8/4、∞「失楽園」(終)
8/4
約束の午後七時に舞游は再び部屋にやって来た。
「觜也、早速聞かせてくれる?」
彼女は僕の前に立つと、上半身を前傾させて両手を僕の膝の上に着いた。
「ああ、分かった」
僕は既に真実に辿り着いていたし、それをどんなふうに話すのかも考え終えていた。
「僕は環の内側に閉じ込められた観測者なんかじゃなかった。僕は初めから環を構成するアイオーンのひとりだったんだ。いや、ひとりではなく、一対二人だな。僕も皆と同じように二人に分裂していた」
舞游は嬉しくて堪らない、楽しくて堪らないといった表情で「うんうん」と頷きながら聞いている。
「僕が便宜上始点と終点を定めているなんていうのは、僕を欺くために用意された詭弁に過ぎなかったんだ。さらに四対八人組のオグドアスというものがやたらに強調されていたのも、同じミスリードのひとつだった。オグドアスのいる最奥の領域だけを指してプレーローマと呼ぶことがあるのは確かだけど、でも本来プレーローマとはオグドアスのそれだけを指すんじゃない。この環楽園もそれは同様で、此処は四対八人組で構成された環ではなく、五対十人組で構成された環なんだ。日数だけはまさしく四対八個組の〈八日間〉だったから、尚更僕はその先入観から抜け出せなかった。だけど殺人リレーを為す死体の数と日数が同じでなければならない理由はどこにもない。日数はあくまで僕らに付随するものとして二倍になったに過ぎないんだからね。
この〈十の環〉における殺人リレーは、僕から見た〈八日間〉においてはまず舞游が殺されて、それから杏味ちゃん、霧余さん、有寨さん、僕、舞游、杏味ちゃん、霧余さん、有寨さん、僕というかたちだ。僕視点である以上最後はこの僕でなければならないから、自動的に、第一の被害者は舞游でなければならなくなる。でも僕が最初に見た死体は杏味ちゃんのものだった。皆も彼女こそを第一の被害者として扱った。これもまた、巧妙なミスリードだったんだ。僕が始まった後にまず殺されたのは杏味ちゃんではなく、舞游だった。
じゃあ、それはいつだったのか……僕は始まった後、しばらく眠っていた。きっとその間だろう。僕が最初に目覚めたときに傍らにいた舞游はいま僕の目の前にいるお前じゃなくて、あの時点で〈五日目〉の舞游だったんだ。
それから僕はシャワーを浴びたくなって、そのまま浴場に行ったね。僕はシャワーを浴びている最中に男の叫び声が聞こえたような気がしたのを憶えてる。きっと風の音だろうと思ったけど、あれは時を同じくしてリビングで円卓の上に乗った舞游の死体を見た〈五日目〉の僕があげたものだったんだ……僕は〈五日目〉に舞游の死体を発見したとき、喉が裂けんばかりに絶叫したからね。その後この〈五日目〉の僕は〈七日目〉の杏味ちゃんに誘われて北館へ向かい、南館のリビングでは隣の調理室にでも潜んでいたんだろう〈二日目〉の霧余さんが舞游の死体を急いで片付けた。この僕は浴場を出た後に図書室で〈三日目〉の杏味ちゃんと話すことになったけれど、あれは僕がリビングに着くのを遅らせるために時間稼ぎをする必要があったからだ。
僕がリビングに到着したときに席に着いていたのこそ、いま僕の目の前にいるお前……あの時点では発生したばかりである〈一日目〉の舞游だった。あのときお前がやけに楽しそうだったのを憶えてるけど、それは環楽園が見事に具現していると霧余さんからでも聞かされた直後だったからだ。これはちょっとしたミス……いや、僕に向けた伏線だったんだろうけど、〈五日目〉の舞游はトレーナーを着ていて〈一日目〉の舞游は制服を着ていたから、僕はてっきり晩餐に際して正装かなにかのつもりで着替えたのかと思ったよ。〈五日目〉の舞游はこのときには既に北館に行った後だろう」
ここで僕は説明に一旦区切りを入れた。が、舞游は待ちきれない様子で「続けて」と云う。
