冬の話 2
そして決戦の時。
「あの、すこし、お話が……」
三咲は、夕方に帰ってきた叔母を呼び止めた。
案の定嫌な顔をされたが、ここでくじけてはならないと言葉を続ける。
「実は、進路相談で保護者の承認が必要なところが……」
はああ、と大きなため息をつきながら、ダイニングの椅子を顎で示される。
その態度に既に胸が痛くなるが、ここは耐えるしかない。
「で? どこに書けばいいの」
「ここに……」
指し示した箇所に内容も見ずにサインをする。乱暴に書かれていくそれを見つめながら、あと少し、あと少しと三咲は自身を励ましていた。
カランとボールペンが投げ出され、三咲はほうと息を吐く。よかった。これで一安心だ。
だがその態度に気づいたのか、叔母は三咲を睨みつけて言い放った。
「あんた、卒業したらどうすんの。言っとくけど大学に行くお金ないからね」
冷たい声色にどくん、と心臓が脈打つ。
大丈夫。大丈夫だ。
そう言われることは既に想定済みだ。
「あの、それは、住み込みで仕事を探すつもりで」
「あっそ。じゃああと三カ月でここから出てってくれるのね。良かった」
「は、……はい……」
みしみしと、体が軋んでいく音がする。
おかしいな。体は軽くなったはずのに、どうして、こんなに――重い。
そんな三咲の様子に気づかぬまま、叔母は悪意を吐き出し続ける。
「大体母さんもこんなお荷物よこしてさ、迷惑だったんだよね。暗いし、ブスだし、何もしないし。ほんとねえさんそっくり。嫌味で、私は悪くないみたいな顔して、あたしを馬鹿にして」
「大体働くって言ったってあんたなんか雇うところないわよ。でも帰ってこないでよね。あたしは高校までしか面倒見ないって言ってんだから」
「ていうかこれまでの迷惑料とか払ってほしいわ。あんたの顔見るだけで、ねえさん思い出して嫌な気持ちになったし」
こうなることは分かっていた。
まともに話せば、三咲への侮蔑と軽視の声しか飛んでこないこと。
この嵐のような時間さえ耐えればいい。そう思っていた。
だが。
「――だから、旦那と早々いなくなってくれてざまあみろって感じよ」
心拍が一つ、口から洩れた。
「ねえさん選ぶなんて見る目ないし、事故だかしらないけど、なにか馬鹿したんじゃないの」
気持ちが悪い。
ひくりと内臓が音を立てる。
叔母のヒステリーはいつものことだと思っていた。だが、その言葉だけは許すことが出来ない。
声。声は出るか。出るか分からない。
かすれるか、それでも。言葉。――勇気を。
「それは、言いすぎです……」
「……は?」
「言わないでください……」
両親が亡くなったのは事故だったと祖母から聞いていた。
昔は自分だけ残して逝ってしまったことを恨みもしたが、祖母との生活を支えにしては耐えてきた。
それを、まるで当然の報いのように言われる、いわれはない。
「そんなこと、言わないでください」
――ややったら、ちゃんと言い
桐人の言葉が、何故かまた甦ってくる。そうだ。嫌なことは、嫌だと言っていいのだ。
冬木にも、叔母さんにも。
いつも言われるがままの三咲がはじめて歯向かった。
それが気に入らなかったのか、叔母は怒りのまま立ち上がり、手の平で三咲の頬をうった。ばし、と小気味よい音がして、頬に赤みが指す。
更にもう一度。今度はびりびりとした痛みが奥歯に響いた。
いままでであれば、三咲は委縮していただろう。
だが、桐人を守ろうと叩かれた角材の痛みに比べたら、蚊に刺されたようなものだ。
「私の両親のことを、馬鹿にしないでください」
臆することなく叔母を睨み返す。
その目に一層腹を立てたのか、叔母は再度高く手をあげた。長い付け爪に気づき、今度はさすがにやばいかな、と身構え目をつむる。
