魔物の罠
ガルドが一日だけ付き合ってやると言った翌朝、俺はまたバルカ武具店に来ていた。
店の奥では、すでに槌の音がしている。
かん、かん、かん。
金属を叩く乾いた音。
炉に火が入り、炭の匂いと熱が店の中に満ちていた。
昨日まで客の気配がなかった店に、今日は少しだけ生き物の気配が戻っている。
「早いな」
俺が声をかけると、奥で作業していたガルドが顔を上げた。
「職人は朝が早い」
「昨日は一日だけと言っていたのに、やる気はあるんだな」
「勘違いするな。あの罠が本当に使えるか確かめるだけだ」
そう言いながら、ガルドの手は止まらない。
床に置かれているのは、昨日見た古い魔獣罠だった。
太い鉄の輪。
噛み合わせるための金具。
地面へ固定する杭。
獲物の足を絡め取る鎖。
魔獣相手に使うには頼りなく、普通の獣相手には重すぎる。
そんな半端な道具。
だが、だからこそ今の用途には合う。
俺はしゃがみ込み、金具の部分を覗いた。
「締める力、少し落としたのか」
「ああ。お前が言った通り、殺すためじゃなく足を止めるためなら、このくらいでいい。強すぎると肉も骨も駄目になる」
「いい判断だ」
「お前に褒められる筋合いはねえ」
ガルドは不機嫌そうに言った。
だが、耳のあたりが少しだけ赤い。
褒められ慣れていないのかもしれない。
「レオンさん、おはようございます」
店の横から、ミナが顔を出した。
両手には布と革紐、それから小さな工具箱を抱えている。
昨日より表情は明るい。
父親が槌を握っていることが嬉しいのだろう。
「おはよう。よく眠れたか」
「はい。昨日は久しぶりに、父さんも少し食べてくれたので」
「そうか」
それはよかった。
ガルドは聞こえていないふりをしているが、槌を振る音が少しだけ強くなった。
分かりやすい親父だ。
「で、ミナ。お前は何をしてる」
「罠を運ぶ準備です。革紐と布で、金具がぶつからないようにして……」
「森には来るなよ」
俺が言うと、ミナの動きが止まった。
「え」
「大猪を獲るんだ。危ない」
「で、でも、私も手伝います」
「店で手伝え」
「店では手伝いました」
「じゃあ村で待ってろ」
「嫌です」
ミナは珍しく、はっきり言った。
俺は少し驚いて彼女を見る。
ミナは工具箱を抱えたまま、真剣な顔をしていた。
「私、父さんの武器が使われるところを見たいです」
「遊びじゃないぞ」
「分かってます」
「大猪は人を跳ね飛ばす。牙で腹を裂かれたら、治療が間に合わないこともある」
「分かってます。でも……見たいんです」
ミナは一度、ガルドの方を見た。
「父さんが作ったものが、まだ誰かの役に立つところを」
ガルドの槌が止まった。
店の中に沈黙が落ちる。
ガルドはしばらくミナを見ていた。
やがて、深く息を吐く。
「足手まといになるなよ」
「父さん……!」
「森の奥までは行かせねえ。見晴らしのいい場所までだ。レオン、お前もそれでいいな」
「勝手に決めるな」
「嫌なら罠は貸さん」
「職人は頑固だな」
「元冒険者も大概だ」
俺はため息をついた。
正直、連れていきたくはない。
だが、ミナの気持ちも分かる。
父親の仕事が終わっていないと、自分の目で確かめたいのだろう。
「分かった。ただし、俺の指示には絶対従え」
「はい!」
「走るな。叫ぶな。獣に近づくな。俺が戻れと言ったら戻れ」
「はい!」
「返事だけはいいな」
「が、頑張ります」
ミナは胸の前で拳を握った。
不安は残る。
だが、その表情は昨日までよりずっと力がある。
ガルドが罠の最後の金具を締め、重い音を立てて床に置いた。
「できたぞ」
俺は罠を持ち上げる。
重い。
だが、昨日より扱いやすい。余計な部品が外され、鎖の長さも調整されている。
地面に固定する杭も、打ち込みやすい形に削られていた。
「一晩でここまで直すか」
「元が俺の作ったもんだ。どこを削ればいいかくらい分かる」
「腕は本物だな」
「だから慰めはいらねえ」
「褒めてる」
「余計いらねえ」
面倒な男だ。
だが、道具はいい。
俺は罠を担ぎ、森へ向かった。
ガルド、ミナとともに村の北側へ歩く。