「話す順番が前後したけど、つまりこういうことだ……環楽園で繰り返される〈八日間〉は分裂したすべての同一人物にとって同一であり、どの時点においても〈前半〉と〈後半〉の二つが重複している。
これが分からなかったのは、僕もまた殺人リレーに組み込まれていて分裂していると知らなかったせいだよ。僕はひとりしかいなくて、その僕の〈八日間〉に皆が合わせているとばかり思っていた……思わされていた。よって分裂した人々は、そのどちらかによって別の〈八日間〉を過ごすことになる……分岐するんだと考えるしかなかったんだ。
でもこれは一見筋が通っているようでいて、実は不自然極まりない話だ。まず観測者なんていうものの機能や仕組みが曖昧だし、環の内側に閉じ込められている状態というのも抽象的すぎる。僕の始点と終点が片方の舞游に合わせたものというのもどうしてそうなったのか、どうしてそんなことができたのか分からない。さらに僕自身が始点と終点においてどういう扱いになるのかも不明だ。僕は漠然と、終点を迎えたら存在が消滅して、リセットされた僕が新たに始まるのかと想像したけれど、アフガン・バンド・トリックやプレーローマの概念なんかを取り入れた理論が確立されている他の四人と比べて、これはあまりにもあやふやで自由すぎる。僕が共に過ごすことのない舞游がどんなふうにしてるのか、いくら命令されているからと云ってその舞游がそれを完全に受け入れられるのか、なんていう疑問も尽きない。
だから実際はそんな漠然とした話じゃなく、僕も等しく分裂しているという話だった。これに気付けば、環楽園の仕組みはすぐに導き出せたよ。つまりさっき云ったとおり、分裂されても同じ〈八日間〉を過ごすということ。……当たり前だ。アフガン・バンド・トリックによって二人に分裂した人間は〈同一〉で、それに付属するものも〈同一〉に分裂する……なら生み出された〈八日間〉も〈同一〉にならなければおかしい。
もっとも、皆が僕視点のそれを基準として生活しているのは本当だ。これは舞游がそうさせたんだろ。……霧余さんと杏味ちゃんは有寨さんから有寨さんの考えとして聞かされているに違いないけどね。
じゃあ次は、僕視点の〈八日間〉なるものの続きを話すよ。
〈一日目〉はさっき話したとおりだ。僕の発生と同時に〈三日目〉の杏味ちゃんと〈二日目〉の霧余さんと〈二日目〉の有寨さんが北館から南館にやって来る……この三人は〈五日目〉の僕が北館へ向かうまでは身を潜めていたんだね。それから発生したばかりの〈一日目〉の僕と〈一日目〉の舞游……以上の五人がこの日の夜に南館にいた人間だ。
〈二日目〉に日付が変わった後だろう、内側からの手引き……リビングにある扉の閂を外すことで、北館から〈八日目〉の杏味ちゃんと〈七日目〉の霧余さんを迎え入れる。〈七日目〉の霧余さんが杏味ちゃんの客室で〈八日目〉の杏味ちゃんを殺害し、身体を切断する。そしてこの〈七日目〉の霧余さんとその時点では〈五日目〉になっていた杏味ちゃんは北館へ去る。新たに発生した〈一日目〉の杏味ちゃんがどこで発生するのかは知らないけど、南館で発生するならこのとき一緒に北館に連れていくんだろう。……いや、ごめん、忘れてた。〈五日目〉の杏味ちゃんか〈一日目〉の杏味ちゃんのどちらかは南館に残って、朝にリビングのピアノを弾いたんだったね。それから一旦身を潜めて、僕がリビングにいない間に北館へ去り、南館の誰かが後から閂を掛けておいたんだ。
僕らはといえば、昼に杏味ちゃんの死体を発見。当然、このときの僕は彼女が第一の被害者であると思い込んだ。あとはずっと一緒にいたお前が知ってるとおりだ。
