと向かった。
蒼のアパートは、大学から歩いて十分ほどの距離にある、ごく普通のワンルームだった。
彼女の趣味で集められた、少し不気味な民芸品や古書が並んでいることを除けば、何の変哲もない女子大生の部屋だ。
「やっほー、よく来たね」
ドアを開けた蒼は、いつもと変わらない笑顔で僕を迎えた。部屋着のスウェット姿で、髪は無造作にまとめられている。その顔色に、特に変わった様子は見受けられない。
「面白いドキュメンタリーって?」
「んー? それは後のお楽しみ。とりあえず、なんか飲む?」
「じゃあ、お茶でも」
言いながら、僕は部屋の中を見渡した。そして、すぐに小さな違和感に気づく。テーブルの上に、空になった天然水のペットボトルが三本も置かれているのだ。それも二リットルのものだ。 そう思っていると、蒼は冷蔵庫から新しいペットボトルを取り出し、その場で半分ほど一気に飲み干した。
「最近すごく喉が渇くんだよね。夏バテかなあ」
そう言って、その飲みっぷりは、ひび割れた大地が水をむさぼるようで、見ていてどこか不安を掻き立てられる。
彼女は、時折ぼんやりと宙を見つめることがあった。僕が何かを話しかけても、一瞬、反応が遅れる。僕がそのことを指摘すると、「え? そうかな? 寝不足かも」と、曖昧に笑って誤魔化すだけだった。
気のせいか? 夏の疲れ。クーラーによる乾燥。考えられる合理的要因は、いくらでもある。僕の考えすぎだ。そう自分に言い聞かせようとした、その時だった。
「あ、悪いんだけど、手、洗ってきてくれる? さっきまでポテチ食べてたから」
「ああ、わかった」
僕は頷き、部屋の奥にある洗面所へと向かった。清潔に整えられた、小さな空間だ。
その、極めてありふれた光景の、中心。白い陶器の洗面台の、その排水溝に、僕は「それ」を見つけてしまった。
黒く、長い髪の毛が、数本。金属製の受け皿に、ぬめりと絡みついている。蒼の髪は、肩につかないくらいのボブスタイルだ。そして、その色は、光に透けるような明るい茶色。目の前にある、腰まで届きそうなほど長く、濡羽色のように黒々とした髪は、断じて彼女のものであるはずがなかった。
「……蒼」
僕は、自分でも驚くほど低い声で、彼女を呼んだ。
「んー? どうしたの?」
「いや……この髪、誰かの?」
「ああ、それね……わかんないや」
リビングから聞こえてきた彼女の声は、信じられないほど、平坦だった。
「昨日、掃除したんだけどね。またあった。おかしいよね」
おかしい、という言葉の響きに、危機感は一切含まれていなかった。まるで、道端で見つけた面白い形の石について語るような、そんな口調だ。その、奇妙なまでの無関心さが、僕の背筋をぞっとさせた。 僕は、近くにあったティッシュペーパーを数枚重ねて、その髪の毛を慎重に摘み上げた。指先に伝わる、ぬめりとした感触。それは、ただ濡れているだけではない。
まるで、それ自体が水分を過剰に含んだ、まるで体温すら感じられるような、異様な柔らかさ。そして、ティッシュ越しにすら、微かに鼻をつく匂い。――あの美泥渕で嗅いだ、腐敗臭だ。
僕は、その髪をティッシュに厳重に包み、ゴミ箱へと叩き込んだ。
例のドキュメンタリーは、南米の少数民族が信じる、水に宿る精霊についての番組だった。それを、どんな気持ちで見ればいいのか、僕にはわからなかった。蒼は時々、楽しそうに解説を加えてくるが、その内容はほとんど僕の頭を通り抜けていく。
僕の意識は、洗面所のあの髪の毛と、蒼の些細な異変に、完全に囚われていた。
