間話「ヴォイド・オレグ」
これは、俺がまだ幼かった日の事。
その日はずっと曇っていて、夜から豪雨がこの地を襲っていた。豪雨のせいもあってか、少し蒸し暑い夜だった。
建設業に携わっている父は、豪雨になるなり仕事を切り上げて家に帰って来ていた。まだ深夜になる前に父がいるのは斬新で、少し高揚感があったのを覚えている。
母はいつも通り厨房に立って夕食を作っていた。今日は父もいたので、いつにも増して豪華な夕食だ。
妹と俺は家の2階で取っ組み合いの喧嘩ごっこをしていた。少し闘いが荒ぶりだすと、母が1階から怒号を飛ばしてきたのを覚えている。
やがて夕食の時間になり、全員で卓上を囲んだ。全ての食材に感謝をし、食事を始める。
今日は父がいるからか、いつもより会話が弾んだ。いつもしているはずの他愛もない話が、何故かとても楽しく感じるのだ。
談笑を楽しみ、俺たちは食事を終えて一服ついていた。俺と妹は父の仕事の話を聞きながら、その横で母は皿を洗っていた。
そんなごく普通の家庭に事件が訪れるのは、そこから少しした時であった。
豪雨が激化し、雷雨へと変貌した。雷の音に怯える妹を嘲笑したのを、今でも覚えている。
少し遅い時間ではあったが、酔った父の話は止まる気配もなかったので、俺たちは聴衆としてその場に座っていた。
その時であった。雷鳴と共に、窓に人らしき「影」が見えたのだった。それを見て悲鳴を上げた妹を宥めていると、2回目の雷鳴が鳴った。しかし、そこに「影」はいない。
その事を奇妙に思っていたが、それはすぐに忘れた。突然、先程まで話を続けていた父が、突然俺と妹に部屋に戻って、電気を消して寝るように促したのだ。
最初は何故そう言われたのかがよく分からず笑って聞き流していたが、父が声を荒げてもう1度忠告して来たのを聞いて俺と妹は事の重大さに気がついた。──父は、普段は温和で、声を荒げた事などは絶対にしなかったからだ。
部屋の扉を閉め、俺は2段ベッドの上に登る。下から妹が「ねぇ……」と話しかけてこようとしたが、その先は言わなかった。──いや、言えなかったのだ。
下から、耳をつんざくような母の悲鳴が聞こえた。その後に父が咆哮するのを聞いて、事件が起きたのだと察した。
俺は父の言いつけを破り、部屋を飛び出した。大急ぎで階段を駆け下り、リビングの扉を乱暴に開けた。
──そして、眼前の地獄に絶望した。
母は胸を深々と斬られ、そこから出た血が肺に入りコポコポと音がしている。そしてもう光の入っていない目でこちらを見て、声が出ない中口だけが「逃げて」と言っていた。
父はたった今、黒いフードを被った「謎の男」によりその胸を剣で貫かれたところだった。自身の体を貫いた剣を見ながら、力無く吐血した。男に一矢報いようと突き出した拳も、男に到達する直前で力無くだらりと垂れた。
「謎の男」のフードの隙間から、彼が歯を出してほくそ笑んだのが見えた。してやったりと言わんばかりのその表情を見て、俺の中の何かが音を立てて切れた。
考えてから行動に移すまでに時間は不要だった。気がつけば俺は近くにあった包丁を手に男に突っ込んでいた。そこに理性や理屈などはない。俺はただ両親を失った一心で、俺はナイフを振りかぶった。
しかしそれも男の前では虚しく、男は軽々と俺のナイフを剣で弾き飛ばしてみせた。フードの内から、男が余裕の笑みを浮かべていたのがよく分かる。取るに足らない相手。俺はそう判断されてるらしい。
そして、男は俺に1つの質問を問いかけた。「妹は何処だ」と。
当然素直に妹の場所を教える訳などなく、俺は何とか男に決定打を与えるべく男の喉元を目掛けて飛びかかった。しかし、俺の手が男の首を掴む寸前の所で、見えない壁のような何かによってそれは未然に防がれたのだった。避ける必要が無いとばかりに、男は微動だにしない。
その刹那であった。俺はその「見えない壁」のような物に手が捕らわれた事に気がついた。手はその場所に固定され、それに伴って体は宙に浮いた。
男は余裕の笑みを崩さない。男が問いかける言葉は、ずっと変わらない。
──「妹は何処だ」。
俺は、絶望と恐怖に塗り潰された心で、何とか口を開かないよう堪えた。男が問いかけてくる声が、俺の頭の中にこだまする。
──「妹は何処だ」「妹は何処だ」「妹は何処だ」「妹は何処だ」「妹は何処だ」「妹は──」
その短い言葉は、幼い俺の心を徐々に蝕んでいった。それはまるで洗脳のように耳についた。
そして、既に限界を超えた俺の脳裏に、悪魔の囁きが過ぎった。
──「妹の場所を教えよう」。
俺には既に、他の選択肢が無かった。死ぬのは怖いし、男に一矢報いる事など出来っこなかったのだから。
俺の口は、既に言葉を発する準備を終えていた。しかし、肝心の声が出ないのだ。声を出そうとしても、出るのは掠れた吐息だけ。心拍数が上がり、息が上がってくる。それも相まって、まるで声が出ない。冷や汗が、体中を濡らしている。
その時であった。男が俺に問いかける声がピタリと止んだ。俺が男を見ると、彼は満面の嗤いを浮かべていた。
男は俺を束縛している「見えない壁」を解除しつつ、俺の背後にいる「何か」の元へと歩み寄った。
そして、聞き覚えのある声が悲鳴を上げた事で、俺は正気に戻った。俺の背後で男に腕を掴まれていたのは、他の何者でも無い俺の妹──コピア・オレグだったのだから。
叫んだ時には、時既に遅しであった。男と俺との間には、先程の「見えない壁」が存在しており、俺の行手を阻んでいた。叩こうが、蹴ろうが、何かをぶつけようが、それはびくともしなかった。
そして妹の口に白い布が当てられ、彼女はその場にへたり込んだ。男は妹を担ぎ、家を出て行ったのだった。
俺は、先程まで妹と男がいた、今となっては空虚である廊下を見つめていた。
もし、自分が「見えない壁」を破壊出来ていれば。もし、自分が男を殺せていれば。俺の空っぽの脳味噌は、そんなタラレバを想像していた。──そうする事で、自分に対する罪悪感が薄れる気がして。
背後を振り返って、俺は両親の遺体を見た。普通だったら、悲しみだの怒りだの、何かを感じるのだろう。しかし、俺はその時この2人の死体を見て何を思ったのか。先刻述べた感情などは、微塵も感じていない。
「無」だ。何かを感じるでも、思うでもない。ただそこに広がる光景が目に映るだけであって、脳はそれを情報として捉えていないのだ。
眼前に広がる現実が、夢だったら良かったのに。当時の俺はそれと似た事を数日間考えていたと思う。両親の血溜まりの上に座り込み、そこでただ廊下を見つめた。糞尿が垂れ流しになろうと、死体から死臭がしようと、俺は何も感じなかった。実質死ぬとは、まさにこの事なのだろう。
やがて俺の体は痩せ細り、骨ばんできた。体を動かす体力などはとうに残っていない。目を開く力すら無くなり、乾き切った俺の目は遂に閉じられた。
そこに広がっていたのは、永遠に続く闇だけ。俺はその闇に体を委ね、そのまま意識を失ったのだった。




