勇者じゃなくても
「レオン殿。少し、話がある」
オルド村長は、広場の隅に立ったままそう言った。
村の広場では、まだ大猪の肉焼きが続いている。
子供たちは口の周りを脂だらけにして走り回り、大人たちは木皿を片手に笑っている。
ガルドは大盾の前で腕を組み、肉の焼け具合に文句を言いながらも、誰より真剣に火を見ていた。
ミナは村人に皿を配り、空いた皿を回収し、時々俺の方を見ては小さく笑っている。
昨日まで、俺の畑から野菜を盗もうとしていた少女とは思えない働きぶりだ。
いや。
昨日までのあいつが本当で、今のあいつも本当なのだろう。
腹が減れば、人は道を間違える。
温かい飯と居場所があれば、人は少しだけ顔を上げられる。
それだけの話だ。
「話っていうのは?」
俺は焼けた肉を木皿に移しながら尋ねた。
「ガルドの店のことか」
「それもある」
村長は広場を見回した。
「だが、それだけではない」
その声に、俺は少しだけ手を止めた。
村長の表情は穏やかだ。
けれど、ただ肉を食いに来た老人の顔ではなかった。
村を預かる者の顔だ。
「場所を変えるか?」
「いや、このままでよい」
村長は首を振った。
「むしろ、今この景色を見ながら話した方がいい」
そう言って、村長は大盾の鉄板を見た。
「まさか、ガルドの盾で猪肉を焼く日が来るとは思わなんだ」
「俺も思わなかった」
「本人も思っておらんだろうな」
「たぶん一番思ってない」
俺たちが見る先で、ガルドが村人に向かって怒鳴っていた。
「だから、脂の多い肉を真ん中に置くな! 火が強すぎる! 焦げるだろうが!」
「うるせえなあ、うまけりゃいいだろ!」
「よくねえ! 焼き加減を馬鹿にする奴に肉を食う資格はねえ!」
村人たちは笑っている。
ガルドも怒鳴ってはいるが、本気で怒っているわけではない。
少なくとも、昨日の店で見た、すべてを諦めかけた男の顔ではなかった。
「ガルドは、昔から腕のいい職人だった」
村長がぽつりと言った。
「魔物が多かった頃、この村は何度もあやつの武器に助けられた。森から魔狼が降りてきた時も、畑を荒らす牙猪を追い払った時も、旅の冒険者が怪我をした時もな」
「なら、村にとって必要な店だったんだろ」
「そうだ。必要だった」
村長は静かに頷いた。
「だが、魔王が討たれてから状況が変わった。魔物は減った。街道も安全になった。冒険者も、護衛も、以前ほどこの村には寄らなくなった」
それはミナからも聞いていた。
魔物がいなくなったことは良いことだ。
村にとっても、子供たちにとっても、旅人にとっても。
だが、その良いことが、誰かの仕事を奪う。
分かっていたつもりだった。
だが、村長の口から聞くと、改めて重く感じた。
「ガルドだけではない」
村長は続けた。
「薬草を売っていた者も、冒険者向けの保存食を作っていた者も、魔物除けの札を作っていた者も、皆少しずつ困っている。今すぐ飢えるほどではない者もおる。だが、このままでは先が細る」
「……世界が救われても、か」
「世界は救われた」
村長ははっきりと言った。
「そこは疑ってはならん。魔王が生きていれば、もっと多くの者が死んでいた。わしらも、きっと今こうして肉を焼いて笑ってはいられなかった」
「それは分かってる」
「だが、世界が救われたからといって、明日の飯が勝手に湧くわけではない」
村長の言葉は淡々としていた。
だからこそ、妙に胸に残った。
「魔王がいた頃は、魔物に備えればよかった。魔物が減った今は、別のものに備えねばならん。商売の変化、人の流れ、仕事の消失、役割を失った者たちの不安」
「役割を失った者、か」
その言葉に、俺は自分の手を見る。
剣を握るために硬くなった手。
魔物を斬るために鍛えた腕。
魔王城へ向かうために身につけた知識。
それが、今は肉を焼き、畑を耕し、罠を仕掛けている。
変な話だ。
だが、不思議と嫌ではなかった。
「レオン殿」
村長が俺を見る。
「おぬしは、自分をただの余所者だと思っているかもしれん」
「実際、余所者だろ」
「そうだな」
村長はあっさり頷いた。