部屋の空気が、妙に湿っぽい気がする。加湿器は動いていない。窓も閉まっている。だというのに、肌にまとわりつくような、じっとりとした湿度。
やがて、ドキュメンタリーが終わり、蒼は「ちょっとシャワー浴びてくるね」と言って、バスルームに消えた。
一人残された僕は、まるで何かに導かれるように、再び洗面所へと向かった。
そして、見てしまった。
ありえない。そんな言葉では、生ぬるい。つい三十分ほど前に僕が完全に取り除いたはずの、あの排水溝に。またしても、黒く、長い髪の毛が、三本。まるで、排水溝の奥深くから、ゆっくりと、しかし確実に「生えて」きたかのように、そこに存在していたのだ。
息を呑み、顔を上げた、その瞬間だった。洗面台の鏡に映っているのは、僕一人ではなかった。
僕のすぐ後ろ。その肩越しに、黒い髪をだらりと垂らした、ずぶ濡れの女が立っていたのだ。顔は、長い前髪に隠れて見えない。ただ、その存在そのものから、あの美泥渕と同じ、淀んだ水の匂いが立ち上っている。
僕は、心臓が凍りつくのを感じた。声も出ない。振り返ることすらできない。
女は、何も言わない。ただそこに、いる。鏡の中の女は、ゆっくりと顔を上げ始めた。その髪の隙間から覗く肌は、人間のものではない、土気色をしていた。 反射的に目を閉じ、再び開いた。
鏡には、青ざめた顔の僕が一人で映っているだけだった。だが、背後にまとわりつく冷気と、鼻の奥に残る腐敗臭は、今見たものが幻覚ではないと、雄弁に物語っていた。
これはもう、ただの偶然ではありえない。 陰鬱で湿った予感が僕の脳裏を掠めた。
「お待たせー。どうかしたの? 難しい顔して」
バスローブ姿の蒼が、不思議そうに僕の顔を覗き込む。その肌からかすかに、あの匂いが立ち上るように感じたのは気のせい、ではない気がした。
僕は、喉まで出かかった悲鳴を、理性の最後の力で飲み込んだ。
「いや、何でもない。面白いドキュメンタリーだったな」
平静を装う。ここで僕がパニックに陥ることは、おそらく、相手の思う壺だ。 僕は、彼女に気づかれないように、固く拳を握りしめた。
蒼のアパートを後にして、僕はまっすぐ大学の研究室へと戻っていた。深夜の研究室は、静かだった。
恒温槽のモーター音だけが、やけに大きく鼓膜を揺らす。まだ、彼女の部屋に満ちていた、あの不自然な湿り気と、排水溝の奥から漂う腐敗臭が、まだ身体にまとわりついている気がしてならなかった。
僕は、無意識に培養機の中を覗き込んだ。シャーレの中では、栄養分が豊富なピンク色の液体培地の中で、僕の研究対象である細胞たちが、静かに分裂し、増殖している。
生命のスープ。美泥渕を前にして僕の脳裏にそんな言葉が浮かんだ。
その言葉は今、おぞましいまでの現実味を帯びて目の前にある。あの渕もまた、巨大な培養槽だ。そして、蒼は、その忌まわしい何かを運ぶための、生きた培地にされてしまった。
彼女の体を媒介にして、新たな拠点を築き、増殖する。あの髪の毛や、先ほどの幻影は、その最初の兆候に過ぎない。
だとしたら、これからどうなる? 彼女は、どうなってしまうんだ? 非科学的な妄想だと、笑い飛ばすことは、もうできない。僕がこれから対峙するのは、科学というフレームワークの外側に存在する、まぎれもない現実だ。
――僕は、この日、戦うことを決意した。
それは『世界の真理の解明』なんて大それたものじゃない。ただ一人、蒼を救う。
それだけが、僕のすべてとなった。
調べなきゃいけない。まずは、敵のことを。
過去の類似事例を調べる必要がある。
水にまつわる怪談、特に井戸や沼といった、閉鎖水域の伝承を、片っ端から。




