序章
〜視点:ヴォイド〜
手に持っている蝋燭に、蛾が集っている。蝋燭の火は微動だにしない。音もなく燃える火が、この鼠1匹いない路地裏を淡く照らしていた。
俺は、血の上を歩いた。この仕事を始めてはや3年。靴が血で湿る感覚にはもう慣れた。
「……あ、うぅ…………」
……まだ生きていたのか。
俺は何も言わず、男の心臓を刀で貫いた。男が吐血し、俺の足に血がかかる。
男は息絶えた。死体から流れ出る血が、舗装もされていない道に染み入っていく。
……まず、上司に任務完了の報告をしよう。
ポケットに手を突っ込み、通信端末を取り出してメールを入れる。
『任務完了。直ちに帰還する』
そのメールに対して、いつもなら『了解』と返ってくるはずなのだが、今日はそれに追加事項が含まれていた。
『今、裏切り者のサージャの家族を皆殺しにすべく、バッツとガッツが向かった。仕事が終わったのなら、そっちに合流してくれ』
ニゲルから送られてきた、追加の任務である。
「サージャの家族を皆殺し」、か。やはり仮にも仲間の家族を殺すのだから、思うものが無い訳ではない。──だが、仕事は仕事だ。受諾する以外の選択肢は俺にはない。
すぐさま『了解』と返信をし、送られて来た位置情報の場所に向かう。
ニゲルの命令は絶対だ。もし命令に逆らえば、俺の所属する組織──クレオ・デウスの掟上、サージャと同じ結末を辿る事になるのは目に見えているのだから。
クレオ・デウス。俺のいる穢界を牛耳る組織であり、先刻説明したように俺が所属している組織だ。
主だった仕事は穢界に暮らす貧しい人々に食料を配給する事。そこで使う資金は、俺たちクレオ・デウス第4課──「血濡れた狩人たち」が殺しの仕事で調達する。
平界の人々から差別され、虐げられた者たちが暮らす穢界。当然彼らは貧しく、ホームレスとして瓦礫に暮らしている人だっている。そんな人々にとって、クレオ・デウスは救いの象徴であり、頼れる存在なのだ。
俺は、穢界の人々が良い暮らしをする事が出来るように、自分の手を汚す。例え、何か犠牲を払う事になったとしても。
〜視点:少女〜
「どこに行ったのだ、あの餓鬼は!! ニゲル様が殺せと言った、あの餓鬼は──ッ!!」
穢界のとある路地裏にて。腰に大剣を携えた殺し屋が、鬼気迫る表情で私を探している。私はひたすら、抱き抱えていた弟が泣き喚かないよう、必死に弟をあやしていた。
殺し屋に見つかれば、待っているのは死のみ。奴らは母を殺し、そしてその家族までも殺そうとしている。近年、こんな殺人事件は頻繁に起こっている。それも全て、この殺し屋の所属する組織──クレオ・デウスが引き起こした出来事なのだろうか。
あの救いの象徴であったクレオ・デウスは、もう影も形もない。今はただ、血走った目の殺し屋を雇っている組織となったのだから。
殺し屋の足音が遠ざかっていく。その隙を見て、私はその場を飛び出した。足音の向かった方向とは逆の方向に、私は駆け出した。
弟の翡翠の双眸が、私の腕の中からこちらを見つめている。負の感情に塗れたその瞳には、涙が溜まっている。
今は日暮れ。蝋燭などは持っていないので、足元がよく見えない。
「──見つけたぞ!! この糞餓鬼がァァァッ!!」
「──う、嘘でしょ!?」
逃げる先すら見えないのだ。角を曲がった先で、殺し屋の仲間らしき男に見つかってしまった。
身を翻した所で、先程逆方向に行ったはずの殺し屋に腕を掴まれてしまった。
「捕まえたぞ、この餓鬼ィ! 抵抗なんかするんじゃないぞ。抵抗した暁には、お前の首は胴体と永遠におさらばだ!」
殺し屋が、私を男に引き渡す。男の両腕は、私をしっかり捕らえている。
そして、殺し屋が私の腕から弟を引き剥がした。それに恐怖を感じた弟が、大声で泣き喚き始めた。
「泣くんじゃねぇ!! ぶっ殺すぞ、この餓鬼が!!」
その「ぶっ殺す」という言葉は、決して脅し文句なんかじゃないだろう。この殺し屋は、弟を本当に殺すつもりなのだ。
殺し屋は弟に憤りを見せていたが、それはやがて殺意へと変わった。それもそのはず──
「──こ、この臭いは!? テメェ、まさか……!!」
