第9話 お花見・たまご・リスタート(前編)
こちらのお話は、
・二人がご飯を作って食べるだけのお話です。
・ファンタジー要素はありません。
・幽霊、あやかし要素はありません。
・ミステリー要素はありません。
また、科学的説明はあくまでスパイスです。
つまらなかったり、面倒くさければ、読み飛ばしてもらっても全然大丈夫です。
以上の点にご注意の上、お腹を空かせてお読みください。
☀☀☀
朝日を感じ、ゆっくりと目蓋が持ち上がる。
昨日は雨に濡れて帰って来たので、肌は凍えるように冷たかった。
アルコールの回った頭は、金槌で打ち付けたみたいにガンガンと響いている。
布団から起こした体が鉛のように重たいのは、心がそうだからだろうか。
普段の自分なら、あれだけの酒を飲めば何も覚えていないことの方が多いのに……
うららはうなだれるものの、物事はそう都合よくいかなかった。
結局、酔いから覚めてみれば、残っているのはみじめさと後悔だけだった。
大きく息を吸う。
灼けた喉がヒリヒリしびれると、昨日放った言葉の響きを思い出してしまう。
やっぱり、鳥見川さんみたいに、うまくいかないや——
「あ~~~、最悪だ」
それはこの状況か、それとも自分自身か、うららは自問する。
そして、おそらくどちらもだという答えに至ると、ぼふんと枕にヘッドバットをお見舞いした。
どうして、あんなことを言ってしまったんだろう。
努力が実らなかったことも、それによる不安も、全部自分の責任だ。他人を羨んだところで、何も変わらないというのに。
まして、氷彗にそれをぶつけてしまうなんて……大馬鹿だ。
目蓋を閉じると、今にも泣きだしてしまいそうな彼女がいた。
うらら【ごめんね】
スマートフォンの液晶越しに、無機質なゴシック体を入力する。
でも、臆病な親指はいつまでたっても、送信ボタンを押すことはなかった。
☀☀☀
不調を理由に休んでしまおうかとも考えたが、一人で部屋にいるとどこまでも沈んでしまいそうだったので、研究室には行くことにした。
自分の席に着くと、うららはデスクトップPCを起動させ、次に投稿する学術雑誌を調べ始める。審査に落ちた論文は、そのままお蔵入りするかというと、そんなことはない。大抵、改稿を加えて別の雑誌に再投稿を繰り返すのが普通である。
ちょうど、落選した小説を別の新人賞に再応募する行いとよく似ている。
うららはTexエディタを立ち上げ、再投稿先の掲載様式にのっとり、論文を直していった。面倒な上に、出来たところで進捗が生まれるわけでもないが、何も考えずにできる単純な作業だ。
今は、頭が働かないのでちょうどいい。
そうして、うららはくすぶった胸の内側から必死に目を背けるように、作業に没頭した。
「塔山さん……塔山さん……」
どれだけの時間、集中していただろう。
うららは田宮に肩を叩かれるまで、全く気が付かなかった。
「っ!? は、はい!?」
「あぁ、やっとこっちに気付いてくれました。大丈夫ですか?」
「え? そんなに私、ボーっとしていましたか?」
時間を確認しようと視線を画面から外すと、研究室は夕日でオレンジに色付いていた。
「えぇ、かれこれ数時間はそんな状態でしたよ。学生が何度かあなたに尋ねに来ましたけど、ピクリとも反応しませんでした」
「す、すみません……」
「無理もないです。数カ月闘った挙句、棄却をくらった時は、僕も相当へこみましたよ。それに、今回の棄却は、僕の知る限りでも結構理不尽なものでしたからね……ともあれ、修正稿で議論の穴は埋めましたし、次の雑誌ではきっと受理されますよ」
田宮はこちらの胸中を推し量ったように、元気づけてくれた。
「……はい」
そう答えるものの、うららは半分うわの空だった。
胸が重たいのは、確かに田宮の言ったことが発端だ。しかし、今はそれ以上に、氷彗の存在が大きかった。
その実感を持って初めて、うららは悟る。
過ごした時間はまだ短いかもしれない。それでも、自分の中で、氷彗は単なる後輩とひとくくりには出来ない、特別な存在になっていたのだ。
隣にいて、楽しくて、もっと近付きたかったから。
だから、自分よりはるかに高くて遠い存在だと知ったとき、嫉妬の他に不安や焦りや落ち着かない感情が混濁して、溢れだしてしまったのだ。
もっと、それに早く気付ければよかった。
「元気がないときは、おいしいものを食べるのが一番です。大切な誰かと一緒にね」
田宮が去り際に残した提案は、うららが今すぐにでもしたいことだった。
☀☀☀
結局、染みついた悪習からは抜け出せず、今日も深夜まで作業をしてしまった。
てっぺんまで上った時針と窓からのぞく星空を見ると、いつもの流れで二階の電気がついているか確認してしまう。しかし、休憩室の二階も、氷彗の研究室の三階も、真っ暗だった。
「何、期待してたんだろう」
口に出して気分を誤魔化すと、うららは荷物をまとめ、研究室を後にした。
階段を降り、施錠された出入り口を開けて外に出る。暖かな外気が肌を撫で上げるのを感じると、もう春もお終いかと思った。
試料運搬用のなだらかなスロープを歩いていく。
すると不意に、背後の暗闇から気配を感じた。
その正体を確かめる間もなく、右手首が何者かにつかまれる。冷たい体温に、思わず背筋が震えあがった。
「——っ!?」
固唾を飲み込み、恐る恐る振り返る。
すると、そこには長い黒髪の白装束の女がいた。
不気味にゼェゼェと荒い息を吐き、ゆらゆらと体が動く様は、まさしく幽霊そのものだった。
「で、でででででででで出た——————————————————っ!!」
「ま、待って。落ち着いて、下さい。私です! 怪しい者じゃありません!」
「……へ? 鳥見川、さん?」
雲間から月が顔を出すと、柔らかな光がその姿を映し出した。
現れたのは、今一番会いたかった相手だった。
うららは、ぱちくりと瞬きをする。
「よかった……間に合いました」
ここまで走ってきたのだろうか。氷彗の髪は少々乱れていて、首筋には薄く汗が滲んでいた。
突然のことで、うららが呆気にとられているうちに、氷彗は息を整えていた。
そして、上下する肩が落ち着くと、こちらにグイッと顔を近づけてくる。
「時期も時間も、少し遅いですけれど……お花見をしましょう!」
中編へ続きます。




