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エピローグ


 季節は巡り、あの猛威を振るった夏は、今や遠い記憶の彼方に沈んでいた。


 木々の葉は、赤や黄色にその色を変え、冷たい風が、僕の頬を撫でていく。

 僕の部屋の、小さなテーブルを挟んで、蒼が、静かに微笑んでいた。


「面白いね、これ」


 彼女が指さしたのは、テーブルの上に置かれた、小さな苔玉だった。僕が最近、何となく部屋に置くようになったものだ。


「そうか?」

「うん。見てると、落ち着く」


 そう言って、彼女は、温かい紅茶の入ったマグカップを、両手でそっと包み込んだ。

 蒼は、僕の知っている蒼に戻った。

 ほとんど、完全に。


 あの夏の記憶を、彼女は、ひどく重い病を患っていたかのように、曖昧にしか覚えていない。

 僕も、本当のことは話していない。ただ、疲れが溜まって体調を崩していたのだろうということにしている。それでいい、と僕は思っている。彼女には、二度とあの深淵を覗き込んで欲しくない。


 僕の最後の仮説は、どうやら間違っていなかったらしい。

 美泥渕にあった首無し地蔵に宿る核を鎮めたことで、彼女の中に潜んでいたそれは、数日かけて、ゆっくりと死滅していった。

 それは、高熱と悪夢にうなされる、ひどい数日間だったが、ある朝、彼女が目を覚ました時、その肌を覆っていた不自然な湿り気も、部屋に満ちていた腐敗臭も、そして纏わりついていた呪いのマーキングも、嘘のように消え失せていた。


 彼女の身体から、水哀霊は消えたのだ。



 それでも、蛇口から流れ落ちる一滴に、雨に濡れたアスファルトに、そして目の前の蒼が飲む、湯気の立つ紅茶の中にすら、僕は、生命と死と、行き場のない哀しみを見る。


 水は、万物を流し去る。記憶も、時間も、そして魂までも。それは、癒しであると同時に、終わりでもあった。


 僕の戦いは、終わった。

 ハッピーエンドのはずだ。


 だが、世界には、まだ、名前のついていない美泥渕が、無数に存在するのだろう。

 僕が気づいていないだけで、すぐ隣に、昏い口を開けているのかもしれない。


「……どうかした?」


 僕が黙り込んでいるのに気づいて、蒼が、不思議そうに顔を上げた。


「いや、何でもない」


 僕は、そう言って微笑み返す。

 彼女が、僕の手の上に、そっと自分の手を重ねた。

 その手は、温かかった。あの夏に感じた、不自然な冷たさはない。


「寒いね」


 彼女は言った。


「温かいお茶、おかわり淹れるね」


 僕は、ただ、頷いた。

 彼女が立ち上がり、キッチンへと向かう。

 僕たちの目の前で、カップに少し残された紅茶の湯気だけが、静かに、立ち上っていた。


 ――その、湯気の中に。


 ほんの、一瞬。

 微かに、あの美泥渕の、甘い腐敗臭が混じった、気がした。


 僕は、息を呑んだ。……気のせい、だろうか。

 トラウマが見せる幻臭――きっと、そうに違いない。

 そうに決まっている。


 蒼は、もう大丈夫なはずだ。

 僕は、そう信じている。


 だけれども、僕は、もう二度と、ただの水を、信じることができない。


 戻ってきた蒼が、新しい紅茶の入ったガラスポットを、僕の目の前にそっと置いた。

 その、あまりにも穏やかな音だけが、静かな部屋に響いていた。

最後まで読んでいただき、誠に有難うございました。

暑い毎日が続きますが、皆様どうぞご自愛ください。


くれぐれも、暑さを避けて水辺に肝試しにいこう、などとは思いませんよう。

そこには、彼らがいるかもしれませんから。

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