32 令嬢は今後の予定を立てる①
昨日寝落ちした後、朝起きて、朝食の席でライラの顔を見たとき、私は昨晩のことを何も話せなかった。
だって、これは私が決めたことだもの。彼女に私の決断の責任を分担させるわけにはいかない。
それに、いつまでもライラに頼りきりではいけないし、これ以上彼女を巻き込むのも良くないわ。ずっと一緒にいられるわけでもないのだから……
***
「薬草に興味があるのか?」
「え!」
午後、一人で部屋で薬草の本を読んでいる時、突然、シズさんの特徴のある声が頭の上から降って来た。
私はその声に驚いて、肩を跳ねさせた。慌てて顔を上げると、いつの間にか窓際に立っている白いフクロウが、感情の読めない赤い瞳で私を凝視している。
私はビックリして、息を呑み、読んでいる本を閉じて、躊躇いながら声を掛ける。
「シズさん、こんにちは」
「シズでいい、堅苦しいのは嫌いだ。君は既に私と同じ、師匠の弟子だ。我々の魔術師の世界では、弟子同士に上下関係は存在しない。ゆえに、我々は対等な立場だ」
対等な立場……それは、まるで初めて知った概念のように思えた。
この身分差の厳しい社会では、貴族は平民より高貴であるとされ、さらに貴族社会の中でも爵位によってランク付けされるのが当たり前だった。平民同士ですら、財産や職業など、暗黙の了解によって自然と序列が決まっていき、誰もその仕組みに疑問を持たない。
家族内としても、性別や継承権、個人の能力、他者との繋がりなど、様々の要素で予め力関係が決められ、何も持っていない私は飾りとして、お父様とお兄様の命令には、逆らう術など持ち合わせていない。
まるで違う世界の扉を開けた気がした。
「……分かりました、シズ。それで、今日いらしている要件は?私の訓練メニューについて、でしょうか?」
「ええ、その通り」
彼は淡々とした声で応じると、ゆっくりと机の上に舞い降りた。
そして、右羽をまるで手のように上げると、その先に緑色の光がゆらめく小さな球体が現れ、瞬く間に膨らみ、一つの箱が机の上にふわりと置かれる。
「君のギルドカード、診断書、そしてこれからの訓練メニューだ」
緊張で指先がわずかに震えながら、私はそっと箱の蓋に手をかけ、ゆっくりと開けた。
ギルドカードは銀製で、名刺サイズのシンプルなカードだ。表面には冒険者登録の際に記入した名前と、冒険者ギルド特有の紋章が刻まれているだけ。
その下には、何枚かの紙が重ねられた診断書が置かれていた。それらを捲り、軽く目を通してみると、一部の内容がよく理解出来ないが、概ね少々痩せているけれども健康な8歳の女の子だと思う。
私は次に、一番重要な訓練メニューへ手を伸ばそうとしたが、その前に、シズが静かに緑色の魔力で構成した実態ある手を一枚の紙を紙束から取り出し、紙面を私の方に少し傾けて、質問する。
「これは君の魔力の器の現在の状態を示すものだ。黒い部分は瘴気に汚染された部分だが、画像から見るに、おおよそ二、三年前に汚染されたものと推測する。心当たりはあるか?」
「え?」
問いかけられた瞬間、私は思わず声を上げた。
生き物が瘴気に当てられた時には、すぐに光属性の魔力で瘴気を浄化する必要がある。もし時間内に浄化できなければ、その生き物は瘴気に汚染され、自我を失い、やがて<変異種>へと堕ちると書物で読んでいた。
それなのに、冒険や戦闘とは無縁の生活を送ってきた私は一体、いつ、どこで、そんなことがあったのだろう? ずっと引き籠もっていた私が、どうして……?
「どうやら、心当たりがないようだな」
シズは私の困惑を察したのか、そのまま話を続けた。
「幸い、瘴気の汚染速度は個人差があり、君は瘴気に対抗する特殊な体質を持っているようだ。瘴気によって器に傷が残っているが、まだ蔓延していないので、この程度なら薬で調養すれば問題なかろう」
彼の冷静な言葉に、私は自分の中の焦りと恐怖が少しやんわりした。
「既に信頼できる薬師に調合を依頼している。薬は後ほど君のもとに届く」
「は、はい……ありがとうございます」
シズはさらに診断書の束から数枚の紙を取り出し、詳細に説明してくれた。
そしてどうやら、私はこの傷が原因で、魔力量の成長が今まで抑えられていた可能性があると指摘された。成長すれば、その傷もだんだん回復するかもしれないが、器にまで浸透された傷の損害を放置されると、それは永久的なものになりかねないとも教えられた。
診断書の説明が一通り終えた後、シズは少し間を置き、可愛い両耳を動かし、ゆっくりと頭を傾けながら、思索するような仕草をする。
そして、魔力の手が紙束から空白のページを取り出すと、ペンを使って、走らせ始めた。
薬の定期的な服用の他に、生活で気をつけるべき食事内容や、日常の注意事項について一つひとつ細かく説明しながら、それを余すことなく記してくれた。
「わかったか?」
「はい、とっても分かりやすい説明で、ありがとうございます」
配慮の行き届いた采配に、私は彼に感謝の眼差しを向ける。
これまで一人で模索していた時とはまるで違う感覚が私に包まれている。不安ながらも真っ暗な中をただ彷徨いっていたような感覚が、今では進むべき方向に道標が飾られ、まだぼんやりとしたものだけれど、少しずつ道筋が見え始めている気がした。
「ふむ、それなら、訓練メニューに移るとしよう」
「はい!」
シズの言葉に、私は緊張しつつも力強く頷いた。さっきのやりとりで、彼が信頼に足る人だと感じたこともあり、どこか安心した気持ちでそう答えた。
だが、そのほっとした安心感は、ほんの一瞬で吹き飛んだ。シズが示された訓練メニューの内容に目を通した瞬間、私は思わず息を呑み、言葉を失ってしまったのだ。




