孟春と花房 弐
「いま、何と」
待雪の口から零れた呟きはやけに硬く平坦であった。他の女官たちの表情もなんだか強張って見え、妙に緊張した雰囲気に玄梅は困惑する。先ほどの紅緒の言葉がなんだというのだろうか。聞いたところ、いつも通りの彼女の言動と変わりないような感じであったが。とりあえず何か言わねばと玄梅が口を開こうとした、そのとき、かたんっ、と何かを取り落とした音がしたと思えば、勢いよく几帳の布が跳ねあがり、そこから飴色の髪を乱しながら樒姫が転び出てきた。玄梅は瞠目して固まる。
「あぁ、これは樒姫、久しぶりにお顔を拝見いたしました。ますます美しくなられましたね」
片頬に浮かべた微笑みを深める紅緒とは対照的に、可憐な顔を青白くした樒姫は唇を戦慄かせている。
「なぜ、紅緒……知ってらっしゃったの?」
その震える声に、狼狽えはするが状況の掴めない玄梅は、常の如くにこにこしている紅緒を見遣る。
「私は読んでおりませんが、うちの邸の女たちに似ている似ていると言われまして。それに、樒物語には樒姫の樒の字が入っていますし、最近は我々が話しているときいつも何か書き留めていらっしゃるようでしたので、もしかしてと」
何の含みもない楽しそうな表情の紅緒の言に、樒物語の名だけは聞いたことがあるものの読んだことはなく、やはり話の見えない玄梅は、今度は樒姫を振り返る。すると、樒姫はこの世の終わり見せられたような表情を浮かべた後、「はあぁぁあぁぅう」と気が抜けた悲鳴としか形容のしようがない、不思議な声をあげて地に伏してしまった。
「あの、何が起きたのかわからないのですが」
こそりと耳打ちしてくる玄梅に、紅緒も口許に手を当てて返す。
「今流行りの樒物語は書き手が不詳だというが、あれを書いたのはおそらく姫よ」
「えっ、そうなんですか。それはすごいですね」
「全くだ。それでその樒物語に、お前と私にそっくりな人物が書かれておるのだ」
「えっ……?」
思いも寄らぬ事実に困惑して何度も瞬きする玄梅の様子に、さらに呻き声を上げる樒姫。
「先程私が口にしたのは、私と思しき花房という人物の台詞なのだが」
「な、なるほど? しかし何でまた姫はあんなに項垂れてしまっているのですか」
「わからん。喜ばれるかと思ったが、違ったか」
最早小声ではなくなってきている二人の会話は、樒姫の頭をさらに地に沈ませた。女官たちがせっせとその背を撫でなさすりながら「姫様、おいたわしや」「心中お察しいたしますわ」「どうかお気を確かに」と口々に慰めている。
やがて、伏したまま呻いたり嘆いたりしていた樒姫が、意を決したように勢いよく身を起こした。羞恥に上気した頬、潤んだ瞳、それとすこしの冷や汗が見て取れる。
「二人とも、どうか許してください。本当に悪気はないの。ただ純粋に二人が素敵だと思ったからなのです。黙って書いてしまって、本当にごめんなさい」
一息に謝る樒姫と、心配そうにこちらを窺う女官たちを前に、紅緒と玄梅は顔を見合わせた。無論、どちらも怒ってはいない。玄梅に至ってはどのように書かれているのか知らないので、戸惑うばかりで怒る以前の問題ではある。
紅緒は樒姫に膝でにじり寄り、その小さな手を取った。額に乱れかかる柔らかい髪をそっと指で梳きながら耳にかけてやれば、耳元で黒い樒の花の護符が揺れているのが見えた。それを嬉しそうに眺めながら、落ち着いた声で樒姫を宥める。
「よくお聞きください、姫。私も玄梅も怒ってなどおりませぬ。世の女子を虜にする物語を紡ぐお手伝いをさせていただけて光栄に思うております」
「ほ、ほんとう? 怒っていない?」
えぇ、と微笑む紅緒に、樒姫はほっと息を吐いたが、すぐに表情を曇らせて恐る恐るといった風に翠瞳を覗き込む。
「あの、実は、樒物語の続編を書きたくて。主人公を花房とその幼馴染にして。図々しいのはわかっているのだけれど……それも許していただける?」
「なんと、続編を」