「だが、余所者だからこそ見えるものもある。わしら村の者は、長くこの村におりすぎた。ガルドの武器は魔物用。薬師の薬は冒険者用。狩りは狩人のもの。そう決めつけておった」
「俺も偉そうなことは言えない」
俺は大盾の上で焼ける肉を見た。
「剣は魔王を倒すためのものだと思ってた。魔王を倒せないなら、自分には何も残らないと思ってた」
口にしてから、少し驚いた。
以前なら、こういう言葉は喉の奥で詰まっていた。
言えば惨めになる気がした。
だが今は、少しだけ違う。
傷はまだある。
消えたわけではない。
それでも、その傷を見せたからといって、すぐに崩れるほどではなくなっていた。
「おぬしは、勇者ではないのかもしれん」
村長は言った。
「だが、今日この村を少し助けたのは、おぬしだ」
「猪を獲っただけだ」
「猪を獲り、ガルドの道具を使い、村人に肉を分けた」
「大したことじゃない」
「大したことかどうかは、助けられた側が決めることもある」
村長の声は静かだった。
俺は返事ができなかった。
その時、背後から低い声がした。
「……その通りだ」
振り返ると、ガルドが立っていた。
いつの間に来たのか、腕を組み、ひどく居心地の悪そうな顔をしている。
隣にはミナもいた。
ミナは心配そうに父親を見ている。
「ガルド」
俺が名前を呼ぶと、ガルドは渋い顔をした。
「先に言っておく。礼を言うのは苦手だ」
「見れば分かる」
「うるせえ」
ガルドは一度、広場を見た。
自分の盾で肉を焼き、村人たちが笑い、子供が皿を抱えて走っている。
その景色を見て、彼はゆっくり息を吐いた。
「俺は、武器屋は終わりだと思ってた」
その声は、いつもの怒鳴り声ではなかった。
「魔物がいなくなった。冒険者も来なくなった。店に並んでるのは、誰にも必要とされない鉄の塊ばかりだと思ってた」
ミナが父親の袖を握った。
ガルドはその手を一度見てから、不器用に続ける。
「だが、今日分かった。俺の作ったもんは、まだ使えた。魔物を殺すためじゃなくても、人の役には立てた」
「ガルドの腕がよかったからだ」
「お前が使い道を見つけたからだ」
ガルドは俺を見た。
正面から。
「レオン。礼を言う」
そう言って、ガルドは頭を下げた。
広場の音が、少し遠くなった気がした。
頑固で、怒鳴り声がでかくて、盾を鉄板扱いすると本気で怒る男が、俺に頭を下げている。
俺は慌てて手を振った。
「やめろ。そこまでされることじゃない」
「俺がしたいからしてるんだ」
「……そうか」
「まだ店が立ち直ったわけじゃねえ。借金もある。材料も足りねえ。客だって、今日少し声をかけられただけだ」
「ああ」
「だが」
ガルドは、火の前に置かれた大盾を見た。
「まだ使い道があるってんなら……もう少し、槌を振ってみる」
ミナの目に涙が浮かんだ。
「父さん……」
「泣くな。まだ何も終わってねえ」
「はい……」
「それと、レオン」
「何だ」
「盾は鉄板じゃねえ」
「まだ言うのか」
「そこは譲らん」
真顔だった。
俺は思わず笑ってしまった。
村長も、ミナも笑った。
ガルドだけが不満そうに眉を寄せていたが、その顔はどこか照れくさそうだった。
「レオンさん」
ミナが一歩前に出た。
「私からも、お礼を言わせてください」
「さっきも言っただろ」
「何度でも言います」
ミナは小さな両手を胸の前で握りしめた。
「レオンさんが来てくれなかったら、私たち、きっと諦めてました。父さんも、私も、店も」
「俺は勇者じゃない。ただ、少し手を貸しただけだ」
いつものように、そう言った。
けれどミナは首を振った。
「でも、私たちを助けてくれました」
まっすぐな言葉だった。
俺は、何か言い返そうとした。
大したことじゃない。
偶然だ。
ガルドの腕がよかっただけだ。
俺は勇者じゃない。
いくつも言い訳は浮かんだ。
だが、そのどれも、ミナの言葉を否定するためのものに思えた。
だから、俺は短く答えた。
「……そうか」
「はい」
「なら、よかった」
ミナは嬉しそうに笑った。
その笑顔を見て、胸の奥が少しだけ温かくなった。
魔王を倒したわけじゃない。