〈三日目〉に日付が変わると、今度は北館から〈八日目〉の霧余さんと〈八日目〉の有寨さんがやって来た。それと入れ違いに〈四日目〉の霧余さんは北館へ。朝方になってから……おそらく浴場で、〈八日目〉の有寨さんが〈八日目〉の霧余さんを殺害、切断した。そして僕と舞游と〈四日目〉の有寨さんがリビングに這入るとすぐに霧余さんの死体を階段やロビーで引きずり回し、自分は身を隠した。この後に僕らは屋敷中を捜索したけど、部屋の中を見て回ったのは〈四日目〉の有寨さんだったから、彼はどこかの部屋の中にいた〈八日目〉の自分のことを黙っていたに過ぎない。〈八日目〉の有寨さんはこの後すぐに北館へ去り、後から〈四日目〉の有寨さんが閂を掛けておいた。新たに発生した〈一日目〉の霧余さんについては、さっきの杏味ちゃんのそれと同様だ。
〈八日目〉の有寨さんもまたこの日の夜に殺されるけど、これは北館の浴室で〈七日目〉の僕によって殺され、切断された。
日付変わって〈四日目〉だ。午前中に〈八日目〉の舞游が有寨さんの死体を持って南館にやって来て、〈六日目〉の有寨さんが入れ違いで北館へ行った。このときに〈八日目〉の舞游は閂を掛けるのも忘れなかった。それで有寨さんと霧余さんの客室に這入り、内側からバリケードを築き、クローゼットの中に隠れた。昼に僕と〈四日目〉の舞游がやって来て、僕がクローゼットの前を通過した直後に〈八日目〉の舞游は僕の背後に続く。〈四日目〉の舞游は僕に黙って姿を消し、浴場へ行く。その後すぐに〈八日目〉の舞游はシャワーを浴びたいと云って浴場に這入り、ここで再び二人の舞游は入れ替わった。〈四日目〉の舞游は僕を誰も使っていなかった二階の客室に連れていって、此処で僕は眠った。
眠っている間に〈四日目〉から〈五日目〉に変わる。つまり〈八日目〉の僕が殺されて、南館の僕の客室で〈一日目〉の僕が発生するわけだ。このために、舞游はこの僕を自分の客室では眠らせなかったんだ。また、僕が眠っている間に〈八日目〉の舞游もリビングの円卓の上で〈七日目〉の杏味ちゃんに殺される。僕と一緒に眠る振りをしていた〈四日目〉……このときには〈五日目〉か……〈五日目〉の舞游は部屋を出ると〈一日目〉の僕が目覚めるのに立ち合い、その僕が浴場へ向かうのを見届けてから北館へ行った。
この僕が目覚めたのはその直後だった……この時刻に起きるように時計のアラームがセットされていたんだからね。僕は隣で眠っていたはずの舞游がいなくなっていると気付き、すぐさまリビングに向かった。円卓の上の舞游の死体を見て絶叫。それから〈七日目〉の杏味ちゃんに連れられて北館へ。北館では〈六日目〉の有寨さんと〈六日目〉の霧余さんが僕を待っていた。
〈六日目〉に日付が変わると、北館にいた〈八日目〉の杏味ちゃんは〈七日目〉の霧余さんと共に南館へ向かった。バーで話している最中に杏味ちゃんがそろそろ時間だとか云って出ていったけど、あれはそういうことだったんだ。
この日は昼間のうちは特になにも起きなかったけど、夜になって僕は北館に二人の杏味ちゃんがいることに気付いたんだったね。これは〈一日目〉の杏味ちゃんと〈五日目〉の杏味ちゃんだった。南館で杏味ちゃんは死んだことになっていたから、二人ともが北館で生活することになったわけだ。
日付変わって〈七日目〉。僕は屋敷の裏の死体の山を目にして、部屋を出るとそこには有寨さんと二人の杏味ちゃんと二人の霧余さんがいた。この〈八日目〉の有寨さんは朝に〈八日目〉の霧余さんを南館の浴場で殺してその死体を引きずり回し、それから北館に帰ってきた直後だった。二人の杏味ちゃんはさっき説明したとおりだし、霧余さんも南館ではもう死んだことになったために、杏味ちゃん同様二人ともが北館で生活することになったんだ。
夜になると僕が〈八日目〉の有寨さんを浴室で殺害、切断した。僕はその後すぐにお前によって気絶させられた。
そして〈八日目〉。今日だ。僕が目覚めたのは午前七時だったね。〈八日目〉の舞游であるお前はこの部屋を出ていった後、昨日僕が殺して切断した有寨さんの死体を持って南館に行ったはずだ。そこで昼に例の入れ替わりトリックを済まして戻ってきた。