眉をあげた紅緒がちらりと玄梅を振り返った。無言のままに投げかけてくる視線はどうやら了承を求める類のものだったので、玄梅は急いでコクコクと頷いた。ぱっと樒姫に向き直った紅緒はもう満面の笑みを浮かべている。
「それは素晴らしい。もちろんです。お望みであれば、今のように実演もして差し上げます。きっと筆が進みましょう」
まるで口づけるように樒姫の手を引き寄せて微笑む紅緒の提案に、玄梅は思わず幼馴染を二度見した。自分が了承した以上の何かが約束されようとしている。その実演とやらはもしかしなくても自分も巻き込まれるのでは。
「本当に? よろしいの? あぁっ、ありがとう二人とも」
感極まった様子で胸の前で手を合わせる樒姫。途端に女官たちは、現金にも小さく歓喜の悲鳴を上げて口々に熱のこもった要望を述べ始めた。
「ではでは花房が幼馴染の手を初めて握る場面を」
「いいえ、幼馴染が、嫉妬することで初めて花房への気持ちに気付いて困惑する場面の方が良いわ」
「呆れた。別れの朝に互いに言葉もなく、花房が幼馴染の鬢の乱れを直してやる場面が逆に最も性的でよいに決まってます」
逆に最も性的。
愕然とした玄梅が、可及的速やかに深彌草邸で樒物語を読ませてもらう必要があると真剣に検討し始めたとき、にこにこしながら女官たちの話を聞いていた紅緒が口を開いた。
「ご安心を、全て順番に演じてご覧に入れましょう」
ますますどの場面が良いか議論に熱が入る女官たちに、さり気なく樒姫を几帳の奥に戻していた待雪が、渋面を作る。
「こら、お前たち。二人はお勤めで忙しいのですよ。あまり我儘を言っては……」
「いえ、待雪殿、良いのです。その代わりと言ってはなんですが、樒姫と皆様に少しお伺したいことがございます」
突然の紅緒の申し出に、女官たちは面食らった顔で口を噤んだ。待雪も訝しげに首をかしげている。相変わらずにこにことしている紅緒に、少し落ち着いたらしい樒姫が几帳の向こうから声をかける。
「私たちに聞きたいこととは何かしら。紅緒、遠慮なくおっしゃって」
「有難うございます。それでは、少しお聞かせください。月子、という女性について」
時は遡って、紅緒と玄梅が樒姫のもとを訪ねる三日前のことである。
その日紅緒は、常の如く謌寮に出仕し、黒羽司琅と護符作りにあたっていた。
作っているのは腕環の形をした怪除けの護符で、すでに完成した品が毛氈の上にいくつも並べられている。美的感覚に優れた洒落者の司琅はともかく、素材や意匠を選ばねば馬ほどの大きさの護符を作り出してしまうような、使い勝手の悪い魂魄お化けこと紅緒が護符作りに駆り出されているのには理由がある。
「お前、それ何の石なの。見たことないんだけど」
司琅の黒目がちの目が、紅緒の手元をじっと見つめている。彼の右手は、今しがた完成したばかりの水晶の腕環を弄っている。やや幅広のそれは、表面に自然な凹凸を残しながら、溶け始めた氷のように滑らかに整えられており、今にも清らかな水が滴らんばかりに美しい。対して紅緒の手中では、透き通った赤紫色の石の腕環が精製されている最中である。細身でありながら、表面に精巧な蔦模様が施された環が、ぱきぱきと僅かに軋みながら生まれてくる。紫水晶よりこっくりとした赤味があり、柘榴石よりは明るい青味のある、得も言われぬ色合いだ。
「いや実際、何の石なのでしょうね。よくわからぬまま作っておるのですが」
「……あぁ、そう」
「しろちゃん、今のは笑うところですよ」
真顔で告げられた言葉に、司琅は笑うどころかやや不憫そうな表情を浮かべた。紅緒の膨大な魂魄を以て、何とか腕輪の大きさに加工できる唯一の石がこの赤紫の鉱石であった。きっと希少で価値がとんでもなく高い石なのだろうが、希少が過ぎて恐らくこの国の誰も見たことがないに違いない。
出来上がった腕環を大きな目の前に掲げた紅緒は、怪談でも語るような顔つきで、司琅ににじり寄った。
「聞いてくだされ。なんとこの石、日の光の下では緑青色に変わるのです」
「うわー、何それやだやだ。一体どれだけ高価な代物なんだよ。俺様に近付けるな」