世界を救ったわけでもない。
神器に選ばれたわけでもない。
ただ、腹を空かせた少女に飯を食わせた。
潰れかけた武器屋の道具を、別の形で使った。
村人たちに猪肉を焼いて出した。
それだけだ。
それだけなのに、目の前の少女は笑っている。
頑固な職人は、もう少し槌を振ると言っている。
村人たちは、武器屋に声をかけ始めている。
俺は勇者じゃない。
その言葉は、まだ胸に刺さる。
けれど、少しだけ形が変わった気がした。
勇者じゃない。
だから、魔王を倒せなかった。
勇者じゃない。
それでも、誰かの今日の飯くらいは守れるのかもしれない。
その日の夕方、広場の肉焼きはようやく終わった。
大猪の肉はほとんど村人たちに分けられ、残った骨や皮や牙はガルドが引き取ることになった。
罠の改良を頼みに来る者。
斧や包丁の修理を相談する者。
祭り用の大鉄板を作れないかと無茶を言う者。
バルカ武具店は、突然大繁盛したわけではない。
借金が消えたわけでもない。
材料代の問題も残っている。
ミナとガルドが明日から楽に暮らせる保証もない。
ただ、店の扉を叩く理由ができた。
それだけでも、昨日とは違う。
「レオンさん」
片付けが終わる頃、ミナが小さな包みを持ってきた。
「これ、持っていってください」
「何だ?」
「今日の猪肉です。少しですけど、レオンさんの分を取っておきました」
「俺は散々味見したぞ」
「味見と食事は違います」
ミナは真面目な顔で言った。
「ちゃんと食べてください。レオンさん、放っておくとご飯を後回しにしそうなので」
「嫌なところを見抜くな」
俺が受け取ると、ミナは満足そうに頷いた。
それから、少しだけ頬を赤くして言う。
「あの、レオンさん」
「何だ」
「また明日も、店に来てくれますか?」
「用があるならな」
「用は……作ります」
「作るのか」
「はい」
ミナは少しだけ笑った。
「父さん、たぶん素直に頼めないので。私が代わりに呼びに行きます」
「それは助かる」
「それと……」
ミナは一度言葉を切った。
「レオンさんがこの村にいてくれると、私は嬉しいです」
不意打ちだった。
俺は返事に困った。
ミナは自分で言って恥ずかしくなったのか、慌てて頭を下げる。
「あ、いえ、その、変な意味ではなくて! 村の人も助かりますし、父さんも助かりますし、私も、その、えっと……!」
「分かった」
「分かってない顔です!」
「分かってる」
「本当ですか?」
「たぶん」
「たぶん……」
ミナは不満そうだったが、すぐに小さく笑った。
俺も少し笑った。
明日もここにいていいかもしれない。
ふと、そんなことを思った。
村外れの小屋。
小さな畑。
森の獣道。
頑固な武器屋。
よく頭を下げる少女。
勇者になるための場所ではない。
けれど、今の俺が息をするには、悪くない場所だった。
その時だった。
村の入口の方が、少しざわついた。
子供が一人、広場へ走ってくる。
「村長! 知らない人たちが来た!」
オルド村長が顔を上げる。
「旅人か?」
「分かんない。でも、剣とか弓とか持ってる。冒険者みたい」
俺は広場の向こう、村の入口へ目を向けた。
夕暮れの道に、数人の人影が立っていた。
男が二人。女が一人。
装備は古く、外套は泥に汚れている。
剣も弓も持っているが、どれも手入れが行き届いているとは言い難い。
疲れている。
そして、空腹だ。
旅をしていた頃の俺には分かる。
あれは、ただ道に迷った旅人の顔ではない。
行く場所を失った者の顔だ。
その中の一人、短い赤茶色の髪をした少女が、広場に残る肉の匂いを嗅ぐように顔を上げた。
年は十八くらいだろうか。
腰には短剣。背には弓。
目つきは鋭く、こちらを警戒している。
彼女は広場の賑わいを見て、皮肉げに笑った。
「……魔物がいなくなったら、剣しか振れない奴は飢え死にしろってか」
その言葉に、俺は足を止めた。
まるで、少し前の自分の声を聞いた気がした。
勇者じゃなかった俺が、役目を失った武器屋と出会ったように。
今度は、戦う場所を失った冒険者たちが、この村にたどり着いたらしい。