村の畑を抜けると、森の匂いが濃くなった。
湿った土。若葉。獣の糞。折れた枝。
何度か狩りで入った場所だが、今日は少し空気が違って感じる。
獲物を探す狩りではない。
村を荒らす獣を仕留めるための狩りだ。
「ここからは声を落とせ」
俺が言うと、ミナは慌てて両手で口を押さえた。
そこまでしなくてもいい。
ガルドは周囲を見回しながら言った。
「本当にいるのか」
「いる」
俺は地面を指さした。
柔らかい土に、大きな蹄の跡が残っている。
普通の猪より一回り大きい。
「昨夜か、今朝方だな。こっちへ向かってる」
「足跡で分かるんですか」
ミナが小声で尋ねる。
「昔、嫌でも覚えた。魔物の足跡を見落とすと死ぬからな」
「……やっぱり、すごいです」
「生き残るために必要だっただけだ」
そう言いながら、俺は折れた低木を見る。
幹の低い位置が擦れている。
牙か、体当たりか。
近くの地面は鼻で掘り返され、根が露出していた。
「畑に降りるなら、この獣道を使うはずだ」
俺は森の中の細い道を示した。
人間には歩きにくい。
だが、獣が何度も通った跡がある。
「罠はここに置く」
少し開けた場所だった。
片側は低い崖。
反対側には太い木が二本。
大猪が突っ込んできても、左右へ逃げにくい。
「罠で足を止める。俺は木の陰から出て、首筋を狙う」
「正面から受ける気か」
ガルドが眉をひそめる。
「正面からは受けない。受け流す」
「猪相手にか」
「魔狼よりは素直だ」
「比較対象がおかしいんだよ、お前は」
ガルドはそう言いながらも、罠を設置し始めた。
手つきは早い。
杭を打つ角度。
鎖の遊び。
金具の噛み合わせ。
俺が言う前に、必要な調整をしていく。
ミナは布を渡したり、工具を取ったりしながら補助していた。
ぎこちないが、慣れている。普段から父親の仕事を手伝っているのだろう。
親子の呼吸は悪くない。
「ミナ、楔」
「はい」
「違う。そっちは細い方だ」
「あ、こっちですね」
「……まあ、合ってる」
ガルドはぶっきらぼうだが、声は少し柔らかかった。
ミナもそれが嬉しいのか、真剣な顔の中に少し笑みが混じっている。
俺はその様子を見て、少しだけ胸が軽くなった。
この罠がうまくいけば、少なくとも二人にとって何かが変わるかもしれない。
やがて罠の設置が終わった。
「よし。ミナ、ここから先は下がれ」
「でも」
「約束だ」
俺が言うと、ミナは唇を噛んだ。
だが、すぐに頷く。
「……はい」
ガルドがミナを少し離れた大木の陰へ連れていく。
そこなら、罠の場所は見えるが、大猪の突進線上ではない。
俺は風向きを確認した。
こちらの匂いは獣道へ流れていない。
問題ない。
あとは、待つだけだ。
待つのは得意ではない。
魔王城へ向かっていた頃は、いつも前へ進むことばかり考えていた。
敵を見つけ、斬り、進む。
立ち止まる時間が嫌いだった。
だが狩りは違う。
焦れば逃げられる。
焦れば死ぬ。
静かに息を整え、森の音を聞く。
鳥の声。
葉擦れ。
遠くの水音。
そして。
ずし、と低い音がした。
来た。
俺は木の陰に身を沈める。
茂みの奥から、大きな影が現れた。
普通の猪ではない。
肩までが人の胸ほどもある。
毛は黒く、背には泥が固まっている。
口元からは、太く曲がった牙が二本伸びていた。
魔物ではない。
だが、人を殺すには十分すぎる獣だ。
ミナが息を呑む気配がした。
俺は手で制する。
大猪は鼻を鳴らしながら獣道を進む。
足元の土を掘り、低木を押しのけ、まっすぐ罠の方へ。
あと三歩。
二歩。
一歩。
がしゃん、と鉄が鳴った。
大猪の前脚に罠が絡む。
同時に、鎖が張った。
「今だ!」
俺は木の陰から飛び出した。
大猪が吠える。
いや、猪は吠えない。
だがそれは、吠え声と言っていいほどの轟音だった。
巨体が暴れ、土が跳ねる。
罠は完全に止めているわけではない。
一瞬だけ動きを鈍らせているだけだ。
それでいい。
俺は正面を避け、左へ回り込む。
大猪が首を振る。
牙が空気を裂いた。
まともに受ければ腹を裂かれる。
俺は半歩下がり、牙をかわしながら剣を抜く。