女性への耐性がないくせに何故か紅緒のことは平気な司琅は、至極鬱陶しそうに紅緒の丸い額を掌で押し遣る。
紅緒は今出来たものと合わせて四つの腕環を完成させており、それらは全て皇帝の妻たちのものとなる予定である。安全だと思っていた宮城内に蠱物が埋められていたことは、彼女たちにとってかなり衝撃だったらしく、五辻が捕らえられた後も、また同じようなことが起こるのではないかという恐れから気鬱になりがちになっているという。そこで、気慰みに怪除けの護符を作れという勅命が謌寮に下りたのであった。それで、紅緒である。護符とはいえ、皇帝の妻たちが心浮き立つような装飾品ということであれば、相応に美しい造形で、材料にもこだわらなければならない。宇賀地は「品質をとっても効率をとってもお前が適任だ。ささっとやってくれ」と事も無げに笑って、この尊命を紅緒に押し付けたのだった。無論、ささっとできることはできたのだが、よもや正体不明の材料で精製していようとは流石の宇賀地も思うまい。ちなみに司琅の作った護符は、皇帝の妻付きの身分の高い八名の女官にだけ配られる予定である。
「しろちゃんの護符は、曇りなく澄んでいて美しいですねぇ」
流石です、とうっとりと褒められたが、司琅は鼻を鳴らしただけであった。当たり前のことを言うな、とその目が言っている。事実優秀な彼は、今年の秋にはうたよみに任ぜられると専らの噂だ。だが単純に、この何もかも規格外な女には何を言われても嬉しくないので何も言わない、というのもある。当の紅緒は、眉尻を下げて息を吐きながら首と肩の間を揉み解している。
「今日は少し頑張りすぎましたね。小腹がすきました」
「いや、お前は全然頑張ってない。これくらい朝飯前だろ。腹立つ」
「えぇ、朝餉は食べてまいりましたが、どうにも腹が減ったのです」
呆ける後輩に司琅の脳裡に殺意という文字が黒々と浮かんだとき、戸口に人の気配が立った。ここにいらしゃったわ、と明るい声が聞こえる。
「紅緒様、こんにちは」
「紅緒様、差し入れを持って参りましたの」
例の大盤所の二人の女官である。今日は色違いのつばくらめの髪飾りをつけて、それぞれに包みを持っている。その背後には、何人かの女官が頬を染めてそわそわと身繕いをしているのが見えた。初めて見る顔の者もいる。
前より増えたじゃん、と司琅はうら若き女子の登場に内心焦りながら素知らぬ顔をする。しかし、腹が減ったと言った途端に差し入れだなんて、世界はこの男だか女だかわからない奴に優し過ぎるのではないか。
「こんにちは。天女のように可憐なお姿を見せていただいたので、たった今疲れがたちどころに消えてしまいました。しかし、差し入れなんて気を遣わなくても、貴女がたの微笑みひとつで私は胃の腑までも満たされますのに」
そして相変わらずこいつの精神構造はどうなっているんだ、よくそんなことを恥ずかしげもなく言えるものだ。
女官たちは黄色い声をあげながら、するすると部屋に入ってくると、持ってきた食べ物を広げ始めた。紅緒と宮城内で行動すると、よくこのような状態になる。例えば宇賀地に命じられたつまらない事務仕事が一段落ついたとき、または宝物殿の火伏の護符の張り直しが終わったころ、はたまた門の上を徘徊する二頭の雉の怪を追い払うのに成功したときなど、頃合いを見計らったように彼女たちは現れる。そして、その人数は徐々に増えつつある。そろそろこの集団に名前でも付けようか、と遠い目をしている司琅の膝元に、遠慮がちに何かが差し出された。
「先輩の謌生様もぜひ」
素焼きの小皿に載せられた椿餅と揚げ菓子であった。つい、と視線をあげるとふくっらとした頬に円い目の愛らしい女官が、こちらを見ながらはにかんだ笑みを浮かべている。
「……ありがとう、ございます」
司琅はやや頬を染めてぼそりと礼を述べ、揚げ菓子をかじる。まぁ、全然、こういうのは、悪くはないけど、全然、でも名前くらいは覚えて欲しい、できれば、などとぶつぶつ胸中で呟きながら。
