告解
ここからが【Episode II:機械仕掛けの霧の国】がスタートとなります。
——人と獣を分けるものが何なのかと自問した事がある。
稚拙なわたしではそこに答えを出す事が出来なかったけれど、お爺ちゃん曰く、それは尊厳なのだそうだ。
人が、人として文明を築き上げて来た過程で獲得した普遍的な気高さ・価値・尊さが、『智』によって形を得たものが、同じルーツを持つ集団を纏め上げ、人を獣ではなく人足らしめるのだ、と。
でも、現実というものはそう都合良く出来ていないもので、これらの普遍的な価値観を根底から支える『智』が崩壊してしまうと、人は尊厳を失い獣に堕ちてしまうらしい。
当時のわたしはまだ今よりもなお幼く、そんな哲学的な事を話されても良く分からなかったし、そもそも『智』というものがお爺ちゃんにとって何を指す言葉なのかも、理解できなかった事を覚えている。……でも、今はもう分かってしまった。お爺ちゃんの言葉は正しかった。人は『智』によってでしか、自らの尊厳を守る事が出来ないのだと。
お爺ちゃんは『智』という言葉の定義を『自らの環境を良くする為に物事について考え、行動する事であり、人間が根源的に持つ、そういったより良く生きようとする本能的な衝動から産まれた全てのもの……より分かりやすく言うのであれば、それらは小さい単位では『文化』と呼ばれ、大きくなると『文明』と呼ばれる』と、と言っていた。
お爺ちゃん曰く、文化や文明の全てが後世に残るわけではなく、より良い結果を出したものだけが未来に残るらしい。○○族、○○人、など何らかの名称を持つ特定集団の全ては、こういった独自の『智』を得て、それぞれの時代に適応してきた何かに優れる者達なのだそうだ。
そして、天狼族もその一つらしい。
わたしたちが英雄という言葉を尊ぶのも、英雄としての天狼族に拘るのも、そしてその英雄への衝動を誇りと呼ぶのも、まだ天狼族という名称すらついていなかった時代に、わたしたちの祖先が日々の生活の中で得た成功体験を、より良く生きる為の術として己が同胞に共有してきた結果、天狼族の文化となったからだ、と言っていた。
そうして長い年月を経て体系化された『より良く生きる為の知恵と技術』こそが、人の尊厳を支え、その集団に個性を持たせるのだ、と。
……だけど、お爺ちゃんはいつも言っていた。
“天狼族が——自分達が長い年月を積み上げ、必死に獲得してきたこの『智』というものは、いずれ必ず崩壊するだろう”、と。
“我々は弱く、弱さ故に自らが英雄であった事を忘れ……あまりにも惨めな結末を迎える事になる”、と。
お爺ちゃんは何時も怒っていた。——いや。何か恐ろしい……とても恐ろしい何かに追い立てられるように、いつも焦っていた。
今のわたしなら、お爺ちゃんが何に追い立てられていたか分かる。
お爺ちゃんを追い立てていたのは『本能』という名前の怪物だ。
『智』の崩壊が起きた後に現れる……獣の影だ。
だからこそ、お爺ちゃんはアレほど強い思想に染まってしまったのだろう。善いものだけが人の心を慰める訳ではない。時として『智』の崩壊を防ぐ為に人は、これまで自分達が積み上げてきた尊厳を切り売りしてでも、自分を守ろうとする。
……集団とは所詮、個の集まりである。人は皆、究極的に言えばただの個なのだ。故に自らが危険な状態に陥れば、人は集団ではなく自分を優先しようとする意識が強くなり、集団の輪を乱すようになる。そして、その個の乱れは他の個に伝播し、いずれ大きな波紋となり『智』の崩壊を引き起こすのだ。
——わたしはまだ覚えている。忘れられる訳がない。
天狼族衰退の時代。その中で生きたわたし達は、デネ帝国で日に日に失われて行く自分達の地位に、言いしれようのない恐怖を感じ、大きな不安に震えていた。
少しづつ削がれて行く自尊心が問い掛けてきたのは、今の惨めな自分たちはいったい何者なのか——という問い。……そんな問い掛けに答えの出ない日々を過ごしたわたし達は、少しづつ繰り返された自己矛盾のせいで、自分達のアイデンティティを信じきれないようになっていった。
それでも捨てきれない誇りが、わたし達の魂を歪め、卑屈にし、少しづつ……少しづつ、強い思想に染め上げて行った。
既に過去の栄光でしかない天狼族が英雄だった時代に思いを馳せ、過去の偉人たちの勇姿だけを語らい、その栄光を傘にして、矮小な自尊心を守る為に他の獣人を下に見て、自分達の誇りを貶めながら、自分達の心を慰め続けたのだ。
そう。あの時のわたし達は、狼では無かった。
——あの時のわたし達は、右側の羽だけで空を飛ぼうとする、片翼の鳩だった。
ブックマーク、感想、レビュー、他にも評価していただけると、今後の創作活動の励みになります!
次回から『序幕・前後編』が始まりますので、今後とも読んで頂けると嬉しいです!




