夏の話 20
次の瞬間、強い力で後ろに引っ張られたかと思うと、三咲は誰かに抱え込まれた。
何が起きたのかと顔を上げると、そこには白い狐の面のふちがあった。
細い輪郭に綺麗に添う、漆喰のそれ。
「……やっぱり、ヒトキリか」
「……」
脇に三咲を抱え込んだまま、桐人は氷坂に向かって日本刀の切っ先を向けた。刃は上向いており、脅しではないことが明らかだ。
「これは、僕んや。……横取りすんなや」
「それは御霊……? ですが、中身は入っていないみたいですね」
その様子に、氷坂は少し驚いたようだった。
だが楽しそうに一度だけ笑うと、背後にいた亘理に声をかける。
「亘理、この子は狐と相性がいい。嫁にするなら彼女がいいです」
「な、え、氷坂、何言って……」
「だって、俺たちは一蓮托生、でしょう? なら俺だって、うまくやっていける伴侶を選びたい」
「そ、それは、ずっと言われてるから、知ってるけど……」
先ほどから何やら好き勝手言われている気がするが、桐人の手で耳がふさがれていて、よく聞こえない。というより、桐人の腕の中が苦しくて息が出来ない。
もがく三咲の様子に気づいたのか、桐人がわずかに力を緩める。
ぷは、と顔を出した三咲が改めて見ると、日本刀を突きつけられた氷坂と真っ赤になっている亘理、そしてこれまでにないほど露骨に怒りを表している桐人、という状態だ。
「……ええから、ささとその兄さんに戻り」
「いいじゃないですか。彼女も知る権利があるはずだ。【シタ】として、自分が契約している相手が昔、何をし――」
だが、氷坂の言葉の続きを聞くことはなかった。
桐人がためらいなく刃を振り下ろし、氷坂の体を叩き切っていたのだ。
瞬く間に黒い霧へと姿を変えたかと思うと、吸い込まれるように亘理の元へ引っ張られていく。全てが亘理の体に飲み込まれた時、頬の傷が赤く光った。
どうやら憑依が切り替わる時の合図のようだ。
「……」
刃を払い、慣れた仕草で鞘に戻す。そんな桐人を見つめながら、三咲は先ほどの氷坂の言葉が、胸に引っかかっているのを感じていた。
一体氷坂は、何を言おうとしたのだろう?
だがそれを尋ねる間もなく、桐人が不機嫌そうに口を開いた。
「なんやうるさいと思たら……へんなん連れくんな」
「す、すみません……」
「もうええ。帰り」
「え、あの」
桐人、と呼ぼうとした一瞬、そこに神社はなかった。
あるのは寂しい街灯と、カエルの声だけ。気づくと三咲は石段を下り終えた道まで戻らされていた。まるで狐に化かされたようだ。
同じく五百段の石段を飛ばされてきたらしい亘理も、不思議そうに首をかしげている。
再び二人きりになったのに気づき、三咲は恐る恐る声をかけた。
「あ、あの」
「えっ、あ、うん、何?」
「氷坂は大丈夫……?」
「う、うん……でも、かなり力が弱まってて、話しかけても何も反応がない……」
「そうなんだ……」
大きなダメージを受けたのだろう。しばらく亘理の体から出られないようだ。
安堵したような、困惑したような複雑な感情が三咲の中でないまぜになる。
そんな三咲を心配したのか、亘理は慌てたように続けた。
「だ、大丈夫だよ。いつもはおれが運動してたら自然と元気になるし、死んではいないよ」
「そっか……」
その言葉に少し安心する。
ともあれ、氷坂は何を言おうとしたのか。また会話が出来る状態になったら聞いておきたい。
そんな三咲の心情とは裏腹に、亘理はうーん、えーとと首を巡らせていたが、意を決したようで三咲に告げた。
「あの、さっきのだけど!」
「う、うん」
「氷坂はあんなこと言ってたけど、おれとしては三咲ちゃんの気持ちが大切っていうか、それを大事にしたいし、……その」
「う、うん……?」
何のことを言っているのだろう。
真っ赤になって押し黙る亘理をよそに、三咲は一人思考を巡らせていた。
(――彼女も知る権利があるはずだ)
(――【シタ】として、自分が契約している相手が、)
「……何をした、か?」
そっと石段を見上げる。
暗い闇に包まれたその先は、今はまだ見えなかった。