これからお前は僕を殺し、切断する。僕の死体は、〈八日間〉において僕の目に触れることのない場所に捨てられるんだろう。たぶんこの北館の裏で、東側の方だ。僕は西の端の方にある部屋の窓から裏を見るだけだから、そこにさえ僕の死体がないようにすればいいというわけだね。
この僕の死と同時に、南館には眠った状態で〈一日目〉の僕が発生する。また、現在も南館では〈四日目〉の僕が眠っているんだ。お前は僕を殺して切断した後に南館に行き、リビングの円卓の上で〈七日目〉の杏味ちゃんに殺される。このときにいま北館にいる〈三日目〉の杏味ちゃんと〈二日目〉の霧余さんと〈二日目〉の有寨さんも南館に移り、それから発生したばかりの〈一日目〉の僕の前で茶番を演じ始めると既に決まっている。
……以上が僕の〈八日間〉だよ。僕が主に〈前半〉を南館、〈後半〉を北館で過ごすようにされているのは、二人の僕が絶対に対面しないように、また、〈前半〉と〈後半〉が同時に重複していると分からせないようにするためだ。この北館の窓が昼もカーテンで塞がれているのだって、互いに館の電気が点いていることを分からなくさせるためなんだ。
こうして〈前半〉と〈後半〉が同時に重複しているからこそ、環楽園は成り立っている。このおかげで環楽園はどこを始点として一周させても〈八日間〉のうちに十人による殺人リレーが完遂されるかたちとなり、〈十の環〉足り得る。さらに環楽園というものに〈始まりも終わりもない〉以上、やはり分裂した同一人物がそれぞれ過ごす〈八日間〉は〈同一〉でなければならない。これは〈十の環〉にその中点を通る直線を引いたとき、二つの接点が常に完全な〈同一〉になると同義だ。それこそが〈始まりも終わりもない〉ということで、環楽園を〈充満世界〉であり〈超永遠世界〉足らしめ、真の〈循環〉を具現させている。これこそ完全な閉じた環……究極のクローズド・サークルと云える。それが舞游、お前の創った環楽園の正体だ。環楽園は真に完成している」
溶けてしまいそうなくらいうっとりとした表情で僕の話を聞いていた舞游は、そこでゾクゾクッと身震いしたようだった。しかしまだ足りていないところがあるのだろう、彼女は破顔するのだけは堪えている。
「どうして私がそんなことをしたのか、分かる?」
僕は首を縦に振った。
「有寨さんは〈充満〉、霧余さんは〈真実〉、杏味ちゃんは〈信仰〉を環楽園で目指した。そして環楽園の最大の本質である〈永遠〉を求めたのこそが舞游だ。お前は僕と永遠に共にいられる世界を創った。永遠に僕と結ばれ続け、永遠に僕と離れることのない世界だ。
この〈八日間〉はまさに僕と舞游が結ばれるためのものだった。此処に来ない限り、僕と舞游の関係がこうも急激に深まることはなかっただろう。それはもしかしたら訪れすらしなかったかも知れないし、そうじゃなくてもかなり長い時間を要するはずだった。僕とお前は友達として長い時間を過ごしてきたために、その関係を変容させる機を失ってしまっていたからだ。だからこの〈八日間〉はその機会を設け、さらに僕と舞游が辿る道として最も理想的なそれを凝縮し、収める役割を持っていた。ゆえにその過程と対応するかたちで僕が徐々に真実に導かれていくように仕組まれていたし、それに伴ってちゃんと僕とお前は相手に対する想いに正面から向き合い、結ばれていった。
僕とお前の関係というものは〈八日間〉を経て最高点に達した。僕はお前を守るためにどんな罪を背負っても、どんなに自分を犠牲にしても構わないと心からお前に伝え、事実そのとおりに行動した。お前にとってこれ以上の絶頂はない。僕とお前は愛の極みに至ったんだ。そしてお前はこれを永遠のものにしたいと考えている。そのための環楽園だ。
