表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/11

美泥渕

ホラーイベントのテーマが水、ということで書いてみました。

プロットを練ったところ纏めるのが難しくなってしまったので、10話構成の中編としてみました。

今日から毎日、完結まで更新しますので宜しくお願いします。



「なあ、本気で行くのか? この時間から」


 その問いは、僕が発した瞬間に意味を失っていた。目の前で、空になったメガジョッキを掲げる恋人―― (あお)の瞳が、僕の言葉を否定し、反論を許さず、有無を言わせぬままに肯定していたからだ。


 安い居酒屋の、安いアルコールで上機嫌になった人間ほど、扱いにくい生き物もそうはいない。ましてや、その行き着く先が肝試しとあっては、もはや正気の沙汰ではない。いや、正気と狂気の境界線なんて、アルコールの血中濃度次第でいくらでも曖昧となる。彼女たちは極めて正常に狂っている、とでも言えば適切だろうか。


「当たり前じゃない。私が行くって言ったら、それはもう決定事項なの。有言実行、蒼言実行だよ」


「そんな故事成語はないと思うけどね。大体、そのエモさのベクトルが問題なんだ」


「ベクトルなんて、後からどうとでもなるって! ね、高木!」


「おうよ! 後悔と肝試しは、いつだって先に済ませておくもんだ!」


 サークルのリーダー格である高木が、まるで世界の真理を喝破したかのように言い切る。その単純さが、僕は時々、本気で羨ましくなる。彼の周りでは数人の男女が、「やばーい!」だの「ガチで!?」だのと、脊髄反射のように感嘆詞を量産していた。


 医学系の大学院で、日々、細胞という名のミクロな隣人たちと対話している僕にとって、そのマクロなノリは、正直、異文化コミュニケーションの範疇を超えている。


「しかし、美泥渕(みどろがふち)は、その音の響きからしてアウトだろう。美しい、なんて字を当てているのが、逆に悪趣味だ」


「だからいいんじゃない」


 蒼は、まるで必殺技を繰り出すみたいに、そう言った。


 彼女は文学部で民俗学――簡単に言えば、噂話や言い伝えを学問レベルで真顔で研究する、僕とは対極の学問だ――を専攻している。だから、こういういかにもな名前の、いかにもな曰く付きの場所に、抗えない魅力を感じるらしい。女の霊だの、水面の手だの、引きずり込まれるだの。テンプレートのオンパレード。だが、テンプレートとは、それだけ人の心を掴んできたという実績の証明でもある。そして、行方不明者が出ている、というスパイスもまた、彼女の好奇心を過剰に刺激しているようだった。




 心霊現象は、非科学の代名詞とも言える。


 だが、科学とは観測可能な事象を説明するためのフレームワークに過ぎない。ならば、観測はできるが説明ができない現象を、どう呼ぶ?


 僕はそれを、面倒なので、とりあえず「蒼の趣味」と呼ぶことにしている。


「大丈夫だよ、私がついてるって」


「そのセリフが、世界で一番当てにならない保証だってこと、そろそろ自覚してほしいものだけどね」


「えー? ひどーい」


 言いながら、蒼は僕の腕に自分のそれを絡めてきた。伝わってくる体温としなやかな感触。こうなると、僕の負けだ。理屈で彼女に勝てた試しがない。


 僕は天を仰ぎ、この悪夢じみた遠足に、おとなしく参加することを決定した。決定させられた、と言う方が正しい。




 高木のミニバンは、街灯という文明の恩恵を過去の遺物へと追いやる、漆黒の闇の中を突き進んでいた。車内は奇妙な沈黙に支配されている。あれだけ騒いでいた連中が、まるで懺悔の時間とばかりに口を噤んでいるのは、言うまでもなく、車内に侵入してきた異臭のせいだった。


 腐敗臭。


 それは、即ち分解のプロセスだ。有機物が無機物に還元される、生命のサイクルの一環。だというのに、この鼻腔の奥を嬲る悪臭は、サイクルの円環がどこかで断ち切られ、袋小路に迷い込んだかのような、不吉な澱みを感じさせた。


 獣道を歩き続ける。スマートフォンのライトが照らすのは、代わり映えのしない木々の幹と、ぬかるんだ地面だけだ。腕時計で計測を始めてから、既におよそ千秒が経過していた。


 恐怖という感情も、持続するにはエネルギーがいるらしい。単調な暗闇と、鼻腔にこびりつく腐敗臭に、僕の心は恐怖よりも先に「まだ着かないのか」という焦燥感に蝕まれ始めていた。高木や他の連中も、無駄口を叩く気力すら失ったようだった。


