第28話 鎧を脱いで
二十一時四十分。大浴場。
「大浴場の盟約」を結んだ三人のうち、祇園と望陀の姿はない。
ただ一人、湯船に残っているのは、文化委員長・雨城楊子だ。
祇園、望陀と別れてから四十分近く経過している。
先ほど望陀は雨城の入浴を「烏の行水」だと言ったが……実際のところ、彼女は長い時間をかけて湯につかる方が好きだったのだ。
ただ、今回の長風呂は、彼女の嗜好だけによるものではない。
それとは別の理由も存在していた。
一度、雨城は立ち上がり、湯船から出た。そのまま洗い場へ向かい、シャワーの水を浴びる。
……そうして、雨城が火照った体を冷ましていたときだった。
突然、脱衣場へ通じるガラス戸が開き、ある人物が大浴場に入ってきた。
すらりとした長身、その引き締まった体躯の中で、大きな胸が目立っている。
それは、体育委員長・平山雪家の裸身だった。
平山体育委員長――会議において雨城と敵対する人物が、目の前に現れた。
ライバルどうしが互いに一糸まとわぬ姿で、風呂場に二人きり……という、まるで冗談のような展開。
これに、雨城は無言のまま、シャワーを片手に対峙する。出しっぱなしの水が、足元のタイルに当たる音だけが響いた。
一方、平山は、その切れ長の眼を細める。湯煙ごしに、雨城を鋭く睨みつけているようだ。
対立しあう両委員長の間の空気は、一瞬で、帯電したように危険なものとなった。
……張り詰めたような静寂は、数秒ほど続いた。
そして、それは唐突に破られる。
瞬間、雨城は手首をひるがえし、シャワーを平山に向けた。
西部劇のガンマンを思わせる手さばきで、冷たい水流を放つ。
水流は勢いよく、平山の顔に命中した。
「うわっ、……楊子っ!」
「…………」
「楊子っ!」
「…………」
「無言のまま水をかけてくるんじゃない! ……ああ、もう!」
平山の声は弾んだものだ。彼女も別のシャワーをつかんで応戦する。
そのまま、しばらく、二人は水をかけあった。
まるで子どものように、それに興じる姿も、弾けた笑い声も、普段の謹厳な様子とかけ離れている。
……やがて、二人の水遊びは止んだ。
冷えた体を温めようと雨城は湯船に戻り、平山も追って入浴する。
「……はあ、まったく。酷いことするな、楊子は」
「君も、思いっきり反撃したじゃないか、平山委員長」
「その呼び方は、今はやめてくれ。せっかく、ふたりきりになれたんだから」
「ん……ああ、すまない。……雪家」
そう目の前の体育委員長を呼ぶと、雨城は、少しはにかんだ。
「……それにしても、ずいぶん来るのが遅かったな」
「遅い時間に落ち合おうと言ったのは、楊子の方だろう? 二人で話がしたいから、と」
「ん? そうだったか」
「そうだよ。昼の、第三回投票の直前に」
「……ああ。いや、たしかに、そのとき約束したが。それにしても、こんなに遅い時間のつもりじゃなかったんだけどね」
「まあ、あのときは会議の時刻が迫っていて、お互い慌ただしかったからな。仕方ないだろう。それに……楊子の長風呂は、いつものことじゃないか。この前の連休の旅行だって」
「箱根の温泉旅行?」
「そう。あのときは君に付き合って、こっちが茹で上がるところだった」
苦笑しながら、平山は言った。
文化委員長・雨城楊子と、体育委員長・平山雪家は、このような仲だった。
公的な場では、対立しあう委員会のトップどうしとして、決して相容れることはない。
しかし、他に人のいない私的な時には、親しく付き合う友人同士となるのだ。
それは、二人だけの秘密の関係だった。
「……しかし、まあ、自分たちのことながら難儀ではあるな。友人と談笑するにも、時と場を選ばなければならないとは」
「仕方ないだろう、雪家。私たちには、立場というものがあるのだから」
「ああ、分かっている。……委員長の仕事に私情を持ち込まないように、こうすると決めたこと。忘れていないさ」
きっぱりと語った平山に、雨城は頷いたが、直後にこう付け加える。
「……けど、まあ、それもこの会議までかな。あの清川会長が引退すれば、もう少し、両委員会の対立も和らげることができるかもしれない」