僕とお前は極みに至り、それはこの先衰えるようなことが絶対にない。完結を迎えながらにして、終わることがない。なぜならこの〈八日間〉は永遠のものだからだ。僕達は永遠に結ばれ続け、永遠に離れない」
しばらく、僕と舞游は無言で見詰め合っていた。
「それで……觜也の答えは? この〈真実〉に対する……それから私に対する答えを、聞かせて」
このときだけは、舞游も緊張の面持ちだった。
あとは僕がすべてを受け入れて、彼女に殺されればいい。僕がそう答えればいい。
それだけで、彼女の願いは成就する。この遠大な殺人計画が、永遠に始まることになる。
しかし彼女のそんな表情を見ても、僕はここから先を話すことをやめはしない。
既に決めている。
答えは出ているのだ。
先程までと口調を変えずに、僕は続けた。
「僕の腕時計を盗ったのはお前だね」
これが、決定的なひと言だった。
完全だったはずの楽園が、崩壊する。
「え?」
虚を衝かれた様子の舞游。無理もない。
先程までは、舞游によって暴かれるよう設定されていた話。
だがここから先は、暴かれないはずの話。暴かれたくないはずの話だ。
僕は気付いてしまったのだ。舞游と出逢った日からのすべてを回想したがゆえに。
どうしようもなく、気付いてしまった。
「おそらく、僕が〈四日目〉と〈五日目〉に跨って眠っている間に盗ったんだろう。僕の腕時計は電波時計だった。正確な時刻と日付を表示してしまう」
「なにを云ってるの、觜也」
彼女は、わなわなと震え出す。僕は続ける。
「僕らが此処にやって来たのは十二月二十五日だった。環楽園では〈四日間〉がアフガン・バンド・トリックにより〈八日間〉となって繰り返されるから、僕らは二十五日から二十八日の中を永遠に回り続けていることになるはずだ」
「駄目。嫌だ。やめて」
「なのに腕時計が今日を十二月三十一日と表示していたら、お前にとって都合が悪いもんな」
「やめてってば!」
舞游が僕の肩をがしりと掴んだ。僕はその手首に刻まれた傷に視線を落とす。袖の先から二文字までが露わになっている。だが一昨日は浴場で、それから昨日はベッドの上で、僕は四文字を読んでいた。
「『AUOP』――お前が手首にこの文字を刻んだのはどうしてだ?」
顔面蒼白。舞游は目を見開き、言葉を失ったらしい。僕を映した瞳が蝋燭の炎のように揺れている。
「お前が昔、学校に持ってきた人形にも書いてあったな。人形じゃなくて鞄だったか? よく思い出せないが、他の場面でも目にしたことがある……。だけど、これは啓示のつもりじゃなかったはずだ」
僕に向けたヒントではなかった。リスト・カットの傷は、僕と出逢う前からそうだった。
「小文字にして『auop』――これを百八十度ひっくり返せば――『clone』と読める」
これで充分だった。充分以上だった。
環楽園理論なんてものは、机上の空論。
一対二人への分裂など起きていない。永遠に繰り返される〈八日間〉など存在しない。
すべては演出。クローン人間達が演じるお芝居。参加者のうち僕だけが、台本を渡されていなかった。
「……『高度に発達した科学は魔法と見分けがつかない』って、云ってたよな?」
しばらくの間が必要だった。永遠にも思われるような間が。
やがて、もはや揺れていない虚ろな目を僕に向けたまま、舞游は力ない声で話した。
「私の父親は、お兄ちゃんと私を巻譲の家に売ったんだ……私達は秘密裏に行われているクローン事業の被検体になった……『AUOP』は、そのクローン事業の名前だよ……下らない暗号だよね……」
僕から離れる舞游。両目にわずかな涙が浮かんだ。
「ごめんなさい。こんなの、なにも面白くないよね。ごめんなさい。上手く騙せなくて」
酷い失意の念か。ふらふらとよろけながら、部屋の隅に置かれていた斧を手に取る。
「これじゃあ無意味だ。失敗してしまった。なんの意味もない。私は……」
斧を床に引きずりながら、近寄ってくる。眉間には情けなく皺が寄っている。