だが衝撃はいつまでも訪れず、代わりに綺麗な声が届いた。
「そんなに声を荒げなくても。せっかくの綺麗な手を痛めてしまいますよ?」
聞きなれない声に恐る恐る目を開く。そこにはどこから現れたのか、見たことのない男がいた。いや、正確には見覚えはあった。……どこでだろう。
濃い金色の髪は、自然光の下では柔らかい稲穂のよう。目幅のある印象的な瞳は蜂蜜色。通った鼻筋に優し気な口元。
ああそうか、正確には本人ではなく、――雑誌の表紙として見たことがあったのだ。
「えっ、なに、なんで、三瀬が……ここに……」
叔母の動揺も無理はない。
彼は雑誌の表紙どころではない、今をときめく人気俳優の一人だ。
叔母も随分熱をあげていたから、その存在は三咲も知っている。
だがそんな有名人が何故こんなところに。
「いえ、蓮に会いに来たらなんだか賑やかだったので、ついのぞいてしまいました」
くす、と笑う仕草も美形がすれば許される。
なるほどモデルの仕事をしている蓮ならば、知り合いになることもあるのか、と三咲は考えたが、蓮は三瀬にライバル心を持っていたはずだ。
そう簡単に友だちになるだろうか。
だが叔母はそんな疑問に気づくでもなく、掴まれた自分の腕と三瀬の顔を、交互にあわあわと見つめている。
「そうそう、三咲さんにも会いに来たんでした」
「へ、は、……私?」
「はい。来年からのお仕事のお願いをと」
叔母の腕から手を放し、三咲の隣に座る三瀬。
何故突然芸能事務所からオファーが? 私いつ履歴書送った? いや流石に送らないよね、と必死に頭を巡らせる。
突然の展開に頭が追い付いていない三咲であったが、ぼそりと隣からかけられた言葉にすべてを理解した。
「――しゃんとせえ。ばれるやろ」
「……桐人?」
小声で聞こえたのはいつもの口調。どうやら三瀬ではなく、三瀬に変化した桐人のようだった。そうと分かって改めて見たところで、相変わらず全く違いが分からない。
「どうせ、またへましとる思て」
「……」
ぐうの音もでない。だが、正直来てくれて嬉しかったことは確かだ。叔母の言葉は鋭利で、対抗する心を持っても砕かれてしまいそうになる。
それを見越して来てくれたのだろうか――わざわざ、変化までして。
嬉しくなる三咲をよそに、桐人は慣れた様子で叔母に話しかける。
「実は三咲さんにうちの事務所で働いてもらいたいなと思っています。来年からにはなりますが、保護者の方にもご挨拶をと」
「……そんな、この子……そんな大したこと、出来ないですから、止めた方が」
もちろんそんな事実はない。
だが三咲をかばうため、桐人扮する三瀬は続ける。
「三咲さんは努力家で、とても真面目な方です。以前少しお手伝いに来てもらっていたのですが、僕もとても助けられたんですよ」
これは三瀬としての嘘なのだろうか。普段の桐人からは聞くことのないような言葉を耳にして、少し恥ずかしい思いをしながらも三咲は嬉しく思う。気づけば、心臓の痛みも亡くなっていた。
言い返す言葉を無くした叔母を見て、三咲ははっきりと告げた。
「叔母さん、いままでありがとうございました。ここにおいていただいたことは、本当に感謝しています」
いつまでも怯えているわけにはいかない。いつかは自分の足で立たねばならない。
三咲は今がその正念場というだけだ。今なら隣に、頼もしい味方も付いている。
桐人をちらと見る。視線に気づいたのか彼は、ふ、と笑みを落として見せた。
その色気のある顔だちに、三咲は先ほどとは違う心臓の痛みが生まれた気がした。これは桐人、三瀬ではないと自身に言い聞かせる。
だがそこで、叔母の様子がおかしいことに気が付いた。
「なんで……」
「……叔母さん……?」
「なんで! あんたたちばっかり!」