 そんな、弛緩しきった空気を切り裂くように。


 不意に視界が開け、例の渕が、その絶望的なまでの存在感を僕たちの眼前に突きつけてきたのだ。


『美泥渕』。美しい泥の渕、とは、随分と詩的な名前を付けたものだ。だが、その美しい名前とは裏腹に、濁った水面は、底冷えのする気配を感じさせる。


 水面は、巨大な生き物の閉じた瞼のようだった。決して開けてはならないタイプの瞼だ。月光をぬらぬらと反射するそれは、透明感などというポジティブな概念を根こそぎ否定している。


 静寂。それは音がない状態を指す言葉だが、ここの静寂は違う。あらゆる音を貪欲に喰らい、消化し、自らの栄養にしているかのような、捕食性の静寂だった。


「うわ……」


 誰かの、あるいは全員の息を呑む音が、その静寂に喰われた。


 僕は、目の前の光景に、研究者としての知的好奇心と、一個の生命体としての原始的な恐怖が、フィフティ・フィフティで混じり合うのを感じていた。いや、訂正しよう。49:51で、恐怖が僅かに上回っていた。


「ほら、やっぱり来てよかったでしょ? すごい雰囲気。本物だよ、これ」


 隣で、蒼だけが恍惚とした表情で囁いた。その神経の図太さには、尊敬を通り越して呆れるしかない。


 その時だ。友人グループの、恐怖を誤魔化したいのか何なのか、最も短慮な男が、足元の石を渕へと投げ込んだ。愚行権の行使、とでも言うべきか。


 音が、死んでいた。


 ぽちゃん、ではない。ぶず、という、粘性の高い液体に抵抗を殺された個体が沈む音。そして、その着水点を中心に、水面の油膜が、まるで巨大なアメーバが触手を伸ばすかのように、ゆっくりと、しかし確実に広がっていく。


「きゃっ!」


 悲鳴は、寸分違わず僕の隣から発せられた。


 蒼だ。ぬかるみに足を取られ、まるで計算されたお約束のように、前のめりに倒れている。


「蒼!」


 僕は咄嗟に駆け寄り、彼女の腕を掴んで引き起こす。両手と膝から下が、あの悍ましい泥水に浸かっていた。


 泥。土と水と、それから無数の微生物の死骸が混じり合った混合物。地球の歴史そのものと言えなくもないが、今この瞬間に限って言えば、ただの汚物だ。それも、特級品の。


「大丈夫か!?」


「うん、ごめん、びっくりした……」


 蒼が、泥にまみれた自分の手を見つめている。


 僕は、思考よりも早く、行動していた。持っていたペットボトルのお茶を、躊躇なく彼女の手にぶっかける。


「ちょ、もったいない!」


「いいから洗って! 破傷風菌! 細菌! ウイルス! この渕が、どんな病原体の培養液になっているか、誰にもわかりはしないだろう!」


 僕は叫んでいた。科学の徒として、合理的なリスクを並べ立てながら。


 だが、本音は違う。もっと原始的で、非論理的な恐怖。あの黒い泥が、蒼という完璧な組成式で構成された存在に、未知の変数を代入してしまうような、そんな冒涜的なイメージに駆られたのだ。僕は、それを許したくなかった。一滴たりとも。






 ――――深夜の研究室。

 一定のリズムを刻む機械音だけが、僕の鼓膜を規則正しく揺らしている。


 僕は、ガラス張りの恒温器――その中でも、細胞を培養するための装置、培養槽インキュベーターの中を覗き込んでいた。シャーレの中では、栄養分が豊富なピンク色の液体培地の中で、僕の研究対象である細胞たちが、静かに分裂し、増殖している。


 生命のスープ。


 その言葉が、美泥渕の光景と同期する。あの淀み。あの腐敗臭。あの粘度。


 なぜ、心霊現象はあのような場所で多発するのか?


 ここで、僕の脳内に、一つの仮説が天啓のように、あるいは悪魔の囁きのように舞い降りた。



 つまり、霊もまた”水が合わなければならない”のだ。



 霊という存在が、もし活動エネルギーを必要とする生命体だとするならば。彼らが求めるのは、清浄な水ではない。アミノ酸、糖、脂質、あらゆる有機物が溶け込んだ、濃厚で、豊潤な、生命の死骸のスープ。それこそが、彼らにとっての最高の環境――極上の培地なのではないか?



 あの美泥渕は、まさしく、巨大な培養槽(インキュベーター)そのものだったのだ。


 ああ、なんて忌々しい。そして、なんて知的好奇心をそそる仮説なんだろう。


 僕は、自分でも気づかないうちに、笑みを浮かべていたらしい。ガラスに映った自分の顔が、ひどく歪んで見えた。




 かくして、僕の地獄よりも愉快で、天国を恋しがるような、自由研究が幕を開けた。


 それが、愛する恋人の身に降りかかる呪いを解くための戦いになるなんて、ヒロイックな動機なんてものは、この時点の僕にはまだ、欠片も存在しなかったのだけれど。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