「たったひとりの貴方と結ばれて、私は私になるはずだったのに……」
「これは失敗ではないんじゃないか」
「失敗だよ。もう私と貴方が真に理解し合うことはできない」
「僕がこの隠された事実に気付かずに、お前に殺されていたとしても同じだろ。いま、『上手く騙せなくて』と云ったよな。僕はともかくとして、残されたお前はその結末を真実と思えたのか? 僕達は全然、完成していない。話はまだ途中だ。僕が気付いたとしても、気付かなかったとしても、お前は僕を殺したらいけないんだよ」
「それは、殺されたくなくて、調子の良いことを云ってるだけ?」
舞游は壊れそうなくらい哀しく、首を傾げた。
彼女は目の前に立っている。
斧を振り上げて、振り下ろせば、それだけで僕を殺すことができる。
「こうなったら私、もう貴方のことを信じられないんだよ」
「僕が環楽園を受け入れて殺されたなら、信じることができたのか」
「そうだよ。それは損得を越えた選択だから、真実だと思えた」
「随分と勝手な云い分だな」
果たしてこの子は、無数に製造されたクローンのひとりなのか、オリジナルなのか。
もしかすると彼女自身でさえ、自分を自分と確かめられていないのかも知れない。
彼女はなにも分からなくなってしまった。なにも信じられなくなってしまった。
ゆえに彼女はすべてを掌握しようとしたのだ。このシナリオをつくり上げたのだ。
環楽園であれば、其処には真実があるはずだった。充満があるはずだった。彼女はその時間を固定して、永遠となれるはずだった。
しかしそれが崩れてしまっては、この世界は彼女にとって再び、確かなものがひとつとしてない混沌だ。すべてを還元させる体系的理論はない。
此処では、誰の言葉も彼女に届かないのだろうか。
彼女は僕と出逢う前から一切変わらず、孤独なままだったのか。
「それじゃあ、いつまで経っても救われないよ、お前は」
「もういいの。終わりにするから……」
「楽になりたいだけじゃないか」
「やっぱり私を責めるんだね!」
荒げられたその声に反応するかのように、扉がバンと音を立てて開け放たれた。知らない黒服の男達が三人、這入ってくる。彼らの背後では有寨さんが腕を組んでいる。
「觜也くんを殺すことに意味はない。舞游、残念だけどお前の負けだよ」
舞游は引きつった顔で兄を睨む。僕は彼女だけを見ている。
このままではまずい。慌てて呼び掛ける。
「聞いてくれ、舞游! 僕はお前を救いたいんだ!」
男達が僕の腕に手際良く注射針を刺す。動悸がする。恐ろしい脈動を感じる。
「永遠なんて捨てるんだよ。僕と続きを生きていくん――」
たちまち呂律が回らなくなる。効果覿面じゃないか。
「まゆう――あい、し」
霞む視界の中、彼女の崩れそうな泣き顔を最後に見た。
∞
目覚めると自宅のベッドの上だった。一月一日の朝。新年を迎えていた。
はじめこそ発狂しそうになったけれど、徐々に状況を受け入れられた。
部屋に籠って、ひたすらに最後の時のことを考えた。もっと上手くやれたはずだった。あれは酷い疲労感と妙な高揚感が、正常な思考力や判断力を奪っていたのだと思う。伝えたいことがたくさんあった。いくら後悔しても足りなかった。
冬休みが終わり、僕は暗澹たる気持ちのまま登校した。前を通るとき、なんとはなしに舞游が所属する教室の中をちらりと見て、そこに舞游の姿を見とめた。
言葉を失い、しかし身体は動いていた。
扉を開けて、窓際の席に座る彼女のもとへ駆け寄った。
「舞游……」
枯れた声で、救いを求めるように、その愛おしい名前を呼んだ。
彼女はこちらに振り向いて、不思議そうな顔をした。
机の上に置かれた両手。その手首には、なんの傷もない。
僕は溢れ出す想いを必死に抑えて、努めて優しく、言葉を続けた。
「はじめまして」
『環楽園の殺人』終。
20歳の春に書いた小説でした。