やや含みのある口調で、雨城が言った。これに、平山は切れ長の眼から探るような視線を向ける。
その視線を逸らそうとするように、雨城は話題を変えた。
「そういえば……あの第三回投票の前。私が遅刻してしまったとき、雪家は那珂川議長に尋ねられたらしいな」
「ああ。あのときは焦ったが、うまく言い繕えたと思う。けど、それがどうかしたか?」
「……わざわざ、那珂川議長は、政敵同士と目されている君に、私の所在を尋ねたんだ。もしかしたら、議長は私たちの関係に気づいているのかもしれない。……もっとも、そのことを他人にまでは広めていないようだが」
驚きの眼で、平山は友人を見かえした。だが、すぐに納得の表情を浮かべる。
「……なるほど。あの先輩は、人の秘密について妙に鋭いところがあるからな」
「自分の傍にいる娘の気持ちには、鈍感なくせに」
「まったく。東田も、よく付き合うよ」
同級生の、はなはだ苦労の多いだろう恋愛事情を思いやって、二人は苦笑を交わすのだった。
……そうして話をしながら、しばらく二人は湯に浸った。
やがて、平山は体の火照りを覚えたようで、湯船の縁の方へ移る。底より一段高くなった場所へ腰かけた。
「雪家。大丈夫か」
「ああ。ここに座れば、丁度いい」
段に腰かけた平山の体は、へそのあたりより上が湯から出ているので、ちょうど、半身浴をしているふうになっている。
ただ、この姿は当然、平山の胸が露わになってしまう。
しかし、友人と二人きりの浴場で、彼女はそのことを気にしていないようだった。
その平山の姿を静かに眺めてから、雨城は、ふと何かを思い出したように声を発した。
「……ああ、そうだ。雪家には、一つ、謝りたいことがあった」
「謝りたいこと? なんだ、怖いな」
そう言いながらも平山は、友人の口調が深刻そうなものでないので、落ち着いていた。
その彼女に、雨城は告げる。
「先の投票。私のせいで、君には迷惑をかけてしまったかもしれない」
「迷惑? ん……ああ、なんだ。そのことか」
先の第三回投票。その直前に、二人は会議に遅刻している。
このことを他の出席者たちは訝しんだが、じつは二人が、ある密談をしていたために遅れたのだった。
平山は、秘密の友人である雨城に、清川会長によって切り捨てられようとしていることを忠告した。
生徒会長が、会議で勝つために、部下である文化委員長を自陣営から排除するという事態。それへの対応を、雨城は悩み、考え、一つの決断を下した。
その決断が、清川普青への支持を止めて自身に投票する、というものだった。
当然、これまで清川普青に入っていた票は、雨城が抜けた分、一つ減ることになる。
このような事情が、第三回投票の裏面に存在していたのだ。
そして、表面に現れた投票結果は、雨城への一票、清川普青の以前どおりの五票、小櫃総務委員長の以前より一つ少ない二票だった。
平山は、祇園側用部長と約束したとおりに清川普青へ投票していた。しかし、その一票も、雨城の離反によって相殺されてしまったのだ。
そのことを、今、雨城は謝っていた。
これに、平山は落ち着いた口調で応じる。
「気にしていないよ。……たしかに、あのときは、私の行動が徒労となって、落胆したけど。今になって思えば、あれで良かった。清川普青が新生徒会長になるなんて、やっぱり賛成できないからね」
「……そうか」
「ああ。そもそも、学園の政治権力を姉妹間で世襲しようというのが、気に食わない。時代錯誤に過ぎる」
「…………」
「そのことを、楊子も分かっていたんだろう? なら、あえて謝ることもない。まったく、君は変なところで律義になるし、そうかと思えば、また変に無遠慮にもなるな」
「……仮に私が無遠慮になるとしても、それは雪家に対してだけだよ」
その答えに、平山は苦笑する。苦くも、満足そうな微笑だった。
釣られるように、雨城も微笑む。
穏やかで温かな空気が、二人の間を対流した。
……やがて、少しだけ口調に真剣味を加えて、平山は尋ねる。
「その第三回投票。君は自分に票を入れたようだが。あれは本気か?」
「いや、まったく。あれは単に、清川政権への反抗心によるものだ。……残念ながら、私に生徒会長は無理だろう」