魔物相手のような派手な一撃ではない。
狙うのは一点。
首筋の、毛の薄い場所。
動脈に近いところ。
大猪が再び突っ込もうとした瞬間、罠の鎖が張った。
動きが止まる。
俺は踏み込み、剣を振った。
刃が毛皮を裂き、肉に入る。
浅い。
だが、十分だ。
大猪は暴れた。
俺はさらに横へ回り、二撃目を入れる。
今度は深い。
獣の巨体が揺れた。
まだ倒れない。
最後に、俺は首の反対側へ回り込んで、短く剣を突き込んだ。
大猪の動きが止まる。
地面が震えるような音を立てて、その巨体が倒れた。
森が静かになる。
俺はしばらく剣を構えたまま待った。
完全に動かないことを確認してから、息を吐く。
「終わったぞ」
その言葉で、ミナが木の陰から飛び出してきた。
「レオンさん!」
「走るなと言っただろ」
「あっ、すみません!」
ミナは途中で慌てて止まり、そこから小走りになった。
あまり変わっていない。
ガルドも罠の方へ歩いてくる。
彼は倒れた大猪と、足に絡んだ罠をじっと見た。
「……止めたな」
「ああ」
「殺さず、足だけ止めた」
「だから言っただろ」
ガルドはしゃがみ込み、罠の金具を見る。
壊れてはいない。
鎖も持っている。
杭も抜けていない。
彼はしばらく黙っていた。
やがて、低く呟く。
「使えたのか」
それは俺に向けた言葉ではなかった。
たぶん、自分自身に向けた言葉だ。
ミナの目が潤む。
「父さんの罠、ちゃんと使えたね」
「……ああ」
ガルドは短く答えた。
その声は、少しだけ掠れていた。
俺は剣を拭い、鞘に納める。
「これだけの大猪なら、肉は村で分けられる。畑を荒らしていたなら、村人も助かるだろう」
「皮も牙も使える」
ガルドが言った。
「骨も加工できる。脂も捨てるな。全部使える」
「詳しいな」
「昔は、魔獣の素材も扱ってたからな」
その顔には、さっきまでとは違う熱があった。
役目を失った職人ではない。
素材を前に、どう使うか考える職人の顔だ。
ミナはその横顔を見て、嬉しそうに笑っていた。
それから、俺の方を向く。
「レオンさんって、やっぱりすごいです」
「罠と地形があったからだ」
「でも、最後に仕留めたのはレオンさんです」
「勇者なら、こんな獣くらい一振りなんだろうな」
何気なく口にしたつもりだった。
だが、ミナは少しむっとした顔になった。
「またそういうこと言うんですか」
「何だ」
「勇者様がどうとか、関係ありません」
ミナは倒れた大猪を指さした。
「今、村を助けてくれたのはレオンさんです。父さんの罠を使えるって見つけてくれたのも、レオンさんです」
「俺だけじゃない。罠を直したのはガルドだ」
「それでもです」
ミナはまっすぐ俺を見た。
「私たちを助けてくれたのは、レオンさんです」
言葉に詰まった。
褒められるのは慣れていない。
勇者候補だと言われていた頃は、周囲の期待を背負うことに必死で、素直に受け取る余裕などなかった。
今は今で、自分にはそんな価値はないと思ってしまう。
けれど、ミナの言葉を否定するのは、少し違う気がした。
「……そうか」
俺がそう答えると、ミナは嬉しそうに笑った。
ガルドが咳払いをする。
「村まで運ぶぞ。ここで腐らせるわけにはいかん」
「この大きさを三人でか?」
「お前、元冒険者だろ」
「元冒険者は荷馬じゃない」
「大差ないだろ」
「今のは聞き捨てならないな」
ミナがくすくす笑った。
結局、俺たちは大猪をその場で簡単に解体し、運べる分に分けて村へ持ち帰ることにした。
作業をしながら、俺はふと、バルカ武具店にあった分厚い大盾を思い出す。
あれだけ大きくて平らなら、火にも耐える。
肉を焼くにはちょうどいい。
ガルドは怒るだろう。
間違いなく怒る。
だが、村人にこの肉を振る舞えば、バルカの道具を見直すきっかけになるかもしれない。
俺は肉の塊を担ぎ上げながら、ガルドに言った。
「なあ、ガルド」
「何だ」
「店にあった、あの馬鹿でかい大盾」
「あれがどうした」
俺は少しだけ笑った。
「ガルド。あれ、鉄板にできないか?」
森の中に、ガルドの怒鳴り声が響いた。
「できるわけねえだろうが!」