しばらく談笑しながら小腹を満たしていたが、紅緒に口の端についた菓子くずを取ってもらってうっとりしていた女官が急に声をあげた。
「そうですわ、今日も御遣いの物があるのでした」
紺碧の小さなつばくらめを頭に飾った女官である。彼女は小さめの包みをどこからか取り出し、紅緒に差し出した。鴇色の滑らかな布の包みである。どんよりと表情を曇らせる紅緒と半眼でそれを眺める司琅。
「さ、どうぞ」
促されて、紅緒は一つ固唾を呑むと女官の掌にのせたまま包みをほどく。現れたものを見て、司琅が短く呻いた。円い漆塗りの香合である。側面を細かな亀甲模様がぐるりと囲み、蓋の中央には羽毛までも美しく表現された一羽のつばくらめが生き生きと飛んでいる。それらは上品な虹色に輝く螺鈿、または極薄い銀の板を嵌め込んで描かれている。これは間違いなく名工の逸品だ、とこういった品にも明るい司琅は目を細めた。紅緒が意を決しておそるおそる蓋を開ければ、中に黒っぽい練香が五粒ほど入っている。ふわ、と馥郁とした麝香の薫りが漂う。
「こ、これは?」
そっと蓋を戻して、女官に短く問うと、少しだけはにかみながら答えてくれた。
「お気づきになりました? 今日は髪飾りをこちらのつばくらめとお揃いにして参りましたの」
「お揃いに」
なるほど。しかしそういうことではない。助けを求めるように司琅を見遣れば、彼は一つ頷いて「安心しろ、いつも通りのやばい品だ」と太鼓判を押してきた。だからそういうことではない。
この大盤所の二人の女官が、紅緒への贈り物を何者かから託ってきたのは、今回で五度目である。黒貂の襟巻から始まり、薄紅色の玻璃でできた脚付きの盃、真珠と黄金と白銀の小さな玉を連ねた玉佩用の飾り紐もあった。一度、小ぶりの柑子のような果物がいくつか錦の巾着から出てきたときは、ややほっとしたものの、実は竜玉と呼ばれる宮城内の限られた場所でしか育てられていない貴重なものだったことがあった。あれは美味であった、と遠い目をしている紅緒の手に、鴇色の布ごと香合を握らせて、つばくらめの女官は念を押す。
「中の香は、手ずから御作りになったものですので」
だから誰が、といくら問うても彼女たちは教えてはくれないのだった。いつものことながら紅緒が途方に暮れていると、これも毎度のことながら司琅が鼻で笑った。
「もらっとけば。高く売れそうだし」
「……また他人事だと思って」
そんなことがあって、しぶしぶ鴇色の包みを片手に帰途についた紅緒であった。が、その日は厄日であったのか、それで終わらなかった。
徒歩で邸に戻った紅緒が浅いため息を吐きながら足を清めていると、背後から名を呼ばれた。振り返れば、常の倍は表情が凍り付いた父、尚季であった。
「何も言わずに出居に行きなさい」
「出居? 私に客ですか?」
父は真顔で娘の顔をじっと見るばかりである。いつか大事に巻き込まれるだろうとは思っていたが、まさかこういう類の厄介ごととは思わなんだな、まだ謌生になって間もないというのに、いや、これもこの娘の溢れんばかりの才がそうさせるのであって、もしかして輝かしい出世への足掛かりになるやもしれん……え? 出世!? いやいやいや、出世とかしなくても良いので結婚してほしい実際のところ、などと心中で長々と嘆いている父を、紅緒は半眼で眺めて「わかりました」とだけ言うと、素直に出居に向かった。
尚季の言い様から察するに、深彌草家の姫君として仰々しく会う必要もなさそうな様子だったので、卯の花色の真更衣のまま着替えもせずに客間である出居に向かい、ひょい、と中を覗いた。本当に何気なく、ひょい、と覗いたのである。
その時、紅緒は生まれて初めて自らの喉が、ひっ、と音を立てて呼気を詰まらせるの感じた。
「思うたより遅かったな」
特に責めるでもない声色は、むしろ愉しそうな響きを含んでいる。眉頭だけを残した瓣眉を少し上げて、固まっている紅緒を見上げた男は、一国の長らしく泰然と目の端だけで笑ってみせた。