殺し屋が弟を抱えている腕からは、尿が滴り落ちている。当然殺し屋はこれに憤慨し、剣を抜いた。そして、剣は弟を目掛けて一直線に振り下ろされる──
「──やめてぇぇぇぇぇぇええええええ!!!」
腹の底から絶叫した。それに対して返ってきたのは、返事ではなく生暖かい弟の血飛沫だった。
「うるせぇぞ糞餓鬼ィ!! デケェ声で叫んでんじゃねェ!!」
母の命を奪い、そして今、弟の命まで奪った。
「大体、テメェの母親がクレオ・デウスを裏切るのが悪いんだ!」
「クレオ・デウス」。この男たちが所属する──私の家族を皆殺しにしようととしている──殺し屋集団。
「テメェも、この糞餓鬼みたいに死ぬんだよ!!」
──許さない。この邪智暴虐たる者たちをこの世に生かしておいて良いものか。
頭が、怒りの余り真っ白になった。血が頭に上り、理性が吹き飛ぶ。
本能のままに、殺し屋たちを攻撃しようと動いたその時だった。
『──お主の意思、しかと受け取ったぞ。我から、お主に救い船を出そう』
どこからか、そんなどこか懐かしいような“声”が聞こえた気がした。──いや、理性と共に判断力も吹き飛んでいたので、何かが聞こえた気がした、というのが正解だろう。
その瞬間、この場に赤ん坊の泣き声が響いた。それは、私のよく知る泣き声だった。
「お、おい。この赤ん坊、息を吹き返したぞ……!?」
「お、お前、さっき剣で斬ったよなぁ……?」
「──ああ斬ったよ! 確かに斬ったし、心臓が止まったのだって分かった!!」
弟が、息を吹き返したのだ。理由は分からない。ただ、弟は確かに泣き声を上げている。
私はそこで、先刻の奇妙な一瞬を思い出した。
「“声”……!!」
確かに、自分の耳に聞こえたあの“声”が、この奇跡を起こしたのだろう。確信などはどこにもないが、私はそう判断した。
「お、おい。なんでコイツが生き返ってんだよ……!!」
「知るか!! 生き返ったんだったら、また殺せば良いだけの話だろ!?」
「た、確かにそうだよな。もしかしたら俺が殺し損ねただけかもしれねぇしな……」
私は、男の腕から抜け出した。先程まではしっかり捕らえられていたと思っていたが、意外にもそんな事はないのだと気づいた。
「て、テメェ! 何逃げようとしてんだ!」
「それ以上動くな!! 動けばこいつを殺す!!」
……「こいつを殺す」、ねぇ。
「そんな事、私がさせない──ッ!!」
脳で考えるのよりも早く、私の体は動いた。自分でも信じられない程の速さで、殺し屋の懐に潜り込む。
そして、密かに男から盗んでおいた短刀を殺し屋の胸に突き刺した。
殺し屋が痛みのあまり咆哮する。そして私は、突き刺した短刀を軽く捻った。短刀を刺した場所から、血が大量に噴き出る。本日2回目の、血飛沫を浴びる瞬間である。
「な、何してんだガッツ……!! 俺を助けやがれ……!!」
殺し屋が、ガッツと呼ばれた男に向かって助けを乞う。ガッツは返事の代わりに、腰に携えていた剣を抜いた。
「死ね、糞餓鬼が!!」
ガッツは素早く間合いを詰め、私に目掛けて剣を振った。私は短剣を構え応戦しようとしたが、それが叶わないと理解するのに時間は要らなかった。
──死ぬ。真っ先に見えたのは、自分がこの剣に一刀両断にされる未来だ。
……よく考えれば、まだ剣すら握った事のない私が、こんな大男2人相手に勝つ未来など無かったのだ。殺し屋に致命傷を与えられたのは、ほんの偶然だったのだ。
脳天に、確かな痛みを感じた。血管が、神経が、骨が。肉体が絶たれていく感覚と激痛が、全身を駆け巡った。痛みのあまり、脳が思考する事をやめている。
剣の刃が、私の胴体まで到達する。激痛の範囲が広がるにつれ、それが波紋のように全身に伝わっていく。
私の胴体は一刀両断された。体は既に、生物としての活動を辞めている。思考だけがただ、朧げながら働いている。
思考と言っても、ただ激痛がままに「痛い」と感じているだけだ。特別な事は考えていない。いや、考えられない。
声にならない絶叫が、私の脳内で轟いた。「死ぬ」。そう感じた時にはもう遅かった。
私は、死んだのだった。