「そうは言うがな、楊子。私は、雨城家の出の君が、清川会長の後を継いで、次期会長になればいいと思っているんだが。前例も多くあることだし、名門出身の君なら、生徒たちも納得するだろう」
唐突な、友人からの支持だった。
しかし、雨城は動じる色を見せずに、淡然と受け流す。
「……前例というが、それは本家の話だろう。私は分家の、ごく平凡な中流家庭の出身だよ。名門じゃない」
「それでも、君には『雨城』の血が流れている。学園創立者である雨城直柾子爵や、歴代の多くの生徒会長たちに流れていたのと、同じものだ」
そう語って、平山は雨城に会長就任を勧めた。真剣な口調には、熱意がにじむ。
平山は、心から友人を信じているのだろう。雨城家の名を持ちだしてはいるが、彼女が本当に信頼しているのは、友人の能力や人格。雨城楊子自身を、平山は見ている。
「雨城の血統」などとは、正統性に理屈をつけるための方便に過ぎない。
そのことが、雨城にも理解できた。
平山が雨城の中身を評価しているように、雨城も平山を見ている。
「知己」という、互いに内面まで深く知り合う仲だった。
しかし……友人の内にある思いを知っていても、なお、雨城は冷淡だった。
彼女は冷たく、友人を詰るように指摘する。
「馬鹿か、君は。先ほど清川姉妹の世襲を批判した、その舌の根も乾かないうちに、『雨城の血統』などという理屈を持ち出すのか」
正論だった。
「清川普青は偉大な会長の妹だから、その後継にふさわしい」という論法と、「雨城楊子は代々多くの生徒会長を輩出した家系の出身だから、次期会長にふさわしい」という論法とは、まったく同種のものなのだ。
平山は、そのことを見落としてしまっていた。
しかし、正論とはいえ、あまりに痛烈な指摘だろう。
ぐうの音も出ない、というふうに平山は黙ってしまった。
そうした様子を見ると、雨城の顔には、苦い悔悟の影がよぎる。
――親しい友人とはいえ、今の自分の発言はあまりに無遠慮で、率直すぎるものではなかったか。
「……まさか、今ので怒ったんじゃないよな?」
「怒ったように見えるか?」
「う、うぅ……」
恐る恐る、雨城は友人の表情を窺う。
平山は、常の凛々しい顔立ちをさらに引き締めて、沈黙していた。
その表情に、雨城は友人の怒気を覚え、息をのむ。そのとき――。
――突然、平山は沈黙を破って……哄笑した。
「……ふっ。ふはっ、ははは! ああ、違いない。私が馬鹿だった!」
高らかに笑う友人を、はじめ、雨城は呆然と見つめた。
「……怒ってないのか?」
「怒ってない。怒ってない。これで怒るとしたら、私は狭量にすぎる! ははははっ!」
平山は全身を揺らして、雨城から見ても気持ち良いほど壮快に笑った。
その上下に揺れる胸を眩しそうにしばらく眺めてから、雨城は改めて言う。
「……結局のところ、清川会長は偉大すぎたんだ。彼女だけでこの学園を動かしていた……とは言わないが、彼女がいなければ学園が治まらなかったのも事実だ。それほど、彼女の個性は強大で強烈なものだった。だから、彼女が引退するときに、混乱する。この会議で次期会長が決まらない所以だ」
その論評に、平山も笑いを収めた。彼女は落ち着いているが、やや苦みのある声で応じる。
「まったく、偉大な会長というのも、困りものだな。清川普青にしても、小櫃総務委員長にしても、どうしてもあの清川会長を継ぐには、いま一つか二つ足りない」
「そう。彼らに限らず、私も君も、誰だって、あの清川総璃愛を継ぐことなどできやしない。できやしないんだが……」
「うん?」
「……いや。あるいは、ただひとり……」
含みのある言葉を漏らすと、雨城は、口を閉ざした。
当然、これに平山は反応する。
「どうやら、君は知っているらしいな。偉大な清川会長を継ぐことができるかもしれない、ただひとりの人物の名を」
「……ふふっ、さてね」
「おい、楊子。もったいぶらずに教えてくれよ。私と君の仲だろう?」
充分に興味を惹いたことを確かめると、雨城は友人に、その人物の名前を告げた。
次回
第29話
闇の中で




